Story.13 アリエタの夜

「……あ」
 誰かが入ってきたらしい声。場違いにも程がある何とも抜けた間。
「……誰だ?」
 締め上げる手の力が緩んだ。フェスタは一つ二つ咳込むと深く息を吸い込み、噎せて涙を溜めた目をそちらに向け、見開く。
「貴男……」
「いや、帰ろうとしたんだけど……その、何つーか、ヤバそうな声聞こえたから、確認だけと思って……」
 彼は言いつつ、辺りに視線を走らせる。状況を理解した途端に言葉が止まり、目が据わった。
「……だから止めただろうが」
 そこにいたのは紛れも無く――――先刻店の前で別れたはずの『お人好し』だった。
「何で……」
 言いかけたが、それが愚問であることに気付くと口を噤んだ。彼が今この場に居るのは、“自分の叫び声が聞こえる場におり、尚且つこの時までその範囲を動かなかったから”ということに他ならない。何のために待っていて、何のためにわざわざ扉を開いたのかなど嫌でも予想がつく。そして、これからの彼の行動も。腰に下げた携帯水晶に微かに指が触れているということから、彼が戦い慣れた人間だということは明白だった。――いつでも『何か』を顕現できるということだ。
 まったく、胸中で彼を散々“お人好し“と呼称していたが、これはそんな生易しいものではない。
「……馬鹿」
 ぼそりと呟き、店の前で別れた際の会話を思い返す。
 ――『自分が嫌だから』?
 馬鹿だ。逢って半日のスリがどんな目に遭おうと知ったことではないだろう。一体それの何が嫌だというのか。自らの危機を顧みず誰かに手を差し伸べるというこの行為に、何を求めるいうのだ。『自分が』ということは、弱者を助ける優越感か? 無償で助力ができる程度には善人であるという安心感か? 悪人を力で以って征す正義感か? それともそれらを自己肯定する材料にでもしているというのか? 
 テーブルに押し倒されているため、九十度傾く視界。扉の前に立つ少年を改めて見つめる。その碧の瞳は若干の戸惑いを映してはいたが、怖れはカケラも見て取れなかった。大した度胸と言うべきか、それともこれ以上の悪状況を潜り抜けてきたのか。どちらにせよその出で立ちからは、安直な自己肯定を必要とする人間には到底思えない。
 なら、彼がここに居る理由は――
(……まったく、それも行き過ぎれば馬鹿と紙一重ですわね)
 彼は、彼のその性質ゆえに、いつか身を滅ぼすだろうと思う。
 しかし、それは今では、ない。今であっては、ならない。
 フェスタは小さく息を吐くと無感動に聞こえるよう、言い捨てた。
「……ええ、ですからこれは私の不注意です。貴男には関係ありませんわ」
 ハールはその言葉に眉を顰める。この状態なら、普通はどんな相手だろうと助勢を請うものだろう。しかし彼女は突き放すような態度を崩さない。
「ああそうだな、関係ねぇよな。けど――――」
「んだよテメェ、獣人の知り合いか?」
 その時、続きを掻き消すように、男の声が割って入ってきた。
「知り合い――……」
「ではありませんっ!」
「……って、お前なぁ!」
 次いでフェスタにも台詞を被せられ、思わず状況を忘れてツッコミを入れた。
 襲う側はともかく、手を貸そうとした襲われる側も最後まで言葉を発することを許してくれない。状況が状況だけにさすがにしおらしい態度を見せるかと思いきやこれである。ドアを開けた際の緊張感はどこへ行ったのか。
「堂々と会話しておいて知り合いじゃないはさすがにもう通らねぇだろ! っつーか、こういう時は普通助けてとか言うもんじゃねぇの!?」
「そんな細かいこと気にするなんて男らしくありませんわよ! それと助けてくださらなくて構いませんので!」
「可愛くねぇなマジで!」
「だから貴方に可愛いと思われたところで一ガイルにもなりませんので結構です!」
「そういう問題じゃねぇよ! てかお前自分が置かれてる状況解れよ!?」
 売り言葉に買い言葉。場にそぐわぬどうにも間抜けな応酬。もういっそこのまま帰ってやろうかという選択肢がハールの脳裏にちらついた瞬間、ふと目が捉えたもの。
 外套に隠され、隙間から覗く細い手首が、震えていた。
「……ったく」
 貫き通せないなら、虚勢など張るものではない。
「お呼びじゃありませんわ。……お帰り、くださいな」
 たとえばそれが、誰かの為であったとすれば、余計に。
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