Story.14 約束


 その名を、風が強く吹き浚っていった。ゆらゆらと揺蕩っていた花の破片は俄かに舞い上がる。花弁と共にフェスタの長い髪が靡き、鮮やかなその色に花の色が映り輝いた。その様はまるで水面に光が跳ねるよう。彼は思い出したかのように踏み止まり、大きくふらついたものの倒れることからは逃れた。
 目の前に揺れる、海の色。そして何かに求めるように手を伸ばし――
「――きゃ……ッ!?」
 その髪を引くとそのまま引き寄せた。そして後ろから首にもう片方の手を回す。フェスタの喉元で突き付けられた鉄爪が音を立てた。
「……貴男、ですの……?」
 動揺で言葉が揺れる。思考回路が正常に機能しない。これは、嘘か、夢か。
 一瞬しか見えなかったが、彼の顔には『彼』の面影があった。そして、翠の瞳は記憶のなかの穏やかに澄んだその色と重なる。『彼』の冷淡な声など聞いたことがなく気づかなかったが、声自体は、限りなく似ている。似ている? いや――――同じ?
「何か、仰しゃって」
 その言葉に答えはない。凍りついた心臓が暴れる。胸を内側から氷塊で叩かれているようだ。
 『彼』が、こんなことをするはずがない。
 『彼』は苦しい環境でも、影に身を投げることはしなかった。それをしてしまった自分のような者に手を差し延べはしても、こんな風に刃を突き付けることは絶対にしなかった。そうだ、きっと違う。たまたま似ていただけだ。
 その時、自らの名を呼ぶ少女の声が高台に響いた。
「……フェスター!」
 小さかったそれは何度か繰り返されるうちに大きくなっていき、段々と近付いてきているのがわかった。淡く光る闇の向こうに影が四つ揺れている。やがてそれは彼女達だと解る程度になった。
 不意に、フェスタの耳元に顔が寄せられる。

「…………ごめん」

 囁く声。
 同時に、喉に触れる鉄爪の冷たさ。
 何故謝るのか。たった今まで刃を交えていた、“初対面の者同士”ではないか。
 何を、突然。
 違う。違うに決まっている。自分が『彼』を求めるあまりに見間違えてしまっただけだ。違う。違う。
「――フェスタ!」
 リセ達はすぐそこまで着ていた。彼女を宿に帰すより全員で行動する方が安全だと踏んだのだろうか。何にせよ、今自分は髪を掴まれて拘束されている。先程告げられたように“交渉材料”にされるのだろう。
 ――『彼』がそんなことをするはずが、ない。
(信じて、いますわ……)
 フェスタは彼に気付かれぬよう、ナイフを逆手でなく通常の位置に持ち直す。そしてゆっくりと、その刃先を背後に向けた。
「――――ッ!」
 右手に握ったナイフを後ろへ振り上げる。
 僅かな音。ものを断ち切る感覚がすると同時に素早く屈んで彼の腕をすり抜ける。振り向き様にナイフでクローを弾くと金属音が高く響いた。
 突然の事に見開かれた彼の瞳に映るのは、自らの腕から逃れた彼女。そして彼女が纏う桃色の花弁と共に踊るのは――――

 ――――海の色。

 彼女自身のナイフによって断ち切られ、花に紛れてきらきらと輝き散っていく。蒼海を紡いで糸にしたようなそれは、彼の指先を透けて風に消えていった。

(……信じて、います)

 『彼』を信じる。
 だが、もし、もしそうだとしたら――――

 誰かから大切なものを奪っていくなんて、そんなことをさせるわけには、いかない。

 背を流れていた海は肩の上で波打ち、顔の左右に一房ずつ長いままで残された青は花とともに風に踊る。掴まれていた後ろの髪を切って自由になれば、振り向いた間近に彼の顔。フェスタの目に映ったのは、まるで自分が傷付いたかのような顔をした少年。
 その綺麗な翡翠の瞳は、記憶のなかで微笑む『彼』のものと、重なる。

 本当は、心のどこかで解っていた。見間違えるはずがない、と。

「――ヒスイ、さん……?」

 見つめ合う一瞬。

 舞い散る『約束』の花。

 淡い光に包まれるなか、『彼』――――ヒスイは、小さく口を開いた。しかしそこから言葉が生まれることはなく、代わりに少女の声が響く。
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