Story.14 約束
――転移水晶の光から庭園に放り出される。浮遊感の後、靴底に軽い衝撃と草の擦れる音。
ヒスイは左手首に付けた転移水晶の光が収まったのを確認すると、空を見上げた。そこには光の花びらは舞っておらず、ただ月が高く昇っているだけであった。そして町明かりの代わりに幾千もの星が燈っており、夜を包むのは海風でなく森の香である。――戻ってきたのだ、と、それらは五感を以って実感させた。ヒスイは気持ちを静めるように、或いは沈んだものを吐き出すように深い溜め息をつく。当たり前のことだが、あの町の過ごしやすい温暖な気候は変わっていなかった。それに比べると、やはりここは春と言えど夜は冷える。
蒼海と花雨の港町『アリエタ』。懐かしい響きだ。変わっていなかったのは、暖かさだけではない。海も、千年樹も、そして『彼女』も。
少しの間だが再び触れることができたあの青い髪。その色をアリエタの海のようだと言ったのは、他でもない自分だ。手を伸ばしたのは、無意識だった。目の前で、あの青が、忘れるはずのない青が揺れて――――その直後に起こったことを思い出し、俯く。
「――……」
しかし彼はすぐに顔を上げると、何かを振り切るようにして屋敷へと目を向けた。すると扉の前に影が立っていることに気付いく。その姿形から誰かを認識すると、ヒスイはフードを下ろして駆け寄っていった。
「……ただいま、帰りました」
「お疲れさま!」
明るい声で小首を傾げると、彼女――リェスは笑みを浮かべた。しかしそれを向けられたヒスイの表情は暗い。リェスは笑みを苦笑に変えると、彼の顔を覗き込む。
「……もう、そんな顔しないで。最初から上手くいくなんて思ってなかったよ」
彼女は先程の事を水鏡で見ていたのだろうか。果たしてそれはどこからどこまでなのだろう。そもそも、あの水鏡は何を基点として映しているのだろうか。恐らくどこでも自由に見られるというわけではないのだろう。魔法具といえど限界はある。現に、あれは音声まで中継することはできない。もし基点があのペンダントだとすれば、それを付けた少女はフェスタによってすぐに逃がされてしまったため、以後の戦闘は見られていなかったということになる。どの場面をどんな風に見られていたのかはっきりとは分からない。が、もし状況が分かるような場面を目にしていなかったとしてもヒスイが“失敗した”ということは彼の表情から容易に汲み取れたに違いない。
「……すみません」
「いーのいーの。むしろ、あっさり一回で取ってこられたらどうしようかと思っちゃったー」
冗談っぽくからりと笑うリェス。話の内容にそぐわぬ影の無さである。
「……それじゃあ、意味ないもの」
「え?」
小さく呟かれた最後の言葉だけははっきりと聞き取れず、ヒスイは犬耳をぴくりと立てる。しかしリェスは言い直すことはなく話を続けた。
「それより……そんなに畏まった言い方じゃなくていいんだよ?」
コハクに指摘されたのと同じく敬語を使っていることに関してかとヒスイは考えたが、それについて何かを言う前にリェスが口を開いた。
「“ただいま”」
彼女はずい、と顔を近付け、言い含めるようにして人差し指を立てる。
「ただいま、でいーの。ここはヒスイ君の家なんだから」
「ええと……」
ヒスイは後退りこそしないものの上半身を引く。だが逃がす気はないようで、リェスはさらに顔を近付けた。
「ほら!」
可愛らしく寄せられる眉。どうして良いか分からず、目線を逸らしては戻してを数度繰り返すヒスイ。強要されているわけでもないのだが――いやされているのかもしれないが――不思議と、拒否する気が起きない。躊躇ったのち、ヒスイは彼女の望みを口にした。
「……ただい、ま」
不自然につっかえてはいたが。しかしそれでもリェスは満足げに笑んだ。
「お帰りなさい、ヒスイ君」
温かな言葉と微笑みに戸惑う。柔らかなその微笑は、もうここにはないはずの千年樹の花弁を思わせた。