Story.13 アリエタの夜

「あのね、私記憶喪失なんだ」
 ああでも本当に失くしたわけじゃなくて、私のなかにあるんだけど、鍵が掛かってるの、と付け足す。
 今度こそ本当に予想外だった。普段耳にすることのない単語に、思わず息が止まる。
「……でもね、もしもう一度記憶を失くしても、この傷を見たらみんなと出逢ってからのことは全部思い出せるような気がする」
 リセは右手を胸元に寄せ、左手で包む。
「だから、いいよ」
 言うと、晴れやかな笑顔を見せた。今夜彼女は寂しげな微笑を数度見せていたが、今浮かべているのは、一切の陰りがない純粋な笑みであった。心からそう言っているといることが嫌でも伝わってくる。
 フェスタは眉一つ動かさず黙って話を聴いていた。それは真剣に耳を傾けているようにも、或いは興味が無いようにも見えた。
「まったく……」
 ゆっくりと口を開く。溜め息混じりの声が漏れた。
「……その優しさが命取りにならないことを祈るばかりですわね」
 優しさは、時には凶器となり、代償を伴うこともある。いつだって正しいからこそ、その正しさは両刃の刃となる。だが、今は、少なくとも、今の彼女らのそれは、普遍的な『優しさ』と、そう呼んでも差し支えはないだろうという気がした。
 表面上は刺々しいもののその言葉の本質を理解すると、リセは再び笑んだ。
「何笑ってますの」
「んーん」
 彼女といるとどうも絆される……とは違うが、どこか調子を狂わされる。そろそろペースを戻したいところで少し突っ慳貪に言うと、フェスタはフードから左右に流れてきた髪を掻き上げた。
「……あ、ねぇねぇ、フェスタの髪綺麗だよね!」
 リセも本心からの刺でないと解っているらしく、掻き上げた髪に目をきらきらとさせた。フェスタはそんな彼女に視線を向ける。透き通るような銀に、光の加減で淡い桃色と水色が溶けるように揺れている。特殊といえるほどここまで美しい髪の持ち主に言われたら、厭味と取る者もいたとておかしくはない。
「貴女に言われても……」
「本当にそう思ったんだよー」
「でしょうね」
 頬を膨らませるリセに、彼女にそんな気など微塵もないことを解っているフェスタは小さく溜め息をついた。
「アリエタの海みたいだね」
 フェスタのもう一つの耳がぴくりと跳ねる。その言葉を聞いた瞬間、まるで本当に目の前にいるかのように鮮明に『彼』の笑顔が浮かんだ。
「……あの方も、よくそう言ってくれましたわ」
 しかし、それは一瞬で夜の闇に解け消えた。
 ――大丈夫。ふとしたことでこんなにも『彼』を鮮やかに思い出せるのだ。大丈夫。これからもそうやって生きていくのだ。この胸の痛みは、愛しさと同義だ。
「……さて、ハールさん達もお待たせしていますし帰りましょうか。お話、付き合ってくださってありがとうございました」
 彼女たちが取った宿に自分が“帰る”というのもおかしな話だが。言うと立ち上がり、リセも倣って腰を上げる。
「ううん! こちらこそ連れて来てくれてありがとう……ふお?」
「どうしました?」
「フェスタ、誰かいるみたい」
 フェスタはリセの声に振り返る。その瞬間海風が強く吹き、大量の花弁が一斉に舞い上がった。風に遊ばれるそれは辺り一面を薄桃に染め上げ、視界を花の光が覆う。花弁がかからないよう手を添えて目を細める。花の嵐のその向こうには確かに人影が浮かんでおり、外套が千年樹の花弁を纏った風に揺れていた。
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