Story.13 アリエタの夜

 人の集まる通りを抜け、露店街から段々と離れていく。
 歩いている間にもはらはらと舞い降りてくる、桃色のしずく。それはまるで、時間の流れを体現しているようだった。止まることなく、儚く、誰の上にも等しく降り注ぐ。
「…………」
 空を仰ぎ見れば、柔らかな水色に華彩が散っていた。
 怖いくらいに、穏やかだった。“怖い”だなんて思うのは、まるで未知の、初めてすることのように感じているからなのかもしれない。そんな時間は初めてだと錯覚するほどに、それを忘れていたのだろうか。
 ふいに彼の足が止まる。やがて辿り着いたのは、中流家庭の民家が集まる静かな通りだった。
「秘密の場所」
 彼が空を指差す。その先を見上げれば、空――を背景に、艶やかなオレンジの果実が幾つかなっていた。しかし更に視線を落とすと、それは煉瓦の壁に遮られる。その樹は、家の敷地内にあった。
「……これでは、また盗みに入らなくては――」
「違う違う、もっと下」
 言われて足元まで視界を下げる。そこには、よく熟れたオレンジが二つ転がっていた。
「たまに敷地の外に落ちてるんだ」
 彼は言いながらそれを拾い上げて汚れを外套で軽くこすり落とした。
「はい」
 その片方を差し出してくる、屈託のない笑み。たどたどしく礼を言うと受け取った。嬉しさより、驚きが先にくる。優しいと言われるような扱いをされていることが、ただ、不思議で仕方なかった。
「何で、私に教えてくれますの」
「獣人同士だし、多分同じような歳だしさ。困ったときはお互い様だよ」
 正論だ。しかし、実際にそうはいかないし、それを信じて死にそうになったこともある。両手で包んだ果実の重さを感じながら、裏があるのではないかと、その翠の瞳をじっと見つめる。
「売り物よりは、まだいいと思うよ。……褒められたものじゃないけどさ」
 そのとき、混じりけのなかった笑みに微かに香るものがあった。
 ――それは薄く儚い花弁一枚ほどの、寂しさ。
「多分放っておいても腐るだけだし。だったら、少しくらい貰ってもいいんじゃないかな」
 オレンジを握る彼女の両手の指に、微かに力が籠もった。俯き、フードが深く顔にかかる。
「このくらいも許されないなら、私達は……」
 彼が空いている左手でそれを元の位置に戻すと、視界に光が差す。目の前にあるその顔は、優しく、哀しそうに笑んでいた。
「……うん、そうだね」

 それが、彼との出逢いだった。
 この世界で、唯一信じられるひと。
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