Story.16 きざはしの歌 -1/2の景色-

 動揺する自分を抑え込みながら、渡された紙に並んだ記号へ目を通す。声を出さず唇をわずかに動かしてそれをなぞると、フェスタは頷いた。彼女のように歌った経験などないし、意識したからといってすぐにできるとは思わない。けれどこの歌ならば、バジオールのあの歌よりは明るい雰囲気になるはずだ。
「じゃあいくぞ」
 ――前奏。今はヴァロ=ヴ=オーグのみだが、三人で重ね奏でればさらに華やかさと深みがでるのだろう。規則的な弦を弾く音。ロミルダ嬢の気持ちが高まっていくのを表現しているのだろうか。そんな想いを巡らせながら、顎を引き、大きく息を吸う。

「ああ、未だ見ぬ愛しい貴男!」

 期待に胸を膨らませ、愛を夢見る少女を思い描く。

「何色の瞳で私を見つめるの? どんな声で私に愛を囁くの?」

 顔すら知らぬ者にそれほど希望を見出せるなど、なんと育ちのいいことか ――皮肉めいた思考が泡のように水底からひとつ、ふたつ。慌てて掻き消す。

「高鳴る鼓動はまるで燃える波のよう」

 まあ、不安で海に身を投げるよりは踊る方がどう考えてもよい。しかし波が燃える、とは。

「この赤い星々を散らして、駆け出してしまいたい――」

 星、星? 夕方に? もう夜に近い時間なのだろうか。それを、散らす? 嚥下できない詞が、喉に絡んで――

 ふつり、と。糸が切れるように物語が止まる。音というページを失った歌は行き場を失くし、ただの文字となって宙に溶け消えていった。
「途中ですまないな」
 冷たくも、まして責めている節もまるでない。だが、その声色は下手だと怒られた方がまだ救われると思わせるほどに、素直な感想が滲み出ていた。
「……昨日のバジオールはよかったんだがなぁ」
 溜め息混じりに言うと、頭をがしがしと片手で掻く。途切れた音や彼の表情、声が、純然たる事実を突き付ける。

 これ以上、聴くに値しない。

「あ……」
 意味のない言葉が漏れる。失敗は、していないはずだ。譜面通りに歌ったし、可能な限り明るく聞こえるように努めた。それが、まったく通用しない。越えるべき壁を登るどころか、恐らくマレクの基準ではその壁に辿り着いてすらいないのだ。やはり自分には荷が勝ちすぎる。今からでも辞退するべきか。いや、余計に駄目だ。そんな無責任な――誰に頼られることもなく、誰を頼ることもなく。そんな人生で初めて感じたそれは、投げ捨てるにしても背負うにしても、あまりに、重かった。
「もしかしてお前さんは――」
 その時、不意にドアが鳴った。マレクが腰を上げ取っ手に手をかける。彼の視界から自らが消えたと認識した瞬間、呼吸が喉を通った。
「どうも、この部屋は雨漏りしてないかい」
 訪ねてきたのは宿の主だった。それを認めると彼は扉を開ける。そこには、左手にバケツ、右手には工具を持った初老の男が立っていた。
「昨日の雨が酷かったせいか雨漏りの苦情が多くてね。ここ数日妙な音もしていたし、屋根が壊れたのかねぇ……煉瓦を敷き替えたばかりなんだが」
「いや、この部屋は何ともねぇ。……旦那が屋根の修理を?」
「ああ、確認はここが最後だからね。今から屋根に上って一仕事さ」
「ほーう……」
 何の変哲もない会話。しかしマレクはなぜか満足げに赤い跡が走る口の端を吊り上げると、残る二人を見遣った。
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