Story.13 アリエタの夜

 安堵の吐息が言葉に絡まる。ゆっくりと傍へ歩いていき麻袋を床へ置くと、そのまま彼の背に緩く手を回した。
「わ、どうしたの?」
「いいえ、何でもありません」
 様子からすると遺体があったことは知らないようだった。彼はいつも反対側の道から家へ来るから、目にしていないのだろう。
 彼は顔を埋めてくるフェスタのフードを退ける。そこには海の色と垂れた猫の耳があるだけで、表情は見えなかった。
「……何かあった?」
「何も、ありませんわ……」
 あまりにも弱々しい自分の声に少し情けなくなった。心臓が動かなくなった同類を見たとき息が詰まった。それが未来の自分であることを冷静に理解している反面、吐き気を感じた。そしてそれらにどこか慣れてしまったと気付いたとき、自分が自分でないような、自分自身との不安な距離感を覚えた。
 彼は遺体のようにも、自分のようにもならないでほしいと思う。しかし、経緯や結果がどうあったとしても最期を迎えること自体は皆同じだ。それでも、必ず終わる生のなかの一欠片だと解っていても、今目の前にある大切なものに心は熱くなる。この感情に名前などない。恐怖と、不安と、哀しさと、祈りと、安堵と、愛しさ。そのどれでもあってどれでもない。ただひたすらに熱く、苦しく、今にも瞳から溢れてしまいそうなこの感情を伝える言葉を知らない。だから、ただ腕の中にある確かな温度を抱きしめる。
「……なら、よかった」
 彼は何も訊かず、ただ髪を撫でる。本当に何もなく突然不安に襲われたのか、本当は何かがあったのかはっきりとは分からなかった。だが、もし何もなかったとしても、不意にこんな状態になるような生き方をしなくてはならなかったのだ。もし何かあったのだとしたら、それは今すぐ心から消し去ってやりたい。彼女のように治癒魔法は使えないし、使えたとしてもそれは心までは届かない。そうと思うと、自然と回す手に力が篭る。フェスタは僅かに身を捩るが、それが緩むことはなかった。彼もまた、こうしてフェスタが温度を持ち、腕のなかで鼓動を刻んでくれているだけでよかった。
「……心臓の音、します」
「それはまあ、生きてるから」
 当然だという意と笑みを含んだ声。
「フェスタもする」
 そしてそれは、どこまでも優しく。
「……まだ、こうしていられるでしょうか」
「……うん」
 その言葉が示す二重の意味に、ただ、彼は頷いた。
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