Story.13 アリエタの夜

      †

「流血沙汰ですか」
 出掛ける準備をしてくる、と、リセとフレイアはフェスタを連れて一度自室へと戻った。二人残された部屋でイズムは机に頬杖をつき、関心なさげに問う。
「傷自体はフェスタさんに治してもらったんでしょうけど……左手、少し洗ったくらいで誤魔化せるとでも思いました?」
 未だ疲労が残る身体をベッドに投げ出していたハールは、ゆっくりと寝返りを打ちイズムに背を向けたまま左手に目を落とす。やはり少し水で流したくらいで完璧に落とすのは無理だったようだ。微かに、紅い。爪の先にも僅かに血がこびり付いていた。実戦経験が少なからずある者なら気付くはずである。
「……え、何のことだか」
「あと、若干右腹部庇って動いてますよね?」
「……別に?」
「じゃあちょっと殴って確かめてみます? いつものハールならそのくらい――」
「あー、いや、手はナイフ投げられて、腹は蹴られた」
 立ち上がったらしい椅子を引く音に、急いで正直に話す。治癒魔法は外傷がなければ魔力が注げないため、内部の出血は治せない。大した怪我ではないが、痛くないと言えば嘘になる。それをさらに殴られるのは勘弁したい。座り直すと、イズムは心底疲れたという様子で深く溜め息をつく。
「最初からそう言えばいいんです。だからさっきもう一日泊まるの提案したんですけど……下手に隠して余計な心労まで増やさないでください。多分リセさんの手に使った包帯まだ残ってるんで――」
「……あのさ、フェスタと話しててさ、オレわりと勝手なんだなぁって、気付いた」
 イズムの言葉を遮り、呟く。イズムは彼のその声が気まずさを孕んでいたことに口を噤んだが、何を言わんとしているのかはその内容と歯切れの悪さから窺えた。
「今更ですか。何を話したのかは知りませんけど」
 ハールは痛みが伝わぬよう気を付けながら身体を起こすと、彼に目を向ける。しかし何と言ったら良いか分からず、すぐに視線を逸らす。首に手を遣ったり何かを言おうと口を開いたりするが、適切な言葉が浮かぶ気配はなかった。
「だからさ、何つーか、その……」
「謝ったら殴りますよ」
 その一言に、どんな表情が待っているのかと緊張しながら顔を上げる。その先にいる友人に表情はない。なかったが――――ふと、浮かぶ微笑。
「次は本当に」
 ――安堵、よりも、申し訳なさ、感謝に近くとも違う言い知れぬ感情が滲んだ。その笑みで気が晴れることはなかったが――緩んだのは紛れもない事実で。穏やかな声に、ただ、苦笑が漏れた。
「魔導士とは思えない台詞だな」
「魔導士である前に貴男の友人ですから」
「それはどうも」
 緊張が解けると、暫く無言のハール。
「どうしました」
 何かを考えているらしい様子に問う。
「そういやお前、年上だったんだなぁって」
「…………何ですか突然」
「いや、別に」
 微笑とも取れぬような僅かな笑みを一瞬見せる彼。イズムは怪訝そうな顔をすると顔を逸らし、話題を戻す。
「……勝手ですよ。心配する身にもなってください」
 心配してるのだって僕の勝手ですけど、と続けた。
 イズムの姿が、昼間リセと話したときの自分と重なる。リセも、今の自分のような気持ちで痛みを隠したのだろうか。他人に求めたことを自身に当て嵌めてみれば、それが安易にできることではなかったと思えた。辛かったら手を取って欲しい。苦しければ話して欲しい。悪いことではない、が、それをすることは難しい。たとえ正しいことであったとしても、互いの行動と感情が上手く噛み合うなんてことは、稀なのだ。そのどちらかが合っていたとしても、もう一方が違うだけで意味も結果も変わってしまう。心の交差地点から生まれるものは、いつだって望んだ通りになるとは限らない。感情は、心は、理屈ではないから。
「前にリセさんにも話したんですよ。みんな自分勝手に生きてるって」
 イズムは逸らした顔をややハールの方へ戻し、そちらを見遣った。
「でも、まあ……それぞれそんなふうに生きているのに、それでも一緒にいるってことに価値があるんじゃないですか」
 簡単に言うが、難しいことだ。必ずしも違いを受け入れる必要はない。否定もしたければすればいい。同じ方向を向いているわけでもない。すべての心が歯車のように噛み合うことは、有り得ない。
「とりあえず、自覚できただけ成長ですかね」
 そのせいで傷つけられることも、傷つけることもあるかもしれない。だが――――
「勝手にしてくださいよ。覚悟はしてますから」
 傍にいる友人の笑みを見ると、それも悪くはない、と思う。
29/45ページ
スキ