Story.16 きざはしの歌 -1/2の景色-

 炎を纏った小石の群れが途切れた瞬間、彼女の声を合図に煙突の影からそれぞれ左右に飛び出した。そのまま旋回する火喰鳥の下を一気に走り抜ける。距離こそないものの、もし背後から攻撃されれば防ぎようがないという危機感にフェスタは心臓が早鐘を打つのを感じた。何かから逃れるために走ることはよくあった。むしろ、走るという行為はそのためにあったと言っても過言ではない。しかし、“その逆”は――
(初めて、かもしれませんわね。でもこれからは……)
 その時、不意に足が空を蹴った。不快な浮遊感に全身を巡る血液が凍る。突如、屋根の遥か下にあるはずの地面が視界に映る。小さな人間が動いているのが見える。そこで散乱していた瓦礫に躓いたのだと気付いた。
「――――あ、」

 終わった。

 というのがまず浮かんだ言葉。

 次に、フードすら取れず陽向を歩けないような自分が一瞬でも“そんなこと”を思った罰でも当たったのだろうという想い。確かに逃げてはいない。今はアリエタでオレンジを盗み、追いかけられたりなどしていないのだ。だがつまり、それは腕を引いて助けてくれた“彼”はいないということでもあって。

 最後に、がくり、と衝撃。右腕が痛む感覚。

「……っぶねー」
 ――が、それは石畳に叩きつけられたのではなく腕を強く掴まれたためのもの。
「――――……」
「あー、焦った……! 気をつけろよ」
 言いながら離される腕。彼は何でもなかったかのように手を伸ばしてきた。何でもなかったかのように。――まるで、当然のように。
「……は、はい」
 呆けた顔をしている自分に気付くと慌てて気を引き締める。転べば屋根から落ちそうになる程度には端まで来た。つまりは回り込んでの位置の交換に成功したのだ。これで向こうの背後に広がるのは大海原である。いつまでも相手に背中を見せているわけにはいかないとフェスタは素早く振り返り―― 
「……ッ」
 眼前に再び降り注ぐ炎石。しかし彼女は臆せずナイフを取り出す。炎が紫水晶の瞳に映り込む。同時、続けざまに高い金属音。
「上出来ですわ、用心棒さん?」
 屋根に小石が落ちる音が幾重にも響く。――そして、熱く燃えるそれらが紫眼を焼くことはなかった。
「それはどうも」
 フェスタの前で剣を構えるハール。その足元には熱を失った炎石たちがただの煉瓦の欠片となって転がっていた。
「酒場の時といい意外なところで役に立つもんだな。昔はそんな剣の使い方一体いつするんだと思ったけど」
 露払いという彼女の言葉通り、“戦う”よりは本当に“払う”という行為に近い。そもそも魔獣と対等に戦えるかと問われれば間違いなく否だ。しかしそれは絶対条件ではなく、脅し程度ができれば――いや、それすら叶わなくとも、ここは面倒だと余所へ飛び立ってもらえれば目標は達成である。火喰鳥は炎石を吐き出し終わると身を翻し空に円を描くように飛ぶ行動へ戻った。あの間に体内で火を生成しているのかもしれない。フェスタはその動きを目で追いながらナイフの軌道を予測する。
「いけそうか?」
「今集中しておりますので……!」
 大翼が丸い身体を覆い隠しながら優雅に上下する。狙えそうな瞬間がわずかにあるのがもどかしいが、それに惑わされ投げたとしても風圧で逸れるのが目に見えている。
(横からは無理……となると、やはり正面でしょうか)
 本当に当てようとするにしても危機感を煽るだけにしても、それが最適解だろう。恐らく胴体は両腕に抱えて丁度よく収まる程度。酒場の的よりはやや小さいが、あの大きな翼さえなければ命中させるのが無理というほどではない。動き回っているのだから、当然それより難易度は高いが。火喰鳥はまるで「立ち去れ」とでも言っているかのように二人を睥睨すると――あまりに円らな瞳のため正直怖くはない――翼を広げて身体を斜めに傾けた。時計回りで一時の辺り。あと数秒後にはこちらへ向かって飛んでくるはず。その瞬間を狙いナイフを構えるフェスタ。肘を曲げ、肩から下の余計な力を抜く。呼吸を整えて、手首を引く。
「……ッ」
 勢いをつけて素早く腕を伸ばした。そして柄を指から離す――寸前、嘴が開いた。
「――下がってろ!」
13/29ページ
スキ