Story.14 約束
「おはようございます」
階段を降りると、既にハールとイズムが待っていた。ハールは二人を一瞥すると、小さく呟く。
「一言くらい、何か言ってけよな……」
彼らにフェスタがいなくなっていたことは起きて気付いた時点で伝えてある。リセはハールの様子に、弱々しく微笑を浮かべた。
「そんな余裕なかったんだよ……」
生きる意味が一晩にしてひっくり返されてしまったようなものだ。正常でいられる方がおかしいだろう。細部を話しはしなかったが、フレイアとイズムにも昨夜の彼がフェスタの旧知であったことだけは伝えたゆえ、二人ともその会話に口を挟むことはなかった。
「出ましょうか」
以降誰も喋り出す気配のないなか、イズムが口を開いた。その言葉に各々頷くと自然と足は扉に向かう。カウンターにいた宿主の女性に一行は軽く挨拶し、ハールが戸を押す。開いた瞬間、潮風が吹き抜けた。それと同時に海鳥の鳴き声と波の音が聴覚を満たす。昼時より人はやや少ないものの、力強く活気のある声も耳に届いた。彼女達の世界は一夜にして変わったが、アリエタは昨日と同じように、生彩に溢れていた。
外に出るとリセは海鳥を目で追い、空を見上げる。何羽もの鳥が飛び交うなか、ふと舞い降りてくるものがあった。一枚の、千年樹の花弁。波に漂うように風に揺れるそれは、やがて石畳へと落ちた。太陽のせいで今はその淡い光を感じることはない。天候を気にして早く宿を出たものの、空はまだ晴れていた。
「じゃあ、これからアリエタを出る橋に向かうってことでいいな」
しかし、空には天気が悪化することを示す巻層雲が見て取れた。うっすらとした雲が空高く広範囲にかかっている。それは――今は晴れているのに、確かに雨が降ることを予期させるもの。
「いいんですか、ハール」
「いいも何も、どうしようもねぇだろ」
昨日も通った海岸通りを歩きながら、イズムはハールに訊く。だが彼から返ってきたのは予想した通りの言葉だった。彼女の大切な者と敵対するかもしれないからといって、自分達には為す術がない。もう彼女は此処にいないし、居場所も分からない。そして、彼女は自分から姿を消した。
(確かに、勝手にしろとは言ったけどな……)
形の無い苛立ちが燻れるが、その先に続く言葉が彼の胸中に浮かぶことはなかった。代わりに過ぎったのは『猫は死期が近付くと姿を消す』という風説。何故かこんな時に――いや、こんな時だからこそ、浮かんでしまう想像。確かに彼女はケット・シーだが、本物の猫ではない。黙り込むハール。止まった彼らの会話に、今度はフレイアが口を挟んだ。
「まあ、まずは……それについて考えるべきだよね」
“それ”――一同はリセ首にかけられた銀鎖と紅玉に目を向ける。
「言い値、とか随分と強気だったよねぇ。何者かなぁ?」
「あいつと何か話さなかったか?」
リセは昨夜の彼の発言を思い出そうと、少し考える。
「えっと……「ある方からのお願い」って、言ってた」
「どなたかの命令で奪いに来た、ということですか……」
事態はそう単純なものではなさそうであるという予感に、四人は顔を見合わせる。彼の独断で起こした事というわけではないようだ。
「彼、転移水晶を持っていましたね。恐らくあれで帰還したのでしょう。稀少な転移水晶を所持していることと、言い値という発言を併せて考えると……」
「相手さんはそれなりの権力者……かもね。貴族?」
ハールはリセと出逢った当初、彼女が魔物を知らなかったことに対し、世間知らずな温室育ちの令嬢でも知っているような事柄すら知らないのか、と驚いたことを思い出す。それと直接的な繋がりはないかもしれないが、ペンダントや彼女自身を巡る記憶の空白には“その辺りの人間”が絡んでくるのだろうか。貴族なら転移水晶を持っていたとしてもおかしくはない。ただ稀少品であるゆえ、末端の者に持たせるとは考えにくい。となると、昨夜の彼は相当な腹心なのか。
「……まあ、有り得ない線じゃないな。人を動かせる程度の力は持ってるみたいだし、昨日の奴以外にも手駒がいる可能もあるワケか」