Story.2 優しさの代償

 すぐには返す言葉が見つからず、ハールは彼女に黙って向き合う。
「なっ……レイ……ッ?」
 突然、押し付けられた人の体温。 
 明らかに動揺した顔をしているだろう。顔を見られないで済んだので、そういう意味では何とか中の幸い――――などと考えている余裕はなかった。
「ほんとに明日……行くの?」
 いつものように引き離そうとしたが、その低い声に手が止まる。
「あ、あぁ」
「……あたし、記憶師なんだよ」
 今更何を言うのか。先刻までその話をしていたばかりだと、ハールは訝しむ。が、
「その気になればハールがあたしのことすきになるように記憶を書き換えるのなんて簡単なんだよ」
 その言葉に、思わずレイシェルに目を遣る。彼女は感情の読めない瞳でハールを見上げていた。
「……何でしないと思う?」
 ――その時、ほんの微かに木の軋む音が聞こえた気がした。
「おい、今誰か扉を、」
「誤魔化さないで」
 苛立った声がハールの言葉を遮ると、強引に頭に手を回して引き寄せた。
「黙ってよ」
「――ッ、レイッ!」
 突然のことだったので身体ががくりと前のめりになりかける。が、慌てて体勢を立て直すと肩を押して遠ざけた。咄嗟だったので力が強かったかもしれないが、今回ばかりは気にかけていられなかった。
「あのな、気持ちは嬉しい、けど、そういうのは」
「そういうのは、何? 後ろめたいことでもあるの? それとも――」
 不自然に間を挟みつつも拒否をどうにか言葉にするが、レイシェルは不満げにハールを睨め付けた。身体は後ろに押し戻されたが気持ちは少しも引く気配はなく、語気も強く問い質す。
「大切な人でもいるの?」

 無言。

 ハールが微かに息を呑むのを感じ、レイシェルの目が据わる。確かに今、彼は答えられなかったのではなく――――『答えなかった』。
「……わかった、もういい」
 沈黙するハールに、冷たい声と眼差しを向ける。
「――――いる」
 レイシェルは目を丸くし、何かを言おうと口を開いた。
「…………けど、そういうのじゃ、ない」
 ――が。すぐに唇を緩く結んだ。そして呆れと蔑如の入り混じった瞳でハールを見つめる。
「それ、優しいつもり?」
 眉を顰めながら言うレイシェル。ハールとしては予想していなかった言葉に何と答えてよいか迷い、再び黙ってしまう。
「馬鹿。最低」
 彼女の言う『優しい』の意味がわからないまま罵言を吐かれたが、反論する気が起きない。むしろ詫び言が自然と口から出てきそうな心持ちだった。
 今夜幾度目かの膠着した空気。ハールは気まずさに目を逸らす。レイシェルの表情は窺えない。そして、先にその静寂を破ったのは――――
「……ハール」
 レイシェルだった。
「早く、帰ってきてよね」
 何かを諦めたかのように笑む。
「帰ってきたら、覚悟しておいてよ」
 だがすぐにいつもの強気なそれに変わる。この数分の間に彼女のなかで何があったか分からなかった。本来ならば、その意味を理解しなければならなかったのかもしれない。
 レイシェルは感情を包み隠さない。しかしそのすべてをこちらが受け取り、理解できるわけではないのだ。
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