Story.13 アリエタの夜

 次の太刀筋を見極めようとした瞬間、腹部に呼吸を止める痛みが注ぐ。刃が振り下ろされなかった代わりに腹を蹴られたと気付いたときには、喉から詰まるような声が漏れていた。鈍痛が治まらぬうちに、もう一度腹に靴が減り込んだ。
「――は、……ぁッ!」
 再度勢いをつけイーヴォの爪先が鳩尾を抉る。肺から無理やり空気が搾り出されるかのような咳に、目の端に涙が滲む。
「――――ッ!」
 呼吸もままならぬなか、無意識に柄を強く握る。
(いや駄目だろ……!)
 今すぐ目の前の男を加減せずにただ斬り捨てることならできるが、武器の解除や峰打ちをする隙はない。だからといって斬るわけにはいかないのだ。急所を外したとしてももし出血が多ければ命に関わるし、感染症になる可能性もある。
「あ……ッ!」
「……テメェみたいな偽善面、潰してやりたくなるわ」
 頭を踏み付けられそうな気配に身構えると、突如脚は腹に戻され右脇に楔が打ち込まれたかのような痛みが数度広がった。
「あー、潰すのは惜しいかもな。あの半獣も適当に回したら売っ払らおうと思ってたんだけどさぁ……お前もそうするか?」
「――……ッ」
 緑眼の男がナイフを手に取るのが見えた。もう時間がない。焦りから鼓動が早まる。呼吸をすれば砂埃が喉に張り付く。
(あー……畜生)
 格好悪いにも程がある。
 誰も傷付けずにどうにかしようという考えが甘いなど、重々承知だ。それでも、目の前で人が傷付くのは嫌で。見えないところで傷付かれるのも嫌で。結局自分が嫌なだけで。過去を繰り返したくないだけで。救えなかった後悔への慰めでしかなくて。お人好しという皮を被った我が儘を散々通してきた。空回ることはあっても最後には誰かが助かって、笑いかけてくれる人もいるから、それも完全に悪いとは言えないのかもしれないとは思う。
 だが、ここで自分はそんな『お人好し』として大人しく死ぬわけにもいかない。自分には、やらなくてはならないことが――
 左手の指に力を入れ、強く剣に絡ませた。
 しかしふと、ある想いが過ぎりそれは緩む。
 もしここで死んだら、この永遠に続くのかと錯覚するような目的地のない旅を終わらせることができるのだろうか。存在するかも不確かなモノを探し回るこの彷徨が、終わらせられる――――?
(……いや)
 許されるはずがない、自分は、死ぬことなど許されない。一瞬でもそのような考えを持ってしまったことに対する軽蔑と自らの生の核の再認識から、急速に感情が冷たさを帯びる。今までの戦い方が馬鹿馬鹿しく思えるくらい酷く冷め、落ち着いていた。
 第一、彼らはこの掃きだめとも呼べる路地に巣食う無法者だ。数えきれないほどの罪があるのだろう。女を集団で強姦しようとし、人を本気で痛め付け、あわよくば金にしようとさえ考えるような奴らだ。
 再び、血に濡れた左手に力を込めた。

 そんな奴らに抵抗して――――何が悪い?

「……馬鹿みてぇだな」
 碧の瞳から熱が消え、どう戦えばこの場を切り抜けられるのかだけを淡々と思考する。剣を薙げば一度は避けられるだろうが、太刀の角度からいくと逃れようと身を翻す地点は恐らく男から見て斜め左。薙いだ勢いで起き上がり踏み込みそのまま横に降れば確実に――――
「……そこまで言うなら」
 ハールは僅かに剣を持ち上げた。
「望み通りにしてやろうか」
 そしてもう一人の男の投げナイフを持った腕が振り下ろされ――

 一つ、高らかにナイフが刺さる音が響く。

 ――降り下ろされるその直前、男の前のテーブルに、また別のナイフが脅すように突き刺さったのだった。
 男はハールからナイフを投げた少女――――フェスタに視線を移し、そちらへ向き直る。ふと彼女と目が合った。彼女は余所見をするなとでも言うように軽く睨むと僅かに頷くような動作をし、目線でイーヴォの方を示した。
 ――彼女の作った好機を無駄にするわけにはいかない。どくどくと熱く脈打つ甲の傷口。剣を握る紅い左手に力を込める。
 そうだ、余所見をしている場合ではない。過去のことならさっき散々考えただろうが。
 目の前を見ろ。今の自分は――どうしたい?
「――――ッ!!」
 イーヴォがフェスタに気を取られたその刹那。
 痛みに耐え全力で薙いだ瞬間、滴る血が宙に舞った。その刃が銀の太刀筋を引いて斬ったのは――――
「うわ……ッ!?」
 古ぼけ腐りかけたテーブルの脚。
 四本の内の一本がなくなったことにより、テーブルはバランスを崩してハールと男の間に壁のようにして斜めに倒れた。大きな音とともに食べ物が乗ったままの皿や酒の入ったグラス、瓶が派手な破砕音を立てて雪崩る。それらがすべて床に落ちないうちにハールは素早く立ち上がりテーブルの陰から出ると白銀を閃かせた。

 響く、鋭く澄んだ音。

 正確に鍔と柄の境を狙い手からそれを弾き落とし、瞬時に刃を返すとそのまま腹へ薙ぐ。骨は無事だろうと感触から判断したと同時に、息を詰まらせたような声が耳元で聞こえた。そして重いものが床に崩れ落ちる音と、床から伝わる僅かな衝撃。長いように思えた一瞬のうち、その一連の事柄のすべてが起こった――――後、静まり返る場。
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