Story.16 きざはしの歌 -1/2の景色-




 時間は昼まで遡る。

「……まずまず、と言ったところだな」
 そう言いマレクが弓を弦から離し、フェスタは小さく息をついた。緊張していた身体からやや力が抜け、同時に視界の上半分を覆うフードの影が揺れる。
「って言うか、お前さん被ってるそれ邪魔じゃねぇのか。別に俺は――」
「いえ、お気になさらず」
「……そうか」
 練習は少しでも早く始めた方がいい。朝食をとったあとすぐに旅団の部屋へ向かい、彼が弾く音に合わせて発声を行った。慣れぬ人々に囲まれて長時間集中しなくてはならないのか、とかなり身構えていたので、そこに待っていたのがマレクだけであったことには安堵した。そのお陰で思っていたよりは声を出せたものの、やはり相手を満足させるには至らなかったようである。
「基礎ができているのは解るんだが、それを忘れてる……とは違うな、少しずつ離れていっちまっていっていたのをその度に正してこなかったがゆえのズレって感じだな」
「その……気まぐれでやっていただけの素人ですので」
「それでここまでできているなら“まずまず上出来”ってこった」
 それはどちらだ、と問おうとした瞬間思い切り――マレクとしては軽く――笑いながら背中を叩かれる。案の定よろけ抗議の視線を向けるフェスタ。獣人に触れる人間は珍しいが彼の身分や人となりを考えると何となく納得はできたので、それは言わないでおいた。
「おおっとすまんすまん。獣人ってのは小さいなぁ、ラウレッタがうちに来たばかりのころを思い出すなぁ」
「皆さんとは長いお付き合いなのですか?」
「ああ。一番の古株はアデーラで最初は二人だったんだ。そこにまだガキだったラウレッタが来て、少しあとにハンスだな。初めは酷いもんだったんだぜ? 自分で言うのもなんだが腕には自信があったし実際ある。それでも見向きもされなくてなー! 宿代がなくて町中で野宿――」
 その時、部屋のドアが開く。向こう側にいた人物を認めた瞬間、フェスタの顔が強張った。
「あれ、昔話? やだもう、やめてよ恥ずかしい」
「ごめん……どうしてもラウレッタが練習見るって聞かなくて」
 ハンスが開けたドアの先には、アデーラに支えられ立つのもやっとといった風のラウレッタがいたのだった。マレクはその様子に溜め息を吐きながら腕を組む。
「お前が心配することは何もねぇ。俺たちが新しく何かを教えるっていうよりは、勘を取り戻して伴奏に慣れてってとこだ……必要なもんは元々持ってる」
 支えられながらも彼女の左手には小さく千切った紙片を束ねたもの、右手にはペンがしっかりと握られていた。それが示す意味にマレクは不機嫌そうに眉を寄せる。少なくとも、あの束分は喋るつもりだ。彼女はハンスにインク壷を持たせ先を浸すと手早くペンを走らせる。
『発声聞かせて』
 見つめられれば焦げ付いてしまいそうな、文字通り熱の込もった眼差し。何を言っても無駄だと悟ったのか、マレクは椅子に座り直し膝の間に挟むようにしてヴァロ=ヴ=オーグを支える。フェスタに視線で合図をすると、指で弦を押さえ弓を滑らせた。
 ――低い音が一色、空間を染める。
 赤い視線に焼かれながら、呼吸。音に合わせ、喉を震わせる。
(……どうやったって彼女が満足することはないでしょう。私が――)

 “獣人”

 だから。

 焼き印のような歌姫の瞳が呼び起こす。

 暗い囁き声が聞こえる街。

 向けられるのは汚物を見るような目。

 盗んだもので繋いだ命。

 殴られる身体。

 “私”だって、本当は――――

「――――……っ」

 獣人だから獣人だから獣人だから獣人だから。
 どうせ獣人が獣人に決まっている獣なんか獣人なんて、
 獣人獣人獣、人、獣、

 ――そいつ獣人じゃない!

 茨のように、手足に、喉に、もっと深いところに絡む呪い。締め付けられ、声が掠れる。

 “私”はいつだってその棘に掻き消されて、焼かれ続けて、

 届かない。

(……ああ、やっぱり)

 だんだんと高くなってゆく美しい音についていこうと必死に声を伸ばす。音と声の境界にざらつきを感じる。横目で窺えば、ラウレッタの眉が寄る。

(……私、なんて)

 ――きっと歌えば彼女のお師匠様の顔に泥を塗ることになるわ。

(それ、は)

 確かに、自分はどうしようもなく“獣人”だ。
 自分はいい。けれど、それでも、彼は、母は――
(お母様は何と仰っていたっけ……)
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