Story.11 花雨が包む影、潮風に乗せる想い。

 軽い足取りで階段を降りていくリセと、その後ろを数段開けて続くハール。  上にいるときはある程度の高さを感じたが、それは意外と短いものですぐに浜へと降り立った。細かな砂の上を歩くと、舗装された煉瓦とは違う、不安定ながらも柔らかい感覚が靴底を通して伝わってくる。
「――――っ!」
 何も隔てず海原と向き合ったことに対し、声にならない感激でリセの顔がぱあっと綻んでいく。勢いよくハールを振り返ると、輝くような表情で海を指差した。
「ハール、入っていい!? 足だけだから!」
「転ぶなよ」
「うん!」
 言うが否や、海原へぴゅーっと駆けていく。すでに転びそうだ。わざわざ自分に了承を取る必要など無いだろうに、と可笑しくて少し笑みが零れる。
 転倒することもなく無事波打際まで辿り着くと、ブーツを脱いで水が届かない場所に纏めて置いた。
「わっ、青くない!」
 そろそろと片足を水に浸すと、リセは驚きの声を上げた。
 白く泡立ってドレープのように重なり合った波の先が、砂浜と彼女の白い足首を擽る。
「ハール、遠くで見ると青いのに、水が青くないよ!? すごい! どうして? 透明だよ!」
 濡れないようにスカートのを裾をたくし上げ、足踏みをするようにして飛沫を立てる。砕けた水が太陽の光を反射し、きらきらときらめいた。
「え、いや……それはオレも分からない」
 海がどうして遠くでなければ青く見えないかなど、考えたことも無かった。あまりに素直な質問に面食らう。
「お前は『なんで』と『どうして』が多いな」
 今まで何かを初めて見ても、自分のなかの知識と目に映る風景を重ね、答え合わせをするようなものだった。もしくは、『それはそういうものだ』とそのまま受け入れてしまっていた。しかし、リセは違う。
「だって不思議じゃない? なんででだろうね、すごいね、楽しいね!」
 リセはそう言い、無邪気に笑った。その笑顔から、彼女と旅を始めたばかりの頃のことをふと思い出す。それは何も無い道から花冠を作り、自分に差し出してきたときの笑顔と同じだった。
 彼女は人にとっては何でもないことを楽しく感じる、もしくは、楽しくするためにそこから何かを自分でつくり出してしまう。
 彼女の性格をあまり知らなかった頃の出来事だが、直感的に彼女のその性質を感じ取っていたのだろう。だから、森を出るとき思ったのだ。種を、見付けたと。
 彼女といれば、自分も、

「……――何かが、変わる?」

「何か言ったー?」
「えっ? いや、あー……それ、ペンダントとか落とすなよ」
 咄嗟の言い訳だ。滅多に落ちる訳がない。少し変に思われただろうか。
「あっ、うん! じゃあ携帯水晶のなかに入れとく!」
 ……ごまかせた。
 まぁ、それならそれでいいのだが。そんなこと、面と向かって言える訳がない。
 リセは首の後ろで金具を外すと、銀鎖を指先で摘んで目の前に垂らした。
「これ、そんなに大切にしていたのかな……」
 今は勿論、『昔』も。
この紅い宝玉のペンダントは、自身のものであると確信した彼女が、夜の川底で見付け拾い上げたものだ。大切なはずなのに何故そんな場所に放置されていたのだろうか。
(それも、何か関係が……?)
 フィール姉妹も言っていたように、記憶に繋がる何かの手掛かりになればよいのだが――……

 そう思った瞬間だった。

「――いッ……!!」

 脳裏。

 紅い何か。

 綺麗に、

 揺れる。

 しかしそれも一瞬のことで、それはすぐに闇へ溶けてしまった。
「リセ!?」
 異変に気付いたハールが駆け寄ってくる。
「今、見えた……」
 俯き、ペンダントを強く握ると搾り出すような声で言う。
「何が……」
「多分、昔の、こと……」
 それが見えた瞬間、まるで痛みがそのイメージを掻き消そうとしているかのようだった。
 邪魔された。記憶の断片が閃いたのに。自分のなかに、それは確かに存在したのに。ココレットに『記憶は失くされてはいないが、鍵が掛けられている』ということ言われたが、こういうことだったのか――――
 身をもって、思い知らされた。そういえば、先程もだった。手掛かりを探り寄せようとした瞬間、痛みに襲われた。
 明らかに、邪魔されている。
「二つ……二つ、あった」 譫言のように小さく、聞こえるか否かという程度の大きさで呟く。ハールはそれを聞き漏らすまいと顔を近付けた。
「……そのペンダントがか?」
「分かんない、ただ、同じように紅い何かが……二つ、あって」
 銀の前髪に隠れる顔を覗き込む。そこにあったのは、遥か彼方に揺れる小さな何かを逃がすまいとするような、必死で、深く探る瞳。
「……紅。硝子みたいだった。このペンダント? 分からない……冷たくて……でも、……」
 記憶を手繰る。先刻見えたものの、少し先、ほんの少しでもいいから、その先を――――
「……痛ッ!」
「おい! 無理は――……」

「……あっ、リセー、ハールくーんっ!」

 ――……そのとき、ふいに聞き慣れた声が辺りに響いた。声のした階段を見上げると、フレイアが手を振っていた。隣にはイズムもいる。
 緊張が解けたのか、リセの表情が緩む。
「……今は、これが限界みたい」
 ハールに言うと、ペンダントを持っていない方の手を二人に振り返した。
「フレイア、イズム君! 二人もこの辺りに居たんだー!」

 記憶の断片が指から擦り抜けていってしまったということよりも、彼女がいつもの笑顔で目の前に居るということの方が余程重大で。

 ハールはその事実に、ただ安堵した。
11/12ページ
スキ