Story.15 きざはしの歌 -暁との邂逅-
「イ、イズム君……っ、ほんとに、いいの?」
「ええ、いつでもどうぞ」
対峙した二人の間を、湿った夜風が吹き抜ける。宿から少し離れたところまで歩いてくるとイズムはリセに間隔を開けて向き合わせ、そして、言ったのだった。
――“模擬戦をしましょう”。
「僕は避けるか防ぐかしかしませんから」
「で、でも、もしイズム君のこと……ッ」
「だからですよ」
模擬とはいえこれから魔法での戦闘行為を行うというのに、彼からは微塵も緊張が感じられない。その背後で、アリエタの街明かりが細かく砕いた橙の硝子片のようにキラキラと輝いている。残念ながら、今のリセにはそれに感じ入る余裕はない。
「リセさんは僕を傷付けたくないでしょう? その気持ちがなければ、いくら練習したところで“本番”では何の意味もありません」
つまり、自分を傷付けたくないなら集中しろ、本気でやれ、練習でできないならいざという時できるはずない――といったところか。声色も表現も優しいが、内容はなかなかのものである。しかしそれは、彼もまた真剣に応えようとしてくれているということ。
金の瞳で、前を見据える。そこに在るのは夜に溶けるような、濃紺の魔導士。
――ああ、強いな。と。
今まで、後ろや隣に居た時に覚えた安心感は、目の前に立ち塞がった瞬間、ただ圧倒的な力として存在していた。恐らく、上手く魔力が制御出来ず加減のない攻撃になったとしても、彼にとってそれは問題ではないに違いない。その立ち姿は、構えているわけでもないのにどこから仕掛けても傷一つ付けられないのだろうという、戦う前から敗北感にも似た感覚さえ呼び起こす。
それでも、もう逃げたくないから。
進みたい場所があるから。
失いたくない場所があるから。
――守りたい人がいるから。
「……よろしく、お願いします」
右手を軽く捻り魔力を現出すると、光球を正面へ投げ飛ばす。続けてもう一球。
「模擬戦、ですよ。相手が殺る気だったら今リセさん死んでますね」
彼は小さな防御壁を造り出し事も無げに白い光を霧散させると、小さく溜め息をつく。
「動かない敵とかただの的です」
「……ッ」
リセが走り出したのを確認し笑む。そのまま放たれる白い光弾を一つ、二つとかわす。軌道は真っ直ぐ、大きさもさほどない。
「それでは威しにもなりませんよ。どうしたら相手が怯むか考えてください」
今度は防御魔法を展開することすらしなかった。普段より威力が下がっている、それは術者である本人が一番感じ取れてはいるのだ。だが、もしものことなど有り得ないと頭では解っていても仲間に攻撃魔法を向けているという事実は自然と出力を弱める。駆けているうちに、やがて彼との距離はゼロに近くなる。懐に飛び込む。視線が絡み合う。右手に灯した魔力を振りかぶり――惑う。
「……買い被ってましたかね?」
彼女の一瞬の隙に蒼壁を紡ぐと、その向こうで、見下す黒の双眸が冷たい光を帯びる。
「それで守れるんですか?」
見開かれる黄金。叩きつけられる粋白。
瞬間、蒼い魔法が破砕音を立てて割れた。
「――いいですね」
唇に三日月を描く。夜空の欠片が舞う。
「今の加減、覚えておいてください。多分そのくらいしても死にはしませんよ」
まさか簡単に割れるとは予想していなかったため、勢いでそのまま彼の横へたたらを踏む。
「ただし、相手に背中は見せないこと」
「ひゃ……っ!」
背に軽く指先が滑った。そうだ、彼の魔法が容易に打ち破られるはずはないのだ。
「常に一手先を読みながら動くこと」
体勢を崩させることを狙い、飛び込んできた勢いを殺さないようあえて脆く造ったのだろうと理解する。
「でも攻めるときは躊躇わない、はギリギリ及第点ですね」
魔力を顕現させながら振り返るリセ。向き合うは余裕を崩さない微笑。
「せっかくこの間合いまで持ち込めたんですから、相手によっては魔法に拘らなくてもいいんですよ。僕だったら普通に蹴り倒しますね」
「蹴……っ!?」
「会話に気をとられない」
気づいた時には彼の手から光帯がほどけていた。二人の周囲を蒼い麟粉を散らしながら走るそれは、リセの右手に巻き付く。
「もう終わりですか?」
引っ張られ前へよろめく。顕現途中の魔力は意識が帯へいった途端に消えていた。もう一度試みようと絡めとられた手を動かそうとするが、痛みはなく加減されているのは明白であるものの抵抗できる強さではない。
「もっときていいんですよ?」
耳元に届く声は、暗に“来い”と煽る。
「……そういう表情できるんですね」
その時。
「――何なさってますの!?」
聞き覚えのある声がやや離れた場所から響く。見れば宿の窓が開けられ、小柄な少女が身を乗り出していたのだった。