Story.13 アリエタの夜

    †

 ――何なんだあの男は。お人好しを体言したような人間だ。馬鹿か。
 ギィ、と不快な音を立て、扉が開く。ベルなどという洒落たモノはこの酒場には付いていない。建て付けの悪いドアの取っ手に両手を添え、フェスタは場に似つかわしくないと見える所作で丁寧に閉めた。狭苦しい店内だが、カウンターの他にもテーブルが三つある。彼女は眉を顰めながら、しかし長い外套が脚に絡んだり広がったりしないよう抑えつつゆっくりとカウンターに腰を降ろした。
 ……だが、自分は馬鹿が嫌いではない。例えば――――
「よぉ」
 一つ空いた席の向こうから送られた陳腐な挨拶に、フードを目深に被り直す。背後から短い口笛が一つ空に流れた。下品で軽薄な音。けして歓迎や親愛の表現といった可愛らしいモノではない。
「毎晩毎晩ご苦労なこったなぁ、オジョーサマ?」
 一席挟んで座るフェスタの横の男はそう続けた。

 ――こういう馬鹿がいるから、自分は最下層まで堕ちることはないのだ。

 だから馬鹿には感謝しなくてはならない。皮肉めいた思考が顔に現れ、冷たい笑みが浮かんだ。
「だってココ、楽しいんですもの」
 楽しいわけがない。そしてこのような人間と同席していることは悲しくもないし、ましてや怖いなどということもない。伴う感情などない。ただ、“目的”のために来ているだけだ。
「モノ好きなこったな」
 今話している男を含めて客は六人、黙って酒だけ出すだけの店主が一人。つまりはフェスタを含めて八人。訪れる客は立地のせいもあるのだろうがわりと限られていて、見たことのある顔ばかりである。けして、仲がいいというわけではないが。女性は彼女一人だけだったが、それも慣れたもので怖気づくこともない。たまに女性客がいるときもあるが、それが常連の誰かの恋人なのか、娼婦なのか、それ以外のなんなのか。まあ、特に興味はない。
 自分が獣人だと気付いていない者も多々いるであろうが、このなかには勘付いている人間も混じっているに違いない。低身長に頭を覆う外套は獣人にありがちだ。だが、別にバレたところで構いはしない。
「――ええ、ご主人様もそうですの」
 ここに屯する連中とて馬鹿は馬鹿でも低級の魔物よりはものが考えられる。だからこそ、その中途半端に残った知恵を利用するのだ。
 囲われ者とはいえ屋敷で暮らし教育を施された母が唯一残してくれたもの――話し方、所作、作法、専門知識――それらは獣人や、ここにいる彼らのような者はけして知りえない、簡単には真似できないものだ。
「だから、私のような者を可愛がってくださるのですわ」
 母から聞いていたその主人とやらを基に創り上げた空想の『主人』。
 『設定』は母の生い立ちを流用し、好事家の富豪に買われ、慰みに歌う囲われ者の――気付いている輩にとっては、獣人。時折夜中に退屈な屋敷を抜け出しては、刺激を求めて下界へと赴く。
 説得力という後ろ盾は自身の振る舞いによるもの。通常の獣人なら何をされてもおかしくない状況だが、これで彼らは自分に手は出せない。危ない橋ではあるが、ここで“稼ぐ”ことができれば盗みをする機会は各段に減らせる。それは被害者や自警団に捕まる確率が低くなるということでもあり、する度に警戒しなければならないそれと比べればこちらの方がまだリスクが低い。……今日はたまたま運が悪かっただけだ。いつもなら、あんなお人好しに捕まるようなことはない。
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