Story.14 約束
リェスとは部屋の場所がやや離れているため廊下の途中で別れると、ヒスイは自室へと向かった。ドアを開け、後ろ手で閉める。暗く、しんと静まり返った室内。背を扉に預けもたれ掛かる。そのままずるずると座り込んでしまいたかった。
――が、ノックをする音と共に、背に小さな衝撃が一つ、二つ。閉じたばかりの扉を開ければ、コハクが居た。髪を解き、寝巻きだろうか、長めの白いシャツを着ている。
「ヒスイ……! お帰り」
彼女はヒスイが顔を覗かせた瞬間不安げだった表情を和らげる。しかしその目が裂けた外套の裾を捉えると、再び表情に影が差した。
「……怪我、ない?」
黙って頷くヒスイ。返事をしようとしたのだが、声を出す気力がなかった。先程まで普通にリェスと話していたというのに。相手がコハクだからだろうか。そう思った瞬間、帰ってきてからも今彼女の顔を見るまで気を張っていたのだということに気付く。
「疲れとるよな、何か飲む? あ、さっきメノウ嬢から茶葉が仕舞ってある場所教えてもろて――」
コハクが言うところの“実力行使“が案外効いたのかもしれない。あんなことをしてくる者など――親しげに触れてくる者など、今までには『彼女』しかいなかったから。そんなことを思いながら、彼は重たげに口を開いた。
「あの時鏡には映ってなかったけど……知り合いだった」
コハクは言葉を止め、唇を結ぶ。大きく驚くことも、また他の何らかの表情を浮かべることもなかった。数秒の無言。彼女はただ視線を斜め下に落としただけだった。
「それはまぁ、えらい偶然やなぁ……ヒスイも知っとる奴がおったとは」
顔を上げると、コハクは真顔で問うた。
「ええんか?」
「……いい」
無機質な声。感情を抑えているだけなのか、本当に無感動なのか、若しくは、無感動なのだと思い込もうとしているのか――――。
「……じゃないと、『約束』が守れない」
その言葉はあまりに小さいもので、コハクの耳には届かなかった。彼女はヒスイが何か言っていることは分かったが、伝えようとして発した言葉ではないことも分かったゆえ聞き返すことはしなかった。
「……まぁ、今日はもう寝よか。立ち話させてごめんな。おやすみ」
言うと、コハクは隣の自室へと戻ろうとする。
「……あのさ」
しかしそれを止める声がかかり、コハクは振り返った。
「帰ってくるの、待ってた?」
緩く笑むと、再び彼に背を向けるコハク。
「眠れへんかっただけや」
「……ありがとう」
廊下に出て彼女が自室の扉をくぐったのを見届けると、ヒスイも部屋へと入った。手早く就寝の準備を済ませ、ほぼ倒れ込むようにベッドに身を投げる。きちんと天日干しされた匂いと感触がした。身体に染み込んでいた疲労が重さとなって伸し掛かかり、数秒と経たず酷い眠い気に襲われる。落ちていくような感覚のなか、不意に先程聞いたばかりのコハクの言葉が脳裏に浮かび、やけに鮮明に耳の奥で響いた。
「それはまぁ、えらい偶然やなぁ……ヒスイも知っとる奴がおったとは」
――ヒスイ“も”?
それが指す意味を考える間もなく、意識は深い眠りに溶け消えていった。
To the next story…
up*2014.7.04