Story.12 港町の黒猫
「……って、何で着いてきますの!」
「方向が一緒なんだから仕方ねぇだろうが!」
彼女は舌打ちでもしそうな勢いで露骨に嫌な顔をする。
「そこまで邪険にするか普通……」
「本来は私がされる側のはずですが、貴男がしないので私がしただけです」
「もっともらしく聞こえるけど全く筋通ってねぇからなそれ……つーか、お前何でそんな喋り方?」
ハールは彼女の自虐的な厭味を受け流すと、歩きながら何気ない疑問を口に出す。彼女の丁寧な言葉遣いは、窃盗をしなければならないような生活に符合しないように思えた。
「どうでもいいでしょう」
何だかんだで並んで歩いてはいるものの、一緒というには若干離れている微妙な距離感。彼女は一瞬ハールを見遣ると、ややあって言葉を続けた。
「……まぁ、簡単に言ってしまえば身分詐称ですわね。フードに低身長は獣人にはありがちですけど、このような言葉遣いをする方なんてそうそういませんでしょうし、面倒事に巻き込まれた時、ハッタリ言えますでしょう」
そして普段からそうしていなければ急には出ませんし、と続けた。彼女なりの護身と言ったところか。同じ状況に身を置いていないハールからすればそれがどのような場面でどれほど役に立っているのか分からなかったが、そんなことまでしなくては生きていけないのかと思うと、少し同情した。それが彼女にとって失礼なことだと理解していたし、もし口に出せば容赦なく張り手の一つでも飛んでくるだろうと予想できたので黙っていたが。そして、今の話が本当である確証などどこにもない。
とりあえず、それが真実であること前提で話を進める。
「お前さ、この街から動かねぇの? 別の街なら少しは状況も――……」
ハールは場の空気が途端に冷たくなったのを感じた。目を遣ると彼女は口を閉ざしたまま、隣を歩く彼には一目もくれずに前だけ見ていた。しばしの沈黙。少し待ってみたが、今度は答えが返ってくることはなかった。
「……まぁ、無理には訊かねぇけど」
返答する気はないのだと判断し、自ら話題を完結させる。
「何かあるんだろ。お前さ、普段やってることのわりに……目が普通って言うか」
先程、通りの隅で、店内で――そして今も道の端で溜まっているような者たちの目は、常人のそれとは違う。俗にいう堅気の目、ではない。濁っているにもかかわらずその光は鋭く、向き合ったものを抉りにかかり、隙さえあれば何かを奪っていく。そう、『あれ』に似ているのだ。――魔物の眸に。
その言葉に、一瞬だけこちらを向いたのか何なのか、何かしらの反応をしたのが分かった。
「……特別に、お話しして差し上げますわ」
「……え、いや、嫌なら無理にとは――」
「私、天の邪鬼ですから」
それが彼女にとって良いことなのか悪いことなのかは分からないが、深い部分にあることなのは窺えた。安易に話してよいものではないだろう。それを嫌っているはずの自分に喋る気になるとは。思わぬ反応に戸惑うが、彼女は気にする風もなく口を開く。
「待っているんです、ある方を。約束したんです。ずっと、待ってるって」
その語り口からして、手紙も人伝いの知らせも何もないのだと知れた。恐らく、生死すらも曖昧なのではないだろうか。
「まぁ、それだけですわよ」
悲壮感はなく、今までと同じ淡々とした声色で続ける。
「……私の、理由なんて」
その『理由』とは果たして『アリエタを動かない理由』、だけを指しているのか。
宿を出る前の自分の思考を思い出し、言葉に詰まる。
「……なぁ、そんなに、待つって――」
「辛いですわよ」
まるでこちらの考えを読み取ったかのような答えだった。――受け止めている、と感じた。彼女は、逃げていない。下手に気丈なことを言われるより、ずっと、哀しかった。
「毎日毎日、五年間も……馬鹿みたいでしょう? でも、約束した場所から帰るときにはいつも、明日は、もしかしたらと」
「…………」
「どこかで無いと解っているのに、それでも」
横目で彼女を見る。目深に被ったフードの下、瞳の奥で揺れるのは、青く深い寂しさ、自虐、哀しい期待、血が滲む程の一途さ。そして、そのすべてを内に包む感情は――……
(――……あぁ、そういうことか)
その眼差しは、理由を理解するのに十分であった。野暮なことを訊いてしまった、とハールは思う。だが、成る程、待つ訳だ。
次の瞬間には、彼女の瞳からそれらの表情は消えていた。それにしても五年とはかなりの年月だ。同じ状況に置かれた多くの者がその間に抱くであろう様々な事柄を、恐らく彼女はとうに乗り越えたのだろう。
「……帰れないんじゃねぇの。中途半端な気持ちで」
彼女は黙って歩いていく。ハールの言葉を聞いているのかいないのか、判別のつかない横顔。
「その気になれば会いに行ける。でも志半ばでそうしたら、相手が待っていてくれた時間も無駄にしちまうような気がして……何年も待っていたのは、そんな途中で諦めるような奴じゃないだろ」
「随分と知ったような口をお利きになりますのね。私詳細については触れていないはずなのですが」
「え、あ…………悪い」
「……謝るのは、私にではないのでは?」
息を呑み、思わずフェスタの方を向く。が、そのとき彼女は既に一軒の店の前で足を止めていた。
「では私はここで。今度こそさようなら」
正直、“まとも”な店でないことは明白であった。どこが、という具体的な指摘はできないが、指摘するまでもなく“ヤバい”と本能が瞬時に理解する。そんな空気だった。
「フェスタ、お前いつもこんな処に出入りしてんのか」
「貴男には関係ありませんわ」
「関係ねぇけど……!」
「そういうのが嫌、とでも? ――貴男が」
『そういうの』という言葉で彼女が指したのは、恐らく『もし、自身に何かがあったら』ということだと知れた。
「貴男ずっと私を気に掛けてくださっているようですが……それは、『貴男が』嫌だからなのでは?」
「――……!」
――自分が、嫌だから。
誰かに言われることで、はっきりと突き付けられ、気付いた。それは今に始まった思考ではない、この時までずっと続いていたことだった――と。口に出されなければ意識することもなかったであろう、自分の思考回路。
改めて思えば、リセを初めて目にしたときも、そうだった。
もし死んでいたとしたら。そして、彼女の身体が誰に見つかることなく横たえられたままだとしたら。それを空腹の魔物が見つけたとしたら。ここで知らないふりをしたならば、もう事実の確認はできない。だからこそ余計に、寝覚めが悪い。ゆえに、生死の確認をしたのだった。
相手を思ってどうとかではなく、その取り返しのつかない後悔に苛まれるのが嫌だったからだ。今まで何かがあったとき人に手を貸したのも、結果助けたことになっても、結局は自分が後味の悪い思いをするのが嫌だっただけだ。
ココレットの言葉が、脳裏を過ぎる。
『優しくされた方の気持ちも考えてよ』
自分はリセを結果的に助け、ただ送り届けようとした。しかしそう接された彼女の気持ちは考えていなかった。代償として、リセは一人で森に入り、危険な目に遭った。
『無意識? ますます質が悪いわね』
今になってようやく本来の冷たさで響く。
『貴男の優しさは、誰かを傷つけてその上に成り立っていること、忘れないで』
優しさなど、他人から見た結果に過ぎない。決して自分が優しいなどとと思ったことはない。優しいだとかお人好しだとか散々言われてきたが、それだって結局はエゴのうちではないか。
思わぬところで、自分の身勝手さを突き付けられた。
自分は言われるほど他人のために動く人間ではないという自覚はあった。優しくないと何度も思ってきた。
本当に優しかったなら、相手を気遣っていたなら、リセが崖でフレイアを引き上げようとしたとき、すぐにでも樹の陰から飛び出て手を貸していたはずだ。会話の流れからして、『この方が上手くいく』と考えたがゆえに、動かなかった。今までお人好しだの優しいだの自分を大切にしろだの言われてきたが、行為自体はすべて自分が勝手にやったことではないか。
優しくなんて、ない。
「…………そうだ」
今確信した。シリスに着いた直後、夜の宿の廊下でのフレイアとの会話を思い出す。自分でも、言っていたではないか。
『違う、オレがそういうの嫌なだけ』
本当に彼女のことを思うなら――――彼女に話すべきではないのか?
自分が、彼女の傷付いた顔を見たくないだけではないのか?
リセの内に秘められた狂気を話さないのは、本当に彼女の為なのか?
「それは、ただの自分勝手というものですわ」
その声で、現実に引き戻された。途端に周囲の景色が薄暗く淀んだ夜の通りに変わる。
「……それと」
店から漏れる灯りに照らされた少女は振り返る。外套が夜風に吹かれ微かに膨らんだ。フードの横から流れる青い髪の輪郭が逆光になぞられ、闇に浮かぶ。
「軽々しく名前、お呼びにならないでください」
「名前呼ぶなって、じゃあ……」
「野良猫とでも呼べばよろしいではありませんか」
ハールの言葉を先回りして答えると、再び彼に背を向け、店の扉へ歩いていく。
「もう二度とお会いすることもないでしょうけど」
今度は振り返らなかった。錆びついた取っ手に手を掛けると迷わずなかへ身体を滑り込ませる。扉の隙間から長く伸びた光はすぐに細くなり、軋んだ閉まる音とともに消え去った。
「……何やってんだか」
引き止めようなど、そんなことをして何になるというのか。彼女にとっては、無秩序で危険な場所に身を浸すのは日常なのだろう。だが、ここでもし事件にでも巻き込まれたとしたら――いや、仮に彼女に何かが起こったとしても、それこそ彼女が言うように自分には関係のない話だ。
ただ出逢い方はどうあれ、一度顔を合わせて会話した者に何かがあるというのは気分が良いものでないのは事実で――
「……あぁもう、何がしたいんだオレは」
苛立ちと呆れが滲む溜め息を一つついて、彼は店に背を向けた。
「方向が一緒なんだから仕方ねぇだろうが!」
彼女は舌打ちでもしそうな勢いで露骨に嫌な顔をする。
「そこまで邪険にするか普通……」
「本来は私がされる側のはずですが、貴男がしないので私がしただけです」
「もっともらしく聞こえるけど全く筋通ってねぇからなそれ……つーか、お前何でそんな喋り方?」
ハールは彼女の自虐的な厭味を受け流すと、歩きながら何気ない疑問を口に出す。彼女の丁寧な言葉遣いは、窃盗をしなければならないような生活に符合しないように思えた。
「どうでもいいでしょう」
何だかんだで並んで歩いてはいるものの、一緒というには若干離れている微妙な距離感。彼女は一瞬ハールを見遣ると、ややあって言葉を続けた。
「……まぁ、簡単に言ってしまえば身分詐称ですわね。フードに低身長は獣人にはありがちですけど、このような言葉遣いをする方なんてそうそういませんでしょうし、面倒事に巻き込まれた時、ハッタリ言えますでしょう」
そして普段からそうしていなければ急には出ませんし、と続けた。彼女なりの護身と言ったところか。同じ状況に身を置いていないハールからすればそれがどのような場面でどれほど役に立っているのか分からなかったが、そんなことまでしなくては生きていけないのかと思うと、少し同情した。それが彼女にとって失礼なことだと理解していたし、もし口に出せば容赦なく張り手の一つでも飛んでくるだろうと予想できたので黙っていたが。そして、今の話が本当である確証などどこにもない。
とりあえず、それが真実であること前提で話を進める。
「お前さ、この街から動かねぇの? 別の街なら少しは状況も――……」
ハールは場の空気が途端に冷たくなったのを感じた。目を遣ると彼女は口を閉ざしたまま、隣を歩く彼には一目もくれずに前だけ見ていた。しばしの沈黙。少し待ってみたが、今度は答えが返ってくることはなかった。
「……まぁ、無理には訊かねぇけど」
返答する気はないのだと判断し、自ら話題を完結させる。
「何かあるんだろ。お前さ、普段やってることのわりに……目が普通って言うか」
先程、通りの隅で、店内で――そして今も道の端で溜まっているような者たちの目は、常人のそれとは違う。俗にいう堅気の目、ではない。濁っているにもかかわらずその光は鋭く、向き合ったものを抉りにかかり、隙さえあれば何かを奪っていく。そう、『あれ』に似ているのだ。――魔物の眸に。
その言葉に、一瞬だけこちらを向いたのか何なのか、何かしらの反応をしたのが分かった。
「……特別に、お話しして差し上げますわ」
「……え、いや、嫌なら無理にとは――」
「私、天の邪鬼ですから」
それが彼女にとって良いことなのか悪いことなのかは分からないが、深い部分にあることなのは窺えた。安易に話してよいものではないだろう。それを嫌っているはずの自分に喋る気になるとは。思わぬ反応に戸惑うが、彼女は気にする風もなく口を開く。
「待っているんです、ある方を。約束したんです。ずっと、待ってるって」
その語り口からして、手紙も人伝いの知らせも何もないのだと知れた。恐らく、生死すらも曖昧なのではないだろうか。
「まぁ、それだけですわよ」
悲壮感はなく、今までと同じ淡々とした声色で続ける。
「……私の、理由なんて」
その『理由』とは果たして『アリエタを動かない理由』、だけを指しているのか。
宿を出る前の自分の思考を思い出し、言葉に詰まる。
「……なぁ、そんなに、待つって――」
「辛いですわよ」
まるでこちらの考えを読み取ったかのような答えだった。――受け止めている、と感じた。彼女は、逃げていない。下手に気丈なことを言われるより、ずっと、哀しかった。
「毎日毎日、五年間も……馬鹿みたいでしょう? でも、約束した場所から帰るときにはいつも、明日は、もしかしたらと」
「…………」
「どこかで無いと解っているのに、それでも」
横目で彼女を見る。目深に被ったフードの下、瞳の奥で揺れるのは、青く深い寂しさ、自虐、哀しい期待、血が滲む程の一途さ。そして、そのすべてを内に包む感情は――……
(――……あぁ、そういうことか)
その眼差しは、理由を理解するのに十分であった。野暮なことを訊いてしまった、とハールは思う。だが、成る程、待つ訳だ。
次の瞬間には、彼女の瞳からそれらの表情は消えていた。それにしても五年とはかなりの年月だ。同じ状況に置かれた多くの者がその間に抱くであろう様々な事柄を、恐らく彼女はとうに乗り越えたのだろう。
「……帰れないんじゃねぇの。中途半端な気持ちで」
彼女は黙って歩いていく。ハールの言葉を聞いているのかいないのか、判別のつかない横顔。
「その気になれば会いに行ける。でも志半ばでそうしたら、相手が待っていてくれた時間も無駄にしちまうような気がして……何年も待っていたのは、そんな途中で諦めるような奴じゃないだろ」
「随分と知ったような口をお利きになりますのね。私詳細については触れていないはずなのですが」
「え、あ…………悪い」
「……謝るのは、私にではないのでは?」
息を呑み、思わずフェスタの方を向く。が、そのとき彼女は既に一軒の店の前で足を止めていた。
「では私はここで。今度こそさようなら」
正直、“まとも”な店でないことは明白であった。どこが、という具体的な指摘はできないが、指摘するまでもなく“ヤバい”と本能が瞬時に理解する。そんな空気だった。
「フェスタ、お前いつもこんな処に出入りしてんのか」
「貴男には関係ありませんわ」
「関係ねぇけど……!」
「そういうのが嫌、とでも? ――貴男が」
『そういうの』という言葉で彼女が指したのは、恐らく『もし、自身に何かがあったら』ということだと知れた。
「貴男ずっと私を気に掛けてくださっているようですが……それは、『貴男が』嫌だからなのでは?」
「――……!」
――自分が、嫌だから。
誰かに言われることで、はっきりと突き付けられ、気付いた。それは今に始まった思考ではない、この時までずっと続いていたことだった――と。口に出されなければ意識することもなかったであろう、自分の思考回路。
改めて思えば、リセを初めて目にしたときも、そうだった。
もし死んでいたとしたら。そして、彼女の身体が誰に見つかることなく横たえられたままだとしたら。それを空腹の魔物が見つけたとしたら。ここで知らないふりをしたならば、もう事実の確認はできない。だからこそ余計に、寝覚めが悪い。ゆえに、生死の確認をしたのだった。
相手を思ってどうとかではなく、その取り返しのつかない後悔に苛まれるのが嫌だったからだ。今まで何かがあったとき人に手を貸したのも、結果助けたことになっても、結局は自分が後味の悪い思いをするのが嫌だっただけだ。
ココレットの言葉が、脳裏を過ぎる。
『優しくされた方の気持ちも考えてよ』
自分はリセを結果的に助け、ただ送り届けようとした。しかしそう接された彼女の気持ちは考えていなかった。代償として、リセは一人で森に入り、危険な目に遭った。
『無意識? ますます質が悪いわね』
今になってようやく本来の冷たさで響く。
『貴男の優しさは、誰かを傷つけてその上に成り立っていること、忘れないで』
優しさなど、他人から見た結果に過ぎない。決して自分が優しいなどとと思ったことはない。優しいだとかお人好しだとか散々言われてきたが、それだって結局はエゴのうちではないか。
思わぬところで、自分の身勝手さを突き付けられた。
自分は言われるほど他人のために動く人間ではないという自覚はあった。優しくないと何度も思ってきた。
本当に優しかったなら、相手を気遣っていたなら、リセが崖でフレイアを引き上げようとしたとき、すぐにでも樹の陰から飛び出て手を貸していたはずだ。会話の流れからして、『この方が上手くいく』と考えたがゆえに、動かなかった。今までお人好しだの優しいだの自分を大切にしろだの言われてきたが、行為自体はすべて自分が勝手にやったことではないか。
優しくなんて、ない。
「…………そうだ」
今確信した。シリスに着いた直後、夜の宿の廊下でのフレイアとの会話を思い出す。自分でも、言っていたではないか。
『違う、オレがそういうの嫌なだけ』
本当に彼女のことを思うなら――――彼女に話すべきではないのか?
自分が、彼女の傷付いた顔を見たくないだけではないのか?
リセの内に秘められた狂気を話さないのは、本当に彼女の為なのか?
「それは、ただの自分勝手というものですわ」
その声で、現実に引き戻された。途端に周囲の景色が薄暗く淀んだ夜の通りに変わる。
「……それと」
店から漏れる灯りに照らされた少女は振り返る。外套が夜風に吹かれ微かに膨らんだ。フードの横から流れる青い髪の輪郭が逆光になぞられ、闇に浮かぶ。
「軽々しく名前、お呼びにならないでください」
「名前呼ぶなって、じゃあ……」
「野良猫とでも呼べばよろしいではありませんか」
ハールの言葉を先回りして答えると、再び彼に背を向け、店の扉へ歩いていく。
「もう二度とお会いすることもないでしょうけど」
今度は振り返らなかった。錆びついた取っ手に手を掛けると迷わずなかへ身体を滑り込ませる。扉の隙間から長く伸びた光はすぐに細くなり、軋んだ閉まる音とともに消え去った。
「……何やってんだか」
引き止めようなど、そんなことをして何になるというのか。彼女にとっては、無秩序で危険な場所に身を浸すのは日常なのだろう。だが、ここでもし事件にでも巻き込まれたとしたら――いや、仮に彼女に何かが起こったとしても、それこそ彼女が言うように自分には関係のない話だ。
ただ出逢い方はどうあれ、一度顔を合わせて会話した者に何かがあるというのは気分が良いものでないのは事実で――
「……あぁもう、何がしたいんだオレは」
苛立ちと呆れが滲む溜め息を一つついて、彼は店に背を向けた。