Story.13 アリエタの夜

    †

 ――叩き付けられるようにして倒れ込んだのは、埃っぽくざらつく床。
 背を強く突き飛ばされたと気付いたときには、身体を庇おうとして出た腕に痛みが走っていた。そしてそれは一拍遅れて全身に広がる。したたか打ち付けた腹部を鉛のような鈍痛が支配し、息ができない。
「――……ッ!?」
 木床の冷たさと砂埃の不快感が頬に触れる。這いつくばるような姿勢のまま顔を横にずらして周囲の様子を窺うと、付近にいる数人の足、そしてやや離れた場所にいる人間の顔には相変わらずの野卑な笑みがあった。
 しかし、何かが、違う。いつものような底の浅い笑みではあるのだが――どこか、気味の悪い含みがある。
 背筋を走り抜ける一筋の悪寒。――悪寒、ではない。今までフードの下にあったものが外気に触れたのだ。
 ――もう一つの耳が、晒されている。
「……!」
 反射的に身を起こそうとした瞬間、背に激痛が響いた。思わず呼吸とも声とも取れる音が唇から漏れる。
「……へぇ、やっぱり半獣か」
 外套越しに感じる靴底。彼が言うと同時に背にかかる重みが増す。痛みと驚きで無意識に喉から絞られる声。その弱々しさに、俯せに寝た状態で背を踏み付けられるという体勢や相手より先に、自分に対する羞恥と怒りを覚えた。
 フードは押されたときに落ちたらしく、長く伸ばした青い髪が砂や埃で汚れた床に広がっていた。彼がアリエタの海に例え、あの日二人が包まれた朝焼けに靡いていた青。
(ああ、後で濯がなくては……)
 そんなことを考えている場合ではないと解っていながら……否、このような状況だからこそ、浮かぶのは彼のこと。
 よく彼はこの青が綺麗だと、アリエタの海のようだと褒めてくれた。だからどんなに生き方が、身体が、手が汚れても、髪だけはあのときのままでいようとした。手入れらしい手入れなどできていないのは解っているが、それでも毎日梳かすことも、真冬に冷たい水で洗い、指が真っ赤になり感覚がなくなることも厭わなかった。あの彼の言葉が、そしてその通りでいようと努めることが、唯一の繋がりのように思えていた。
 いつかもう一度逢えたときに、また笑って撫でてくれるように。瞼の上の花弁を拭った優しい指先で梳いてくれるように。
 そしてもしそれが叶わなくとも、彼に綺麗だと言ってもらえたときのままの自分で――――生を終えられるように。
 昼間はあのお人好しのせいで地面にも着いてしまったし、今度は掃除などろくにされていない床である。まったく今日は散々だ――
「……おい、何とか言えよ!」
 怒声に意識を引き戻される。そうだ、何にせよまずはこの状況から逃れなければ。フェスタはできるだけ気づかれぬよう早鐘を打つ心臓を落ち着けるため、深呼吸の代わりに一度ゆっくりと瞬きをする。あくまで動じていない風を装い、冷静な声を紡ぐ。
「……ええ、その通りですわ。気づいている方もいらっしゃるとは思っていましたが。……確認作業が済みましたら、その長い足を下ろしてくださいませんこと? 私早く帰らなくては――」
「ご主人サマに怒られるって?」
 先刻彼女を突き飛ばし、今は踏み付けている男が馬鹿にしたように笑う。フェスタが店に入った際言葉を交わしたのは彼だ。名前は――イーヴォと言ったか。
 周囲の人間からも嘲笑が漏れるのが聞こえた。
「まぁホラっぽいとは思ってたけどよ、一応引っ掛かるところがあったからそのままにしておいてやったワケだが……このまま有り金巻き上げ続けられるのも癪だろ?」
 引っ掛かるところ、というのはフェスタが仕掛けた“フェイク”だろう。まだ完全に嘘だと見破られたわけではないようだ。ならば、何故手を出してきたのか――――
「てめぇが本当にどこぞの金持ちに飼われてようが嘘だろうが、どうなろうと誰にもバレなきゃどっちだって構いやしねぇだろってハナシに落ち着いてな」
 今更何を言い出すのだと内心眉を顰める。そもそも自分を一体どうしようというのか。わざと遠回りに話しているのか、真意が見えない。その不透明さに、認めたくないが――恐怖が生まれる。
 しかしフェイクが完全に破られていないなら、まだそれを盾に出来るはずだ。彼女の嘘は、嘘は嘘でも、その場凌ぎの薄っぺらいものではない。今まで彼等に積み重ねてきた、所作と知識。実体のない盾ではあるが、このまま切り抜けるしかない。見抜かれたら何をされるかなど、考えたくもない。看破されるわけにはいかない。本当のことを、そして何より自分が――――恐怖心を、抱いてしまっていることを。
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