Story.16 きざはしの歌 -1/2の景色-
あの時は解らなかった。解らなかったが、感じていた。そしてそれに気付かなかった。気付けるような世界ではなかった。
『こうしていて、フェスタがどう感じているかです』
けれど。どこにもいけなかった野良猫の自分は置いてきたのだ。獣人でも不自由な治癒魔法でも、未熟な歌でも “フェスタ・ローゼル”を受け入れてくれる世界に出逢えた。陳腐な言葉は使いたくないが、きっと自分の短い生における二度目の奇跡と呼ぶべき出逢い。過去がどうであろうと、炎の幻影にいくら否定されようとも――それが真実。
「まあ、だからな。何が言いたかったかというと――楽しめ」
『それが大切なのです』
――“楽しむ”。
薄らと色付いていたものが、確信に変わる。なんと簡単で難しいことだったのだろう。母と手を繋いで歌っていた時、確かに楽しかったのに。独りになって、擦り切れていって、歌に縋っているのに求めてはいなくて。そんな毎日のなかでいつの間にかただ生きていくための術となり、そこに感情はなくなっていた。
『どうか……どうか、離れていても手を繋げる方と、いつか貴女も出逢ってくださいな』
そして子供の自分はこう続けた。
『おかあさま、それは、ひとりだけですか? だったら私は、おかあさまがいれば十分です』
その少しあとの自分だったならば、そこには彼も入るのだろう。
『何人いてもよいのです。二人でも、三人でも、四人でも、五人でも。それがどんな関係でも』
母亡きあと、彼が消えたと同時に、世界は彼しかいなくなった。いや、世界が彼になってしまった。彼以外は要らないし、彼がいなくても生きていけるならば、そんな自分も要らない。変わっているのに、変わらない景色。明日を告げるは時計の針だけで、実際はあの日から何一つ“今日”のままで明日など来ない。
『ともに在るだけで生きる喜びを分かち合ってくれるひと。それは、多いほどよいのです。そうすればきっと、貴女は何でもできるから。大切なひとたちと、貴女の人生を楽しんでください。歌が、そこに彩りを与えてくれますように』
音楽の知識は身を守ってくれる。歌っていれば昔のままの自分でいられる。大丈夫、まだ生きていける。まだ生きていける。そうしてただ生を繋ぎ止めるだけの糸となっていた。その固い結び目を、ほどいて。本来の意味に手を伸ばして、取り戻して――
『どうか、自由に楽しんで。貴女に、歌という名の祝福を』
――思い出す。母は、生きることを楽しむために歌を遺してくれたのだ、と。
「……ええ、解りましたわ」
そして、あの瞳は哀しげだったのではない。似て非なる感情――娘を、愛しんでいたのだ。彼女は、自分以外からも愛されることを願い娘を託したのだ。――歌という名の祝福に。
「善処は……いたします」
その表情に、マレクは満足げに笑った。
「好きなだけじゃ苦しいし、楽しいだけじゃつまらない。だがな、好きと楽しいが合わさったらもう最強なんだ!」
今なら、マレクの言葉が、母の贈り物の意味が理解る。
「楽しむためには自分から手を伸ばさなけりゃな。歌が好きだろ。でも好きならそこで終わりじゃなくて――あと一歩、お前さんの方から歩み寄ってやらねぇとな。どんなにいいもん持っていても、自分で掴まなけりゃそれは真価を発揮しない。歌だけじゃねぇさ。気付いて、望んで、掴んで、初めて自分のものになるんだ」
昨日までの自分では、不可能だったこと。
「……お前さんはもう持ってる。あとは解るな」
「……はい」
荊が絡み、棘に阻まれ、止まっていた針が動き出す。
「今日の課題を経て、もう少し視界を、広げてみようと思いました。私自身の目で見て、感じて……」
フードを上げてくれる人がいた。そしてその先には、知らなかった赤い星海が広がっていたから。
「私が、何を歌いたいのか知りたいから――何をしたいか、自分の手で、選びたいから」
与えられたものから、自ら選んだものへ。
言葉よりも多くを語る紫の瞳。マレクは静かに笑みを深める。
「俺の課題は、合格だな。そもそもお前さんの歌はいいもんなんだ。風に震える水面だった。浅瀬の漣だった。少し不安げに揺れ惑うからこそ、きらきらときらめいているような――だから、大切にな」
「……ありがとうございました。本当に不思議な体験でした。夕暮れの海だって見たのは初めてではなかったんです。なのに、今日の海は、あんなにも――」
「海はお前さんがアリエタにいた時と何も変わっちゃいないぜ」
マレクはヴァロ=ヴ=オーグをベッドに置いて立ち上がるとフェスタの背を叩く。やはりつんのめりそうになる。そして彼はまた笑った。
「変わったのは――」