Story.12 港町の黒猫
───・…・†・…・───
「ただいまー……」
コハクは自宅の扉を音が立たないようそろそろと開ける。しかし木製のそれが軋むことは、どんなに慎重に押しても免れなかった。遅くなったこと、怒られるだろうか。
一階は同居人が運営する診療所、二階に二人の部屋がある。その同居人はいつもこの時間は自室で仕事を片付けたり休んだりしているが、今晩に限ってはそうではないようだ。窓際の机に蝋燭の明かりが灯っている。魔法燈もあるにはあるのだが、そちらの魔力の消費速度より蝋燭の方が格段に長持ちする。つまりは節約である。いつものことなのに、その小さな明かりに胸がちくりと痛んだ。
そろそろと診察書や挽きかけの薬が乱雑に置かれた机に近づくと、そのなかに埋もれるように突っ伏している男性がいた。蝋燭の橙を映す白衣を着た背が、緩やかに上下している。コハクはゆっくり彼に近付くと声をかけた。
「……先生?」
微かに跳ねる背中。
「あー……?」
寝起きの喉から漏れた掠れた声。緩慢な動作で赤銅色の髪を掻くと、おもむろに顔を上げた。途端、目を見開く。
「……うわっ! 何だコハク帰ってたのか」
急に起き上がった拍子に重なっていた書類が床にバラバラと落ちていく。うあーっと呻く彼。コハクはすぐにしゃがむと、慣れた手つきでそれを纏めて元あった場所に戻した。
「はい」
「ああ、悪いな……まったく驚かせるなよ、おじさんの心臓は繊細なんだぞ」
「先生まだそんな年齢ちゃうやろ」
後半に差し掛かってはいるが三十代が何を言っているのか。その医者としては頂けない無精髭を剃ればもっと若く、そして“見かけだけでも”真っ当な医者にも見えるだろう。
「……あぁもうまた散らかしてー、いつも片付けてって言ってるやろ」
彼に背を向けると、また別の大机に乱雑に置かれた薬瓶を棚の指定の場所へと置きに行く。
しかし逸れた仕事しか請け負っているわけではないし、腕は確かである。ヒスイの怪我も本来は彼に診せようと思っていたのだ。少々一般的な医者より守備範囲が広いだけだ。そうさせてしまったのは、自分なのだが。これ以上負担をかけさせたくないため、狩人を雇う必要がないよう薬の材料は自分の分は自分で『採ってきて』いる。腕が少々立つようになったのもその為だ。
「――先生夕飯は? ちゃんと食べた?」
思考を切り替えるように、明るい笑みを向ける。
「やけに遅かったじゃねぇか」
振り返ったまま身体が固まる。凍り付く、というわけではない。冷たくなど、ましてや怖くなどない。ただ、昔からこの鳶色の瞳に見つめられると何も言えなくなる。
「ごめん、いや、ちょっと色々あって……」
「何かあったのか」
彼は椅子を引き、こちらに半身を向けて訊く。先程までの、片付けもくにせず食事も面倒がって抜きがちなだらし無い人間の影はどこへ行ったのか。
「今より割の良い仕事が見付かってな」
「へぇ」
「……それが、住み込みで」
「……ほう」
彼の声も表情も変わらない。なのに、まるで怒られる前の子供のように言葉が詰まる。今あの店で働いているのも店長と彼が知り合いだったからに他ならない。彼が本当の親のように――いや、それ以上に自分を気にかけ大切にしてくれていることは十二分に感じている。
だからこそ、突然転がり込んできたこの好機を逃したくない。
あのときレモンが落ちたのも、ヒスイが路地裏にいたのも、メノウに勘違いされたのも、そして――遥か昔の絶望であり、これからの希望になるかもしれない、『あの者』と再び出遭ったのも、すべて偶然ではないに違いない。今夜確かに、何かが交差したのだ。――『運命』というには、大袈裟かもしれないが。
「ダメ……かな」
そうは訊いても、諦めたくない。もし、もしそれが成功したなら、あのとき失ったものが手に入る。推測に過ぎない微かなものでも、もう二度と現れないと思っていたその可能性が目の前に転がり落ちてきたのだ。全てが上手くいけば、彼だって、
「……先生?」
彼と一緒に――――
「駄目」
「――……っ!」
「……って言っても、やりたいんだろ。そういう目してるときのお前は何言っても駄目。昔からそういう目するんだよ、どうしたって譲りたくないとき」
彼は一つ背伸びをする。そのまま椅子の背に身体を深く身体を預け、きしりと音を立てた。
「どうせ理由も稼ぎがどうのってのじゃないんだろ? コハクももう子供じゃないしな。俺がとやかく言う筋合いもない……か」
少し寂しげに笑うと立ち上がり、机の上の薬草や挽きかけの薬を適当に端に寄せると書類を纏めて腕に抱える。見透かされている、とコハクは苦笑した。
「分かった、でもちゃんと薬は定期的に受け取りに来いよ」
「うん」
「危ない仕事じゃないな」
「大丈夫」
今のは上手くいった。この嘘は、彼も見抜けなかったようだ。彼にすべてを隠せるほど大人ではないが、もうすべてを見破られるほど子供でもない。そう思うと、彼と生活をするようになってからどれほどの時が流れたのかを実感し寂しさを覚えつつも、その今に至るまでの長い間を共に過ごせたのだという温かな気持ちも同時に広がった。
「……ね、先生、寝る前に一緒に飲も? ちょっとだけやから」
「えー、俺もう眠い」
「じゃあ一緒に寝よ?」
「……おじさん的には嬉しいけどねぇコハク、お前もう子供じゃないんだから」
「ちょっと前までは一緒に寝てくれたやん」
少し頬を膨らませるコハクに、彼は拗ねたときにこうするのも変わらないな、と内心微笑をこぼす。
「コハクも成長したんだから……えー、ほら、ベッド狭いだろ」
それでもなお納得がいかない風の彼女に、どこか安心している自分に気付き、今度は内心ではなく実際に苦笑を浮かべるのだった。
「蜂蜜湯作ってやるから。それで寝ろ、な」
頭を撫でると、手の平に小さな硬さが触れた。この小さな突起が、彼女からどれだけのものを奪っていったのだろう。
「……先生?」
「……いや、何でもない」
不思議そうに見上げてくる彼女に気付き、手を下ろす。
「寝るの、やだ」
未だに言うコハク。その言葉は駄々をこねる子供のように聞こえこそするものの、彼女が眠ることを嫌がる理由を知っているがゆえに、窘める気にも怒る気にもなれない。それも、昔からだ。二人で住むことになったあのときからずっと。
「まったく…………今日だけな」
コハクは大きく頷くと、机の上の燭台の取っ手に手を伸ばす。そしてふと、もうヒスイは転居する支度をしているのかなぁと思う。生真面目そうな彼のことだ、さすがに今夜は休むかもしれないが、早いうちには済ませるのだろう。
考えながら、二階へと上ってゆく。蝋を伝う熱く透明な雫が燭台に落ちるまでの距離が短くなっていた。あとどのくらいもつのだろうか。どこか心許ない灯りが、聞きなれた階段の軋む音に染みていく。
三日後には、この日常が変わる。そして――――
(未来を、変える)
───・…・†・…・───
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up*2013.6.15
「ただいまー……」
コハクは自宅の扉を音が立たないようそろそろと開ける。しかし木製のそれが軋むことは、どんなに慎重に押しても免れなかった。遅くなったこと、怒られるだろうか。
一階は同居人が運営する診療所、二階に二人の部屋がある。その同居人はいつもこの時間は自室で仕事を片付けたり休んだりしているが、今晩に限ってはそうではないようだ。窓際の机に蝋燭の明かりが灯っている。魔法燈もあるにはあるのだが、そちらの魔力の消費速度より蝋燭の方が格段に長持ちする。つまりは節約である。いつものことなのに、その小さな明かりに胸がちくりと痛んだ。
そろそろと診察書や挽きかけの薬が乱雑に置かれた机に近づくと、そのなかに埋もれるように突っ伏している男性がいた。蝋燭の橙を映す白衣を着た背が、緩やかに上下している。コハクはゆっくり彼に近付くと声をかけた。
「……先生?」
微かに跳ねる背中。
「あー……?」
寝起きの喉から漏れた掠れた声。緩慢な動作で赤銅色の髪を掻くと、おもむろに顔を上げた。途端、目を見開く。
「……うわっ! 何だコハク帰ってたのか」
急に起き上がった拍子に重なっていた書類が床にバラバラと落ちていく。うあーっと呻く彼。コハクはすぐにしゃがむと、慣れた手つきでそれを纏めて元あった場所に戻した。
「はい」
「ああ、悪いな……まったく驚かせるなよ、おじさんの心臓は繊細なんだぞ」
「先生まだそんな年齢ちゃうやろ」
後半に差し掛かってはいるが三十代が何を言っているのか。その医者としては頂けない無精髭を剃ればもっと若く、そして“見かけだけでも”真っ当な医者にも見えるだろう。
「……あぁもうまた散らかしてー、いつも片付けてって言ってるやろ」
彼に背を向けると、また別の大机に乱雑に置かれた薬瓶を棚の指定の場所へと置きに行く。
しかし逸れた仕事しか請け負っているわけではないし、腕は確かである。ヒスイの怪我も本来は彼に診せようと思っていたのだ。少々一般的な医者より守備範囲が広いだけだ。そうさせてしまったのは、自分なのだが。これ以上負担をかけさせたくないため、狩人を雇う必要がないよう薬の材料は自分の分は自分で『採ってきて』いる。腕が少々立つようになったのもその為だ。
「――先生夕飯は? ちゃんと食べた?」
思考を切り替えるように、明るい笑みを向ける。
「やけに遅かったじゃねぇか」
振り返ったまま身体が固まる。凍り付く、というわけではない。冷たくなど、ましてや怖くなどない。ただ、昔からこの鳶色の瞳に見つめられると何も言えなくなる。
「ごめん、いや、ちょっと色々あって……」
「何かあったのか」
彼は椅子を引き、こちらに半身を向けて訊く。先程までの、片付けもくにせず食事も面倒がって抜きがちなだらし無い人間の影はどこへ行ったのか。
「今より割の良い仕事が見付かってな」
「へぇ」
「……それが、住み込みで」
「……ほう」
彼の声も表情も変わらない。なのに、まるで怒られる前の子供のように言葉が詰まる。今あの店で働いているのも店長と彼が知り合いだったからに他ならない。彼が本当の親のように――いや、それ以上に自分を気にかけ大切にしてくれていることは十二分に感じている。
だからこそ、突然転がり込んできたこの好機を逃したくない。
あのときレモンが落ちたのも、ヒスイが路地裏にいたのも、メノウに勘違いされたのも、そして――遥か昔の絶望であり、これからの希望になるかもしれない、『あの者』と再び出遭ったのも、すべて偶然ではないに違いない。今夜確かに、何かが交差したのだ。――『運命』というには、大袈裟かもしれないが。
「ダメ……かな」
そうは訊いても、諦めたくない。もし、もしそれが成功したなら、あのとき失ったものが手に入る。推測に過ぎない微かなものでも、もう二度と現れないと思っていたその可能性が目の前に転がり落ちてきたのだ。全てが上手くいけば、彼だって、
「……先生?」
彼と一緒に――――
「駄目」
「――……っ!」
「……って言っても、やりたいんだろ。そういう目してるときのお前は何言っても駄目。昔からそういう目するんだよ、どうしたって譲りたくないとき」
彼は一つ背伸びをする。そのまま椅子の背に身体を深く身体を預け、きしりと音を立てた。
「どうせ理由も稼ぎがどうのってのじゃないんだろ? コハクももう子供じゃないしな。俺がとやかく言う筋合いもない……か」
少し寂しげに笑うと立ち上がり、机の上の薬草や挽きかけの薬を適当に端に寄せると書類を纏めて腕に抱える。見透かされている、とコハクは苦笑した。
「分かった、でもちゃんと薬は定期的に受け取りに来いよ」
「うん」
「危ない仕事じゃないな」
「大丈夫」
今のは上手くいった。この嘘は、彼も見抜けなかったようだ。彼にすべてを隠せるほど大人ではないが、もうすべてを見破られるほど子供でもない。そう思うと、彼と生活をするようになってからどれほどの時が流れたのかを実感し寂しさを覚えつつも、その今に至るまでの長い間を共に過ごせたのだという温かな気持ちも同時に広がった。
「……ね、先生、寝る前に一緒に飲も? ちょっとだけやから」
「えー、俺もう眠い」
「じゃあ一緒に寝よ?」
「……おじさん的には嬉しいけどねぇコハク、お前もう子供じゃないんだから」
「ちょっと前までは一緒に寝てくれたやん」
少し頬を膨らませるコハクに、彼は拗ねたときにこうするのも変わらないな、と内心微笑をこぼす。
「コハクも成長したんだから……えー、ほら、ベッド狭いだろ」
それでもなお納得がいかない風の彼女に、どこか安心している自分に気付き、今度は内心ではなく実際に苦笑を浮かべるのだった。
「蜂蜜湯作ってやるから。それで寝ろ、な」
頭を撫でると、手の平に小さな硬さが触れた。この小さな突起が、彼女からどれだけのものを奪っていったのだろう。
「……先生?」
「……いや、何でもない」
不思議そうに見上げてくる彼女に気付き、手を下ろす。
「寝るの、やだ」
未だに言うコハク。その言葉は駄々をこねる子供のように聞こえこそするものの、彼女が眠ることを嫌がる理由を知っているがゆえに、窘める気にも怒る気にもなれない。それも、昔からだ。二人で住むことになったあのときからずっと。
「まったく…………今日だけな」
コハクは大きく頷くと、机の上の燭台の取っ手に手を伸ばす。そしてふと、もうヒスイは転居する支度をしているのかなぁと思う。生真面目そうな彼のことだ、さすがに今夜は休むかもしれないが、早いうちには済ませるのだろう。
考えながら、二階へと上ってゆく。蝋を伝う熱く透明な雫が燭台に落ちるまでの距離が短くなっていた。あとどのくらいもつのだろうか。どこか心許ない灯りが、聞きなれた階段の軋む音に染みていく。
三日後には、この日常が変わる。そして――――
(未来を、変える)
───・…・†・…・───
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up*2013.6.15