Story.12 港町の黒猫


      †      
 ――……あの後、何事もなく時間は過ぎていった。否、“何事もなかったかのように”皆過ごしていた。あえてその話題には触れないように、すべてが最初から無かったように。
 リセとフレイアは二人で隣の部屋にいるし、イズムは恐らく夕食の後片付けでも手伝っているのだろう。 ――今なら一人で出掛けたとて問題は無い。
 残るハールは、部屋でそんなことを思っていた。
 仰向けに寝転んでいたベッドから上半身を起こす。ふと、つい何時間か前この場所にあの少女が座っていたことを思い出した。
(まさか手ぇ上げるとはなー……)
 リセの頬の赤みは、早急に冷やしたせいかそれともそこまで強くはたかれなかったのか、すぐに引いた。
 フレイアの件に関してもそうだが、旅をしていれば……していなくとも生きていれば、様々な人間に出逢う。そしてその数だけ想いや考え方があり、それは歯車のようにすべてが噛み合うことは、ありえない。つまりフレイアが現在も共に居られる状況にあるというのは、あまりにも稀なことなのだ。ああいった、フェスタのような者とて多く存在する。
 リセに対して、誰かに合わせろとは思わない。彼女はけして間違ってはいないからだ。だが、彼女がそのままで『いいのか』――……いや、『大丈夫なのか』という気も、何処かでしているのは事実である。しかし、変わって欲しいと思う訳でもなく。
(……って、オレが考えてもしょうがねぇだろ)
 傷付くのはリセ自身。それだけのことだ。それだけのこと。
「…………」
 傷付く、といえば。未だリセには彼女が魔物を虐殺したことを隠したままだ。本来ならば告げるべきだと解ってはいる。ただでさえ情報が少ない故たとえどんなことだろうと彼女自身も把握した方が良いに決まっているし、それによる記憶に関しての進展がまったくないとは言い切れない。
 しかし、伝えられるわけがない。リセの振る舞いは明るいものの、その実、薄い氷の上に立っているような状況なのだ。それは帳簿の一件で改めて思い知らされた。さらに不安定にさせるような真似など、できるはずもない。
 大きく溜め息をつき、視界を、そしてこれまでの思考を遮断するように目を閉じる。
 真に自分が考えるべき者は――
「……他にいるだろ」
 そうだ、つい考え事に没頭し失念していたが、外出しようとしていたのだ。
 黙って行こうとしたが、自分が何の知らせもなく居なくなって慌てる人間が一人思い当たる。また何かあってはどうしようもない。部屋に簡単に置き手紙――という程のものではないが――を残して置くことにした。
 今度こそベッドから起き上がり、机に歩み寄る。誰かへ自分に関して何かしらの情報を伝えておくなど、一人で旅していた時にはしなかったことだ、と適当な紙の切れ端にペンを走らせながら思う。寧ろ、自分が存在していた痕跡を出来る限り薄くしようとしていた。
 それは、今もだが。
 リセと出逢い、フレイアと出逢い、イズムも道連れにして。リセをグレムアラウドまで連れていくという新たな目的や賑やかな日々で、自分が何故旅をしているか忘れそうになってしまう。
 だが今も、核の部分は変わらない。自分の存在を公にしないことと、『探すこと』。
 そしてその先……本物の笑顔を取り戻し、あるべき平穏を、『彼女』に返す。――……それこそが、旅をする、理由。
 誰よりも心優しい、誰よりも幸せにならなくてはならない、

 ……そう、自分にとってたった一人の、大切な――――……

「……ッ、」
 血が出るほど拳を握りしめていたことに気付く。爪が食い込んでいたらしく、手の平が酷く痛んだ。
 この程度、『彼女』が感じているであろう痛みとは比べられもしないだろう。
 それでも『彼女』はそんなことを感じさせず、いつも微笑んで。

 記憶のなかの彼女は、必ず笑顔だ。柔らかいその笑みは、日々を生きるため支えでもあり、自分を苦しめる鎖でもあり、存在する意義であり、

 ……――自らのすべてだ。

 一つ、まるでそれが禁じられているかのように静かに、息を吐く。そして俯いていた顔を上げると、扉へと手を伸ばした。

      †

 宿屋を出れば、そこは日中見物した露店が連なっていた通りだ。暗くなった今は皆が店を畳み、人々の賑やかな声の代わりに波音が響いている。他の音がないせいで、それは昼間より大きく感じられた。
 黒い海の上にぽっかりと浮かんだ明るい月が広大な水面を照らしている。映った月光は光の粒となり、それが集まった軌跡は、まるで月へと続く道のように見えた。
 そのまま海沿いを歩いていくと、何故かふと軽い違和感を覚えた。景色の流れる速度が、早い。そしてそれは誰かの歩調に合わせる必要性がないからだと気付く。たった数ヶ月前までは、当たり前のことだったというのに。
 先程もそうだったが、自分は一人で思考を巡らすことが多いのかもしれないと思った。所謂『考え事』だ。
 一人でいる時間が長かったからだろうか。そんなことを思いながら、夜に染まる大海を眺めて歩く。
 視界を占める色は圧倒的に黒が多い。そんななかで色を放つのは、海に注ぐ月光と、薄桃の光を薄く纏って、闇に淡く浮かび上がる花弁。数は少ないが、街の入口付近の高台から風に乗ってはらはらと舞い落ちてくる。千年樹は通常の植物より魔力で構成されている割合が高いので、それが発光という形になって目に見えるのだ。昼間でも光ってはいるのだが、それは本当に微かな光であるため夜間にならないと気付かない。美しいものに特別な執着はないが、素直に綺麗だと思う。
 ふと風に揺られて落ちてきたそのうちの一枚に手を伸ばそうとし――……止めた。理由は無い。何となくだ。
 そのまましばらく歩いて宿屋のある海岸の通りから離れると、人で賑わう市街地へと入る。ここまでくると波音も届かない。花弁の明かりも、街の光に消えた。
 華やぐ夜の街を一人歩いていく。さすがリネリス屈指の観光地だ。日が落ちても昼間に劣らぬ活気がある。だが、昼夜で多少の色の違いはある。例えば家族連れが減り、男女の二人組が増える――……とか。
 流れていく街並みや看板、飾り窓を見、何屋なのかを確認していく。本屋は無いだろうか。本屋とは言っても、魔法書を扱っているような類の専門的な本屋である。
(そういえば、大通りから少し離れた処に……)
 魔法具を扱っている店があったはずだと思い出す。最後に立ち寄ったのはリセと出逢う前だし、品揃えも変わっているだろう。薄く埃を被り、ささくれ立った古い棚の多くを占めていたのは、どう考えても正規のルートでは手に入らないような物品だった。陰気で暗いあの店は、確かアリエタにあったはずだ。無論、魔法に関する店が全てそうというわけではない。一般的な魔法具店は健全である。立地の関係だ。いや、『そうだから』こそ、その場所に店を構えていると言ってもいい。
(……少し下るか)
 大通りを横切り、路地を二、三曲がって、直進。そうして目的の店に向かって歩いている内に、街の雰囲気が変わってきた。
 アリエタは景観に相当な気を遣っているにもかかわらず、石畳には足を取られそうな皹がそこかしこに入っている。観光とは無関係なここ一帯の修繕作業をする気はないらしい。それを仄かに照らす薄明かりとともに室内から漏れ出した笑い声は、けして品が良いと言える類のものではなかった。道端で屯している連中のうちの誰とも目を合わせないよう視線を落とすと、足を早める。
(……あいつは、連れてきたくねぇな)

      †

 目的のものは無かった。このような店に馴染まないと見える者がいることを不審に思ったのか何なのか、店主に睨まれていたような気がする。本当にそうだったのかもともとの目つきだったのかは分からなかったが、その視線とは関係なく早めに退散した。夜まで営業している魔法具店に集まる人間など高が知れている。他に客は数える程しかいなかったが、できることなら、数秒でも早くあのなかから抜け出したかった。
 いっそのこと、そういったその手の人間にでも訊いて……と思い、とどまる。この件に関しては、極力人と関わってはいけない。
 下手に協力など求めたりしたら、どこから足が着くか分からないからだ。そんなことを探している者がいるという情報が裏で出回るだけでも命取りになりかねない。例え少ない情報だったとしても、“動いているのは自分だと気付かれるリスク”は最小限に抑えるべきだ。
 それに、もしこのような非現実的なことを知っている者がいたとしても、真っ当な訳がない。それこそその者に、『探している者がいる』という情報として売られる可能性がある。故に、人との直接交渉は避けたい。必ず、自力で探し出す。
 文献があれば一番いい。だからこうして探しているのだが――百年戦争前のグレムアラウドのものなら、まだ『それ』が禁忌とされていなかったのだから何かしら記述があるかもしれない。
 本当は、グレムアラウドで探した方が見つかりやすい気もする。が、あの国には、あまり近付きたくない。魔族の国だからだとか、そんな理由ではないが。
 リセを送り届ける場所がグレムアラウドと決まった時は、正直参った。まったく、何の因果か、まさかこんな形で――……

「きゃっ……!」
「あ、すみませ……」
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