Story.12 港町の黒猫
あの小柄な盗人に追い付けるよう、全力で走る。こんなに本気で走るなど久しぶり――……でも無かった。
先日、洞窟が倒壊した際も死ぬ気で走った。死ぬ気で走らないと死ぬからだ。だがもしあの状況で一人旅であったとしたら――……
その先を思う暇すら与えてくれないなんて、まったく、彼女と出逢ってからはどうも今までとは調子が違う。
「居た……ッ!」
子供とも考えられる背の茶色いフードが、人の波間に揺れていた。あともう一息。
(……追い付ける!)
――……不意に、フードがこちらを振り返った。すると、彼、または彼女が途端に小さくなっていく。速度を上げたようだ。舌打ち。だがこちらもまだ余裕は残っている。このくらいで音をあげるようでは魔物と殺りあうなんて出来るわけがないのだ。
それからしばらく走る。そろそろ相手はきつくなってきたのではないか――……と思った瞬間、
「……!」
盗人が人波に引っ込んだかと思うと、突如消え失せた。その地点までくると急いで辺りを見回す。店と店の間にごく狭い路地が伸びていた。その先に――……揺れる人影。ハールは躊躇わずにそこを曲がり、再び走り出す。相手は体力の限界が近いのか、先程より各段に減速していた。追い付くのも時間の問題である。人物まで、あと少し。日光は両隣の建物に遮られてあまり届かず、薄暗い空間。所々に放置されている廃材や木箱やその残骸に足を取られないように走る、走る。
視界に道の終わりが映った。先を塞ぐように板が立ててある。行き止まりだ。ここまできて、見逃すなどという選択肢は残っていない。
「待て……ッ!」
目の前で揺れる外套がその手に届く。
「――!?」
――はずだった。
指先は虚しく空を掻く。相手は壁になっている板の隅に積まれた廃材の木箱にふわりと飛び乗った。これを踏み台に壁板を飛び越えるつもりだと瞬時に悟る。
「……っ、させるかよッ!」
ほぼ反射的に木箱を横へ蹴り飛ばした。相手が息を呑んだのが微かに聞こえる。盗人は足場が失くなりそのまま落下――するかと思いきや、器用に着地する。が、踏鞴を踏み、板に背をついた瞬間――
木製の鈍い音がその場に響いた。
「捕まえた……ッ」
ハールが強く木板に左手を付く。ついに追い詰めた。もう、逃げられない。
「……何か……っ、返すモノ、ねぇか?」
乱れた呼吸を整えながら見下ろした相手は、遠くから見ても小柄だと感じていたが、実際に見ると更に小さく、背はハールの胸辺りまでしかなかった。唐突に消えたのはしゃがんだせいかもしれないと思う。そして姿勢を低くしたまま、見失わせたと思い込ませてここに逃げ込む。自らの体躯を生かした逃げ方だ。有効かどうかは曖昧なところではあるが――と最初は思ったのだが、恐らく初めからあの板を廃材で乗り越えるつもりだったのだろう。それこそこのくらい小柄な者、そして慣れている者にしかできない芸当だ。
(常習犯、ってことか……)
数秒の間、二人の息遣いのみが雑踏から隔離された薄闇に波紋を広げていた。フードを目深く被っているせいで、その下の顔は窺えない。
突如相手が身を屈めた。素早く彼の手をすり抜けると足を払う。その身のこなしは実に滑らかで、しなやかな黒猫を思わせた。
「な……ッ!?」
不意を突かれ驚いたものの、どうにか持ちこたえて素早く身体を反転させる。
――が、転がっていた木箱の残骸に足を取られた。
「うあッ!?」
「きゃ……!?」
そのまま相手を下にして、ハール共々地面へと倒れ込んだ。茶色いフードが空気を含んで膨らみ、完全に落ちこそしなかったものの、顔があらわになる。
「――――……!」
「……――退いてくださいません?」
鋭く突き上げるように見つめてくるのは、アメジストの瞳。そして小さな唇から紡がれたのは、刺々しい言葉。それは――少女の声色。
そう、少女だった。
冷たい地面に広がる長い髪は、鮮やかな青。相手が自分より年下に見える少女であったということと、その上でこの状況であるということへの驚きで、思わず身体が固まった。
「……退け、と言うのが聞こえませんの? それとも――」
侮蔑の滲む彼女の声が急速に現実へと意識を連れ戻し、息を呑んだ瞬間――――
「ハール! ……って、きゃあ!?」
「うわ、リセ転んだ!?」
「大丈夫ですか?」
聞き慣れた声と地面に何かが落ちたような音、そして数人の靴音が狭い路地へ駆け込んできた。しかしそれは一定の距離をとったままぴたりと止み、数秒の静寂が訪れる。
「……僕たちが居なかった数分の間に、どんな進展があったんでしょうか?」
「違ぇよ!」
友人の若干冷ややかな呆れの眼差しに弾かれるようにして立ち上がる。彼女もすぐにそうすると、外套に付いた砂埃を軽く手で払った。
「冗談ですよ、無事で何よりです。……そちらの方も」
そう言うと、イズムが微笑を向ける。――向けられた彼女は、この一瞬の隙にじりじりと後退していた足を止め、無表情で小さく息を吐いた。
「賢明な判断ですね」
ハールはその無言のやり取りを横目で確認すると、リセの方へ歩いていく。
「おい、さっきリセ転んでただろ」
「……ちょっといたい」
そう答えたリセは、瞳に涙を溜めている。あと一度でも瞬きをしたら雫が零れ落ちてしまいそうだ。そんな彼女にお前は一体いくつだと訊きたくなったが、原因が少なからず自分にもあるということで、それは思うだけに止めておいた。
「うー……っ」
「ああもう、ほら泣くな」
「泣いてない……」
「嘘つけ。後でちゃんと洗っとけよ?」
「ふお……」
確かに涙が零れこそしていないものの、これは泣いていないと言ってもいいものか。シリスの服屋でも思ったが、やはり妙なところで素直でない。その陰で、外套の少女は罰が悪そうに身体を背けた。
「……お前は怪我とかねぇよな?」
振り返りハールが言う。その言葉に一同の視線が一点に注がれる。その先――四人に背を向けていた彼女は懐に手を遣ると、何かを掴み後ろに放った。その放物線の先にいたハールは反射的にそれを取る。左手には、いつもと変わらぬ若干寂しい重さの革袋があった。――降参、ということだろう。
「……痛っ」
彼女はこちらに身体を向けると、痛みで声が漏れたらしいリセに視線を遣る。そして不機嫌そうに眉を顰め、そのまま彼女に歩み寄った。予想外の少女の動きに、微かな緊張が辺りに走る。
「……お見せになって」
少女はリセの足元にしゃがみ込む。まだ血が玉になって滲む膝の傷に手を翳すと、掌に明るい水色の光が生まれた。
「え……!?」
それは、間違いなく魔力の光だった。柔らかな光が傷を丸く包むと、その粒子は擦り切れた赤に注がれ、そこを埋めていく。細く裂けた血のかたちは先刻立ち寄った浅瀬の水色に変わり、それと同時に痛みが引いていくのをリセは感じていた。
――やがて少女の手に灯った光が消えると、じんじんと主張していた痛みは完全に消える。
「すごい……! 治ったの?」
「治癒魔法は仮治癒です。治癒の促進をしつつ、傷口が塞がるまでの代わりを魔力がするだけですわ。自然に治っていくにつれてそれも消えていきます。まあ、これで痛まないし膿むこともありませんので」
「癒者……だったのか」
呟くように言うハール。視線の先の傷口は少女の魔力を帯びて、粉にした宝石を振り掛けたようにきらきらとしている。
「癒者なら役所に申請して癒師になるとか、幾らでもやりようが――」
しかし少女は立ち上がると無言でハール睨みつけるだけだった。
「あ、あの、ありが……」
「勘違いしないでくださいませ。目の前でめそめそされるのが鬱陶しかっただけですので」
そのままの冷たい瞳でリセの言葉を遮ると腕を組む。
「――さあ、自警団に突き出すなり、煮るなり焼くなり殴る蹴るなりお好きになさって」