Story.16 きざはしの歌 -1/2の景色-

 座ったまま屋根を見回す。補修したのだと一目瞭然の板だらけだが、穴は塞がり、砕かれた煉瓦も重さが片寄らないよう落ちそうにない場所に分けてまとめておいたため、惨状と呼ぶベき状態からはかなり遠退いた。これで依頼は完遂と言ってもいいだろう。
「……今日は、ありがとうございました。練習まで付き合っていただいて、剣を出させるような状況にまで巻き込んだ上に、こんなことまで……」
「いや、さっきも言ったけどオレこういうの嫌いじゃないし、本物の火喰鳥も見られたし」
 少し想像とは違ったけど、とハールは苦笑する。暫しの無言。波の音だけがその場に響く。
「……すべて一人でやってきましたし、一人で生きていけると思っていました」
 水が重なり合う涼やかな音の間に、少女の声が雫のようにぽつりぽつりと落ちていく。
「でも、私のことのはずなのに、私、一人ではできなくて……」
 視界を阻むフードのせいでハールの表情は窺えない。半分から上が見えないのは、見慣れた景色だった。
「今まで、屋根を探して、食べて、寝て、それを守るために動いて……全部、できていると思っていたのに」
 震える声。
「でもそれって、本当に生きてしかいませんでしたのね」
 静寂。潮騒。茜に染まった屋根。
「だけって……生きてるだけですげぇことだろ」
「そう……ですが」
 思案する素振りを見せ、ややあってハールが口を開く。
「今までのお前にとっては、それが必要なすべてだったってことだろ。できてたんだよ、全部。やり方はどうであれ、それは本当だろ」
 顔を上げる。――少年は、優しく笑んでいた。
「ただ、必要なことが増えたってだけじゃないのか。今は視界が――世界が開けたから」
「――……」
 ハールは立ち上がり、彼女の視線はそれを追う。もう一つの耳は被ったフードで見えていないはずなのに、その姿はどことなく行儀よく座った猫を連想させた。手を差し出す彼。昼間とは違い、引っ張り上げてもらうような状況ではない。必要性を図りかね若干戸惑いを見せるフェスタに、苦笑を漏らす。
「……これは、“余計なお世話だ”って叩かれる寸前だったりするのか?」
「いっ、いいえ……!」
 慌てて手を取り腰を上げる。その手を離すとハールは海の方を向き――不意に息を呑んだのが感じられた。そんな彼を不思議そうに見つめるフェスタ。
「ハールさん?」
「お前、それ暑いだろ」
 彼の指先がフードの縁に触れる。何を指しているのかは分かったが、唐突な質問に目を丸くする。
「……外、ですから」
 それだけ言い、目深く被り直す。だが否定をしなかったため、ハールは触れるだけだった縁を軽く摘まむ。
「誰も見てねぇって」
 少しだけ下へ引く。角度からいえば自分たちが見えることはまずなかった。それでも、彼女は隠し続けていた。恐る恐る見上げてくる紫の瞳には、不安はあれど拒否はない。
「いえ、でも……」
「大丈夫」
 彼女はフードを両手で抑えているものの、それは形だけのような緩さで抵抗はない。ハールは笑むとそれを下す。
「あ……っ」
 一陣の風が、纏わりついていた熱を嘘だったかのように洗い去る。同時に目に飛び込んできたのは――
「……それ、被ったままじゃ見えねぇだろ?」

 ――光り輝く、一面の赤い星!

 朱、紅、緋、知っている色、知らなかった色――この世のありとあらゆる赤を集めた宝石箱は風に呼吸し、絶え間なく輝く。まるで太陽が溶け込んだかのような黄金が鮮やかに揺れ、その波間を彩っていた。
「――――……」
 空に浮かぶ雲は様々な光を映し幻想的な色合いを見せる。茜に燃え、紫に陰り、薄桃に咲く。儚くも圧倒的な存在感はあの丘でそよぐ千年樹を彷彿とさせた。沈みゆく夕陽に照らされ煌めく海。鮮烈な色彩を放つ空。何度も見てきたはずなのに――見えていなかったもの。感じられなかったこと。昨日までは無色だった感情に、映り込む色たち。
「……海って、青いだけではありませんでしたのね」
 フェスタの指が自身の髪にそっと触れる。
「……そりゃそうだろ?」
 当たり前だという気持ちが滲む不思議そうな声。その飾らなさに彼女は緩やかに笑んだ。
「なあ」
 潮風が髪をさらってゆく。汗ばんだ肌に心地好い大海原の息吹。全身を包む疲労は不思議と夕凪に触れた瞬間に清涼感へと色を変える。そしてそれが届いたのは、身体だけではなかった。
「今日、楽しかったか?」
 目を遣れば、その声と同じく穏やかな碧がこちらへ向けられていた。今日一日を思い返す。まだ橋の先に見えているというのに、アリエタを発ったのが遠い昔のことのように感じられた。
「…………」
 初めて海を見たかの如き瞳で、彼女は短くその問いに答える。
 そして――生まれる衝動が、あった。
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