Story.16 きざはしの歌 -1/2の景色-
『母から受け継いだもの』だから。
『彼とともにあった時のままの自分でいられるもの』だから。
「きっと、歌でなくてもよかったんです。踊りでも詩でも好きになっていたのだと思います」
窓の外を見遣る。あんなにも激しく燃え咲き乱れていた夕景が濃紺の星空に呑まれかけている。――もうすぐ、“今日が死ぬ”。
「大切なひとと繋がるものであれば、あえて乱暴な言い方をするのなら……何でもよかった」
歌と自分を繋いでいたのはそれらだけで、自らの意思は介在しない。声を紡ぎ世界を編むこと自体に何かを見出していたわけではなかった。
そしてそこに“楽しさ”は、なかった。――いや、なくなっていた。
「……でも」
視線をマレクへと戻す。真っ直ぐなその眼差しに影を差すフードは、ない。
「あの夕陽を、海を……いえ、空も空気も、目に見えるものも、見えないものも、そこに至るまでの過程も、その時間にあったすべてが、あまりに……その、なんと表現したらよいのか……本当に、本当に――」
不定形な感情にかたちを与えていく。どの言葉を選べば胸のなかのそれを可能な限りそのままに伝えられるのか、ひとつひとつ丁寧に掬い上げて唇に乗せる。
「……ああ、安っぽい表現しか思い付きません。浅学の身で言葉には、とても……何度も見てきたはずなのに、まるで初めて見たかのような不思議な感覚で……」
言の葉一枚一枚を選んでいるうちにも、窓の外の星たちが少しずつ輝きを増してゆく。それでも、急かす者はこの部屋には誰もいない。フェスタは小さく息を吸うと、しっかりと榛色の目を見つめて言った。
「誰かに伝えたいと……いえ、そんな高尚な気持ちではありません。ただ……何かしたいと、思ったのです」
握った手を、さらに深く握る。
「確かに、歌は自分から望んで手に入れたのではなく、与えられたものだったかもしれません。――それでも、私の手のなかにあるのは踊りでも詩でもなく、歌なのです。歌で、何かしたいと、強く思ったのです」
まるで、掴んだものを手放すまいとするかのように。
「初めて、歌ってみたいと、思ったのです」
そして、窓の外で輝いていた星が紫水晶の瞳に降りてくる。
「私のために、私が感じたことを――」
目を閉じて瞼の裏に描く。胸の高鳴りを、衝動を、息を呑んだ一瞬の世界を。
「――赤々と輝く、海の歌を」
今まで、自分は、自分のために、自分の意思で歌ったことがなかった。しかし昨日旅団の前で歌った『エルフの森深く』は、主人公が消えた恋人を捜して夜の森を彷徨い歩く内容だった。この歌が彼らの耳に適っていたのは――つまり、無意識であったが――そういうことなのだろう。自分で選んだ曲。そして楽譜をなぞるだけではなく、自分の感情で、少なからず自分のために歌っていた。
「……そうか」
静かにフェスタの言葉に耳を傾けていたマレクが頷く。
「まあ、八割方合ってるな。お前さんは――……っと、俺が講釈垂れる前に、今日の成果を聴かせてもらおうか」
言いながらマレクは立ち上がると部屋の隅からヴァロ=ヴ=オーグと楽譜を手にして戻ってきた。譜は『その舞踏は赤き星々とともに』。渡されたフェスタはもう一つの耳を立てて驚きつつ、思わず片手が静止のかたちを取る。
「えっ、でも……」
「さっきの顔を見たら昼間とはまったく違う仕上がりになるのは解かるさ。何せ、俺は歌が――歌が好きな奴が好きだからな!」
破顔一笑、相棒を携え再びベッドに腰掛ける。フェスタは口を開きかけるがすぐに噤む。迷った視線の先、ハールと目が合う。笑みも、頷きもない。特に、何を伝えられたわけではないけれど。それでも、その碧のお陰で落ち着いたのは事実で。深呼吸をひとつ。そして、椅子から立ち上がった。マレクはさらに笑みを深めると硬く太い指で弓を握り、弦に躍らせる。無骨な手先から生み出されているのが信じられないほどに繊細な音のしずくが、弦から滴り宙に舞う。