Story.13 アリエタの夜


      †

 ――その日は突然やってきた。彼と出逢ってからほぼ一年。朝焼けの高台で微笑みあった日から、半年程度だっただろうか。
 突然、とは言っても、前兆はあった。しかし、黒い靄のような掴みどころのないそれが自分たちを巻きこむとは思ってもみなかった。まるで、何の関係も無い自分たちを。

 ある晴れた日の午後、果実を拾い集めに行った帰り道。以前彼から教えてもらったような場所を自らも開拓し、そこを巡ることは日課になっていた。フェスタは幾つかのオレンジと一房の葡萄――状態がいいとは言えないが、痛んでいる粒を避ければ食べられるだろう――を入れた麻の袋を抱え、陰った路地裏を歩いていた。温暖で乾いた空気のアリエタであるはずなのに、この辺りはどこか冷たく湿った雰囲気がする。観光者にはけして見られることのない、区画整理で空き家が多くなった寂れた地域。浮浪者や破落戸、フェスタのような獣人が多く住みついている。アリエタとしては今すぐにでも取り壊して追い出したいところであろうが、さすがにそこまで非人道的なことはしないようで、そういった噂は住み始めてこの方聞いたことはない。しかしアリエタ側の本音としては自分達のような者を案じてどうのこうのという話ではなく、それが一般居住区や観光客の目に留まる場所へ流れ出るのを避けたいのであろう。ここは、アリエタにとってのゴミを閉じ込めておくための、いわば必要悪の区域なのだ。文字通り、掃き溜めだ。
 フェスタが住処にしているのはその内の一つ、今は使われていない古ぼけた民家である。一部屋だけで広くもなく、床や柱は黒ずんでところどころ腐っている。天井からは青空も若干覗きはしているが、雨風は十分凌げるし冬には辛うじて使える暖炉もある立派な我が家である。今日、彼は仕事が一段落ついたら遊びに来ると言っていた。鍵などといった大層なものは元々ついていないので、もし自分がまだ帰ってきていなかったら上がっていてくれと言ってあるから、もう待っているかもしれない。自然と顔が綻ぶ。あと一つ角を曲がれば、もうすぐだ。誰かが家で待っていてくれるという幸せが自分に訪れるとは夢にも思わなかった。早く帰らなくては。まだ来ていなかったら来ていなかったで、それは待つ楽しみがあるということだ。どちらにしろ――――
「――ッ!?」
 曲がった瞬間、目に飛び込んできたのは襤褸布。その下から覗く、浅黒く骨が浮いた細い腕。
 危うくそのまま上を行きそうになったが直前で踏み止まる。襤褸布だと見えたのは枯茶色の外套であった。そしてそれを纏った――うつ伏せ倒れた、獣人。否、獣人であった者。餓えたのか、餓えて、口にしてはならないものにまで手を伸ばしてしまったのか。もはや生者の色を呈していない指には、まだ腐乱してもいないというのに気の早い蠅が一匹止まっていた。
 ――まず頭に浮かんだのは、「『彼』ではない」という安堵。うつ伏せのため顔は見えず、外套が覆っている上に痩せ過ぎているゆえ性別も分からないが、ほんの三日前にも健康な彼に会ったばかりだ。そんなに短時間でここまで痩せ細るはずはないとは解っていても、一瞬血の気が引いた。哀悼の念より先に安心したことに対し、罪悪感が微塵もないと言えば嘘になる。が、それで自分を責めることしない。自分の大切なものを優先的に考えるのは罪ではない。
 下手に触るのはこちらの命にも関わるゆえ、まるで何もなかったかのように通り過ぎる。ああいった死体を処理するのも獣人の仕事だ。そのままにしておいては伝染病の元にもなるため、役所に雇われた者――主に獣人が――“処理”をする。職に就ければ何でも構わないと考えていた頃に少し調べてみたものの、女は雇ってもらえないそうだと知った。肉の塊は重い。確かに、確実に仕事を遂行できるであろう男を使った方が賢明だろうと思った
 ――いつかは自分もああなるのだろうか。地に伏したその姿を、未来の自分と重ね瞳に投影する。あの外套は今自分が使っているもので、そのフードから石畳に流れる髪は青く、袋に物のように詰め込まれて運ばれて――
「――……」
 考えても仕方がない。果実を抱える腕に力を込めると、再び家へと歩き出した。逃れられない未来を憂いても何かが変わるわけではない。自分が大切にするべきは、今この瞬間だ。拭いきれない後味の悪さを残しながらも家の前に着くとネジが外れかけた取っ手に手を添え、ゆっくりと引く。
「――あ、お帰り」
 床に座っていた彼が振り返り、向けられたその笑みが心を満たしていく。胸の奥で何かが解けていく感覚がした。緩やかに肩が下がり、無意識のうちに身体に力が入っていたことに気付く。
「……ただいま帰りました」
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