Story.2 優しさの代償





「ここに座ってくれる?」
 案内された部屋の中は、良く言えば素朴――率直に言えば殺風景で、木製の椅子が二つ、向き合って置いてあるだけだった。窓からカーテン越しに差し込む光が、室内をセピア色に染め上げる。
 少女は言われた通りに椅子に座ると、ココレットが正面に座った。
「私は何をすれば……」
「特別なことはしなくて平気よ。私の言う通りにしてくれればいいわ……じゃあ始めるわね」
 そう言うとココレットは少女の額の前に右手を翳した。
「目を閉じて……」
 少女は黙って目を閉じる。ココレットの指先に、小さな光が灯った。目を瞑っていたのでそれは分からなかったのだが、少し額が暖かいと感じた。そして、そこを中心としてだんだんと眠気が身体中に広がっていく感覚――――。
 すぐに閉じている瞼が重みを増す。疲労感に少し似ていたが、眠いというだけで、それに伴うような不快さは感じなかった。
「貴女は、記憶を失う直前に戻っていきます」
 徐々に微睡みが心地好いとすら感じられるようになっていく。実際の温度に変化はないはずなのに、柔らかな毛布に包まれているような、満ち足りた暖かさを感じる。そのなかで耳に届く声だけが、自分の全てのような気がした。その声が、この微睡みと同じくらい、ひどく心地好い。むしろ、この声があるからこそ、そう感じるのだろうか。まるでそれが、世界で最高の、唯一にして絶対の旋律であるかのように、それしか耳が受け入れようとしない。ただ喋っているだけであるはずなのに、聴き惚れる。
「貴女の、名前は……?」
 先程の言葉からどれくらい経ったのか、時間の感覚がない。数秒か、もしくは数分か。もう、頭では何も考えていなかった。口が勝手に言葉を紡いでいく。
「……リ、……セ……」
 小さく唇を動かして、無意識の内に発された二文字。それが、そうだという確信は自身ではないが、間違い無く、それは――  
「……そう、貴女の名前は、『リセ』っていうのね? ……姓は?」
「シル、ヴィ……ア」  
「……『リセ・シルヴィア』。それが、貴女の名前?」
 少女――――いや、リセは、ゆっくりとした動作で頷いた。その後数問、ココレットは簡単な質問を続けた。あまりすぐに心の深い位置にあることを訊こうとすれば、精神に多大な負担がかかるからだ。声は聞き取るのがやっとという小ささではあったが、リセはそれらの問いに淡々と答えていった。  
 ――この調子なら、きっと記憶も完全に戻るだろう。ココレットはそう思う。そしてそろそろ記憶を引き出されるのにも慣れた頃だろうと、肝心の部分をリセに問うた。
「貴女は記憶を失くすその瞬間――――どんな気持ちだった?」
 だからといって、急に中心的部分は訊かない。用心深すぎるかもしれないが、それ程記憶は壊れやすく、不安定なものなのだ。
 人間の記憶は、時に何よりも大切なもの。しかし、それさえも簡単に失ってしまう程、人は弱い。そのことを、今まで沢山の記憶に触れてきた記憶師である自分はよく分かっているつもりだ。
「驚いた? ……悲しかった?」
 ココレットは思い付いた感情の名を、選択肢として提示する。……しかし、答えはそのどれとも違っていた。
「……や」
 リセの顔が微かに歪み、

「いや……! なんでおいてくの……!」

 ――雫が、頬を伝った。
「なんで? なんで……?」
 閉じられた瞳から硝子の粒のような涙滴が溢れ、ぽろぽろと頬を零れ落ちていく。嗚咽と共に絞り出す声は、まるで親を求める子供のようにひどく幼く、悲痛だった。
「やだ、いっしょにいく……!」
 ふいに彼女が、ふらりと椅子から立ち上がった。
「リ……セ……?」
 彼女の瞼が、ゆっくりと開く。涙に濡れた長い睫毛が震え、その間から金の瞳が覗いた。
 しかし、施術中に目が覚めるなど本来ありえないこと。予想外の反応に、ココレットは治療の最中であるにも関わらず困惑の色を隠せない。
「……おいてかないで! いやっ……いや……ッ!」
 ――身体に軽い衝撃と微かな重み。
 一拍おいてからようやく今自分がリセに抱き着かれているということを把握した。記憶師であることも瞬間的に忘れてしまうほどの、イレギュラーな事態の連続。
「リ…………、ッ痛!」
 強く抱きしめられ背に細い指が食い込んだ途端、我に返った。そしてまだ彼女に“問いをかけた”ままであったことを思い出す。
 ――――まずい。
 これ以上は彼女に負荷がかかり過ぎると判断し、ココレットは咄嗟に質問を変えた。
「……っ、もうその質問はいいわ、じゃあ、貴女は……何処から来たの?」
 瞬間、リセの身体がびくりと震えた。

「いやあぁあ――ッ!!」
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