Story.5 小さな盗人(後編)

「姉、ちゃん……?」
「……ロキ」
 カテリナは項垂れ、静かに弟の名を呟く。
「あれ、おれ屋根から落ちて……なんで姉ちゃんが?」
 ゆっくりと目を開くとぼんやりとした声で問い、上体だけ起こすと緩慢な動作で辺りを見回した。そして経緯はよく分からないがもう危険はないということを察したらしく、再び姉と視線を合わせる。
 姉――カテリナは今にも消え入りそうに震えた声で、もう一度弟の名を呼んだ。
「……ロキ。最近、昼夜関係なく無断で出歩くことが多かったね。心配になって追いかけてみれば……こういうことだったの」
 彼女の言葉を震わせていたのは――――怒り。
「なんでこんなことしたの!?」
 打って変わって大きな声を出すと、必死の形相でロキの肩を両手で掴み揺さぶる。
「なんでこんなことしたかって訊いてるの!」
「カテリナ、少し落ち着……」
「お静かに願えますか!」
 カテリナの、強く怒気が滲む声色に閉口するハール。痛いほどに張り詰めた空気のなか、誰も何も言い出せずただ成り行きを見守る。
 赤銅色の入り日に照らされた煉瓦の路に、姉弟の影が黒く、深く伸びる。
 ロキはカテリナの瞳を見つめる。――――姉のこんな必死な表情は、初めて見た。
(初めて……?)
 いや――――何年か前、ロキが更に幼かった頃に流行り風邪にかかって高熱を出した。その時彼女はうつる危険も憚らず、ずっとつききっきりで看病してくれた。その時の、必死な表情と今彼女が浮かべているそれは、全く同じだった。必死で、今にも泣きそうな――――
 ――そうだ、姉はいつだって自身より自分を想ってくれていた。優先してくれていた。そしてそれを分かった上で、甘えていた。そんな彼女が本や羊皮紙と向き合うことに夢中になって、何だか姉を取られたような気がして少し寂しかったけど、あの姉がそこまで好きななったことだからこそ、どうにかその手伝いをしたくて――――……
「姉ちゃんが、学校行けるように……」
「え……」
 目覚めたばかりで靄のかかった意識のなか、どうにか想いを伝えようと喉から掠れた声を絞り出す。
「ねえちゃん、手紙がきてもずっと暗い顔してた。行きたくても行けなかったんだよね? ……お金、足りないからだと、思って……」
「――――……!」
 ある朝、カテリナ宛ての手紙が来た。首都にある、国営の全寮制学校からの招致状だった。
 自分はただ好きで勉強していただけだったから、予想外のことだった。そう、自分は、ただ『好き』で――――。
 しかし問題がある。弟を残していくのが心配だ。いまだに弟は自分にべったりなのだ。首都へ学びに行けるのは嬉しい。そしてありがたいことに資金的な援助も十分にしてくれるという。けれど、弟の傍にはいられない。自分がいなくなってしまって大丈夫なのだろうか。手紙を見つめては溜め息をつき、悩んだ。そんな時、弟が訊ねてきた。

「ねえちゃん、すごい学校から誘われたんでしょ? ……行かないの?」
「行かないって、わけじゃないけど……」
「じゃあ、行くの?」

 ほら、今だってこんなに不安げな顔で訊いてくる。こんな顔をされたら置いていける訳がない。何と返答したらよいいか分からなくて、ただ笑みを向けるしかできなかった。あの時自分は、上手く笑えていただろうか。
 はっきりと、『行く』と言えない。
 だってほら、こうやってイタズラしたりふざけたりして自分を困らせる。まだ弟は幼い。
 弟が心配だ。でも学校にも行きたい。行きたくても、行けない。
 そう、行かせてあげたかったから、ただ好きで勉強していただけだった。自分は、ただ『弟が、好き』で――――。
「……離れられなかったのは、お姉ちゃんの方だったね」
 目線を合わせる。先程の怒気を孕んだ口調が嘘だったかのように、今度は静かな、諭すような声だった。
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