Story.13 アリエタの夜


      †

 ――六年前、アリエタ。

 人波を縫うようにして走る真昼の露店街。袖の下に隠したのは、オレンジ。その果実は小さな手で掴むには大きすぎて、気を抜けば滑り落ちてしまいそうだった。規則的だった靴音は次第に乱れ、吸った息は肺に入る間もなく、乱暴に吐き出される。
 全身を巡る血に鉛が溶けているかのような重たさにも似た疲労。背後から響く静止を要求する男性の声。だが、捕まるわけにはいかない。
「……っ!?」
 脚が縺れ転がるようにして倒れ込む。石畳に擦れた腕が、頬が、膝が熱い。違う、痛い。握っていたはずのオレンジは、いつの間にか離れた場所に転がっていた。
(立てない……)
 差し伸べてくれる手などなかった。当然だ。小汚い泥棒猫にかける慈悲など誰も持っていない。それとも、金があったら買えたのか。前に、盗みを見つかった獣人の子供が数人に蹴り殺されたらしい。自分も、そうなるのだろうか。もし自警団に突き出されても、蹴る足が変わるだけだ。どちらにせよ、命の保証はない。
 朦朧としてきた意識のなか、先程の果物屋の店主だろうか――誰かが駆け寄ってくるらしい音を聞きながら瞼を閉じた。
「――っ!?」
 左腕を取り上げられると半ば引き擦られるようにして店の間の細い路地に連れ込まれる。そして膝が崩れるような勢いで木箱の陰に座らされた。
「なに……ッ」
 後ろから塞がれる口。――店主では、ない?
「――……っ」
 ただでさえ酸欠気味であったので、苦しさに涙が滲む。
「静かにして、大丈夫だから」
 男の子の声。その言葉にどうやら危害を加えるつもりはなさそうだと判断するも、ただひたすらに苦しい。静かにするから手をどけてほしいと訴えようにも、その口が塞がれているのだからどうしようもない。了承を表すのに頷こうにも手が邪魔で、伝える術も無く、ただ弱々しく相手の手首を握ることしかできなかった。
 そのまま数分。もしかすると、実際はもっと短かったかもしれない。陰に隠されていたので自分からは見えなかったが、彼は外の様子を窺っているようだった。
「行ったみたい」
 離される手。その瞬間思いきり空気を吸い込む。熱くなった口内と呼吸器には、冷たく感じるほどだった。温暖なアリエタの空気が冷たいなど、冬でもないのに感じることになるとは。浅く吸って吐いてをしばらく繰り返したのち、それはやがて深くゆっくりとしたものになる。そしてようやく通常の呼吸と呼べるものになったとき、首を動かして改めて自分の後ろに座る人物に目を向けた。
「あ、ありがとう……ございました」
 互いに座っているので正しくは分からないが、自分と背はあまり変わらないらしく、纏っている外套も似ていた。フードの陰から覗く前髪は茶色で、瞳は綺麗な翠色。彼はフェスタの様子にようやく彼女がどういった状態であったのかを把握したようで、申し訳なさげに曖昧な笑みを浮かべた。
「いや、それより苦しかったみたいで、気付かなくてごめん」
「お気になさらず、本当に助かりました」
「あ、頬が少し擦れて……うわ、手も、膝も!」
 振り返ったフェスタの顔を見るなり彼は目を見開くと、自身の傷のように痛そうな表情を浮かべた。
「うわー、血が出てるよ……立てる?」
「平気ですわ、すぐに治せますから」
「治せ……?」
 彼が手を貸す間もなく立ち上がると、数秒の沈黙。戸惑いを覗かせながら微かに俯くと、フェスタは呟くような声を漏らした。
「それより、なぜ……」
 助けたのですか。そう続いたであろう言葉を汲み取ったらしく、笑むと彼も腰を上げる。
「君、獣人だろ?」
 そしてそのまま彼は自分のフードに手をやった。
「オレもだから」
 その下の灰色の片耳を半分だけ見せると、また覆う。フェスタのそれとは違う、犬の耳。やはりそうだったのか、とフェスタは思う。同類は何となく感じられるものだ。
「盗み、見つかったの?」
 真剣な表情。気まずいが状況からして嘘は通じないだろうと、遠慮がちに小さく頷く。
「良くないよ」
「そんなの……!」
「だよね」
 弾かれるようにして出かけた彼女の反論に、今度は困ったように笑う。当たり前だ。そんなこと、誰だって解っている。好きでやっているわけがない。
「……お腹空いてるんだよね? ちょっときて」
「えっ」
 突然握られる左手。驚きで声を出す前に彼は走り出し、困惑しながらもつられて引っ張られていく。
「ちょ、ちょっと……!?」
「あっ、ごめん膝怪我してたんだよね!?」
「いえ走れます、えぇと、そういうことではなく……!」
 フェスタの落ち着かない様子は脚の痛みによるものであると思ったらしく、彼は謝ると歩を緩める。そして手はそのままに、ゆっくりと歩いて行った。
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