Story.13 アリエタの夜

「そろそろ帰るか。ありがとうな、フェスタ」
「構いませんわ。私も、毎日来る場所ですから」
 月も高く上り、ゆっくりと千年樹に背を向ける一同。こんなに穏やかな時間ならばいくらでも過ごしていたいという気持ちはあるが、このままでいると本当にそうなりかねないゆえ適当に切り上げなくてはならない。リセは数歩歩いては振り返りを繰り返し、名残惜しそうに千年樹を見上げていた。その横顔に、フェスタは躊躇いがちに声をかける。
「あの……私、貴女に、まだ謝らなければならないことが」
 小首を傾げ、見つめてくるリセ。いざ口にしようとした言葉は喉元まで上がってくるもさざ波のように引いていき、また寄せる。フェスタは申し訳なさげに、ちらりと視線を別の方へ向けた。
「その……」
「あー……じゃあ、オレら先に下行って待ってるから」
 彼女の「謝る」という言葉には思い当たる節があったため、ハールはその視線の意味を理解しフレイアとイズムを見遣る。
「高台の下から見上げる千年樹も、またいいかもしれませんね」
「急がなくていいからねー」
 二人もそれは察したようだった。謝罪とは、当人以外の前でやり辛いのが世の常である。フェスタとリセは先に高台を下りていく彼らを見送った。
「何と言うか……出来た方々ですわね」
「ふお?」
 その後ろ姿が見えなくなるとフェスタはリセに向き直り、紫の瞳で見上げてきた。
「……夕方は、頬、申し訳ありませんでした」
「ううん、大丈夫だよ。もう全然痛くない!」
 何を言われるのだろうかと不思議そうな顔をしていたリセだったが、すぐに微笑みを浮かべた。そういえば、宿で謝罪されたのは『暴言』についてであった。フェスタとしてはまた別の問題として受け止めていたのだろう。
「あれは、貴女にではなく……名を言ってしまった私自身に苛ついて」
 リセはその言葉に、柔らかく目を細める。
「……やっぱり、フェスタは本当はいい人だよ」
 僅かに屈んで目線を合わせると、優しく、しかし確かな願いを込めた金の瞳で、紫のそれを覗き込む。
「だから、自分で自分が悪い人なんて、そんな哀しいこと言わないで」
 その月色に映る、一滴の寂しさ。甘やかに響く囁き声が紡ぐ真摯な願い。それは、細い針を突き刺すような痛みを胸に穿った。そんな風に見つめられても、肯定することはできない。窃盗をして生活してきたことは事実であるし、自分の所業を反省するならば、それは今までそうやって生きながらえてきた時間を否定することになる。自分がしてきたことは変わらないし、恐らくこの先も変えられない。
 これからも、此処でこうして生きていく。今日一日が特別だっただけなのだ。獣人である自分にも手を差し延べてくれる人に出逢い、忘れていた優しさというものにも少しだけ触れることができた、たった一日の夢物語。
 だからといって何かが変わったわけでもない。所詮彼女達も、アリエタを訪れては去っていく他の旅人と同じだ。毎日違う旅人が訪れては消えていくことの繰り返し。常に変わっているようで、何も変わってなどいない。夜が明ければ彼女達もそうしてこの地を去り、港町の黒猫は夢から覚めていつもと変わらぬ朝を迎えるのだ。そして、昨日と同じ今日を生きていく。それを繰り返し、この千年樹の元で『彼』を待つために生き――――朽ちるのだ。
「そう言えば、さっきフェスタ毎日来るって言ってたよね?」
「ええ、まあ……」
「えっと、千年樹が好きだから……って、だけじゃないよね、きっと」
 自分を取り巻く時間だけが止まったこの港町で、ただ『彼』を待つためだけに生きていく。解ってはいるのだ。『彼』と此処で再会できる明日なんて来ないことくらい。それでも、自分にはそれしかないから。無条件に生きることを否定されるこんな世界で、苦しくてもわざわざ呼吸するのも、幻想と解っていながらそれでも明日を必死で掴もうとするのも、『彼』の存在があるからだ。もし、それがなかったのなら、きっと、自分は――
「……お聞きになりますか? 急がなくていいと仰っしゃっていただけたことですし、お詫びもかねて旅の思い出に一ついかがでしょう」
 ふと、そんな一筋の光に縋って生きた獣人の、短い生を知っている者がいてもいいかもしれないと思った。自分には、誰の記憶に残ることもなく、看取られることもなく、哀しまれることもなく、独りで野垂れ死ぬ未来しかないことは解っている。だが、もし今日という夢物語が何か影響を及ぼしたとすれば、そんな未来に僅かながら抵抗してみようと思ったことかもしれない。即ち、誰かに、この大きな港町に小さな黒猫が一匹いたことを覚えていてもらうこと。
 ――彼女なら、記憶の片隅に置いておいてくれるかもしれない。
「ある港町の黒猫のお話」
 フェスタはリセを千年樹の根本に誘うと並んで座り、幹に寄り掛かる。淡い花びらは『彼』と二人でこうしていたあの朝のように薄く光を纏い、舞い降りてきた。
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