Story.13 アリエタの夜

                 †

 数週間後だっただろうか、拍子抜けするほど呆気なく犯人は捕まった。フェスタと彼の予想通り獣人ではなかった。獣の耳が生えていたというのは、結局見間違いか――“そういう事をするのはどうせ”という気持ちからのそれだったのか。
 仕事をクビにされ、妻子にも逃げられた男の死ぬ前の腹いせ、だったそうだ。たった、それだけ。
 あまりにも馬鹿馬鹿しい理由で、怒る気にもならなかった。歌劇や小説にあるような劇的な理由ではない。現実なんてそんなものだ。
 家族など、もう自分にはいない。父親に至っては最初から存在しないようなものだった。職なら、人間であればいくらでもやりようがあるではないか。そんなもの、一度だって得たことすらない。努力はした。獣人というだけで門前払いだった。食い下がった。殴られた。そんなことが数えきれないほどあって、もう真っ当な職に就くことは諦めた。盗んだ林檎一つで三日繋いだ。宿屋や飯屋の残飯も漁った。湧いた虫を払って食べた。何が入っているか分からない包みを運んだこともある。それで誰かが不幸になっていたのかもしれないけれど、その日の分のパンは買えた。
 確かに自分は、汚いこともしてきた。でも、彼は何もしていないのに、こんな世界でも、真っ直ぐにいたのに、なのに、なぜ、彼が。

 住んでいる世界が根本的に違う。

 すべてにおいて価値が、違う。

 同じ、この街に住んで、生きているのに、彼にも、自分にも、ここで生きるすべてのものに、千年樹の花弁は降り注ぐのに。同じなのは、それだけだ。

 なぜ、生きる為の条件が違うのだろう。

 同じ、生きているだけなのに。

 この世界は、生まれた瞬間からすべてを失くしていた自分から、さらに彼まで奪っていくのか。誰かを家で待つことも、誰かが待つ家に帰ることも、陽の当たる通りを一緒に歩くことも、小さなことで笑い合うことも、そんなことも、一人の人間の自棄一つで奪われてしまうというのか。

 そうして一年、また一年と過ぎていく。寄せては返す大勢の旅人も、刻々と色を変える海原も、一つとして同じものはない花弁を舞い踊らせる千年樹も、彼がいない世界ではすべてが等しく色褪せ、時が止まっているのも同然だった。変わったことと言えば、暇つぶしにしていたナイフの投擲が思わぬところで役に立つようになったことぐらいか。誰かの温もりを知ってしまった後の独りの時間は、酷く冷たかった。彼と出逢う前は、これが日常であったと言うのに。
 それでも、“約束”をしたから。神になど祈ったこともないが、別れ際に彼と絡めた指が祈りになるならば、いっそ彼に殉教しようと決めた。綺麗に生きることは無理だけれど、せめて褒めてくれた髪はあのときのまま、長いままで毎日梳こう。誰にも届かずとも、歌うことは忘れないでいよう。もし、また逢えたときに、微笑んでもらえるように。薄汚れたことはしたとしても、あの通りに溜まっている連中のようにだけは、ならない。自分が最下層にまでは堕ちないよう繋ぎ止めていたのは、紛れも無く彼への想いだった。

 そうして一年、また一年と過ぎていく。独りで過ごす何度目かの春がやって来た。変わっているのに、変わらない景色。明日を告げるは時計の針だけで、実際はあの日から何一つ“今日”のままだ。
 温かな陽射しを外套に染み込ませながら、晴れているのにもかかわらず薄暗い例の通りを抜けようとすると、数人の人間が道の端で固まっていた。軽薄な笑い声と、足元からくぐもった呻き声。脚の隙間から見える布。その下に見える獣の耳。果たして、どちらがどちらに対して先に悪事を働いたのか。解らないし、どうでもいい。ただ、自分は――

(どちらにも、ならない)

 通りを抜けて観光客が溢れる市街地の大通りへと辿り着くと雑踏に紛れ、獲物を探す。この前の賭けでは少し多く取ってしまった。あまり反感を買うのは得策ではない。次は少なめに抑えておいて、その埋め合わせは――そんなことを考えながら人波に身を任せていると、旅人らしき四人が視界に入った。同じような年頃の男女が二人ずつ。そのうちの一人がちょうど携帯水晶に手を添えそうだ。あの旅人の旅費を頂くとしよう。

 ――相変わらず彼からの連絡はない。手紙の配達料だって馬鹿にならないのだから致し方ないことだと解っている。いくつか廃屋を点々とした。住所などあって無いようなものだ。向こうだって、逃げた当時とは違う街に住んでいるかもしれない。心のどこかで、果たされることはないと解っている。でも、それでも、それが唯一の意味なら、生きる意味になるのなら、

 いつか、また、花雨の下で。
 それまで、どんなことをしてでも、生きよう。
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