Story.11 花雨が包む影、潮風に乗せる想い。
二人は暫しの間そのまま無言で歩き続け、真っ直ぐに通りを進んで行った。だんだんと数を減らしていく露店。やがてそれも最後には無くなって、人通りも緩やかになった。
そんななか、ハールは何かを突然思い出したかのような声を小さく上げると、リセを振り返る。
「……もう大丈夫だろ」
解かれる手。彼は振り返るか否かという角度までしか顔を向けなかったので、後ろにいるリセからはその表情を窺うことはできなかった。
「あ……っ、うん」
ふっと繋いでいた右手の温度が下がる。
潮風でその温度がさらわれていってしまうのが何となく寂しく感じて、リセは手を結んだ。
「………………」
「………………」
そして再び沈黙が降りる。
(……ハールと、前にもこんな感じで歩いたなぁ)
出会って間もない頃は、会話が続かなくてすぐにこんな状態になった。……現在でも『すぐに』が『たまに』になった程度なのだが。それでも、今はハールがそういう性格だと分かっているので、沈黙も苦ではない。寧ろ、それが彼といるのだと実感する要因にすらなっている気がする。
フレイアと歩く時の賑やかなじゃれ合いとも、イズムと歩く時との穏やかな談笑とも違う、緩やかな静寂。それと……
(……あ)
現在進行形でそうなのだが、いつも自分は彼の半歩後ろを歩いていることに気付く。初めて歩いた時がそうだったからか、何となくそれが決まりのようになっていた。
「…………」
「…………」
旅を始めてからしばらくは森林を通ることが多かったため、歩くのはいつも木漏れ日の下であり、聞こえていたのは木々のささめきと小鳥の囀りだった。しかし、今の二人を包むのは、たまに思い出したように舞い込んでくる薄桃の花弁と、涼やかな波音。それを彩る、響く船の汽笛と海鳥の鳴き声。
声の主である海鳥が頭上を過ぎっていく。何気なく目で追うとそれが向かう先には、無数の光の粒が表面に散らばり跳ねる、鮮やかな青がどこまでも広がっていた。
「――……ハールっ」
リセは半歩の距離を埋め、隣へ踏み出した。
「えと、ハールっ、ちょっと、止まって?」
指先で裾を掴み、軽く引っ張って立ち止まるように促す。すると、
「……えっ!?」
途端にハールがこちらを向いた。妙に驚いた様子で、何故か少し顔が赤い。
その表情にリセは首を傾げる。
「ハール、どうしてそんなびっくりしてるの……?」
「“どうして”って……! お前、さっきの少しくらい気にし――……」
そう見上げながら問えば、何かを言い出そうとし、途中で口をつぐむ。
そして気まずそうに視線をリセから外すと、今度は片手で額を押さえて溜め息をついた。
「あー……いや、何でも、ない。お前は、そうだよな……」
数秒間そのままで何やら考え込んでいたようだが、よし、と言うと彼なりに何かを納得したらしく、いつも通りの表情で向き直った。
「……で、何だよ」
何かを自己解決して納得した後は、いつものハールだった。一体何だったのだろうと思いつつも、リセは裾を引っ張った理由を伝えようと口を開く。
「あのね、海、見たい」
「海?」
「歩きながらじゃなくて、ちゃんと見たい」
そういえば、この港町についてから、海を『視界に入れる』ということは多々あっても、意識的に海を『眺める』ということはしていなかった。リセは――少なくとも目覚めてからは――見るのも初めてであるからして、興味を惹かれるのだろう。
「あぁ、そういやまともに見てなかったもんな。端寄るか」
「うん!」
二人は人混みを抜けて、道の左側、海寄りの方へ歩いていく。そちらから降りていけばすぐに海岸であるため、人が落ちないように腰まで程の石の壁が道に沿って作られている。
「……綺麗!」
リセはそこに手をつき、身を乗り出すようにしてその向こうに広がる海原を見つめた。
「あ……っと、」
その時、少し強めの海風が吹き渡った。帽子が飛ばされそうになり、慌てて押さえようとする。
「飛ばされんぞ」
が、それより先にハールがリセの頭に手を伸ばした。
「わ、ありがと……私押さえるよ」
「お前じゃ何か不安だな」「平気だもんー」
言葉で言っても自分で押さえるという身振りをしてもハールの左手は帽子から離される気配は無く、リセは微かに頬を膨らませた。拗ねた子供のようなその表情に、少し笑うハール。
しかしその言葉から彼女に関する別の事柄も連想してしまい、すぐにその笑みは消えた。
「……お前の『平気』とか『大丈夫』って、何か不安だよな」
「もうっ、私そこまでドジじゃな……」
「お前、人に頼らないのな」
「……え?」
ハールの真面目な表情から自分が思っていた意味とは違う意味でかけられた言葉だということに気付き、リセは目を見開く。
「お前は、何つーか……『普通じゃない状況』にいるんだからさ、もっと周りを頼っていいんじゃねぇの?」
視線を海原からハールに移す。隣に立つ彼は、真剣な目でリセを見つめていた。
「宿で帳簿書いてたときだって『平気』って言ってたけどさ、本当にそうだったのか? 頭押さえてたし、もしかして痛かったんじゃないのか?」
リセは石壁の縁に乗せた手に目線を落とし、口を閉ざした。
「……やっぱりな」
小さな息を一つつくと、ハールは言葉を続けた。
「痛かったら痛いって言えばいいし、怖かったら怖いって言っていいし、不安なら、不安だって……」
そこまで言い終えたところで、ふとリセの視線の先にあるものに気付く。
「……その手もだよ」
怪我をした翌日、三人は医者に行った方がいいのではないかと提案した。しかしリセは大丈夫だと言い通し、結局はイズムに軽い手当を施され、包帯を巻いてもらっただけで今に至る。
「実は、未だにすげー痛かったりするんじゃねぇの?」
再び海の香を含んだ風が二人の間を吹き抜けた。髪や服が靡いたが、ハールが押さえているお陰で帽子が飛ばされることは無かった。
「まだ自分でも自分ができることを把握できてないんだからさ、我慢しないで辛いことは辛いって言って、もっと周りを頼ってもいいと思うけどな。オレじゃなくても、フレイアとか、イズムとか……」
「……イズム君には申し訳ないくらい頼っちゃったよ、魔法教えてって」
「あぁもう、そういうことじゃなくてだな……」
ハールはもどかしそうに帽子を押さえていない方の手で頭を掻く。
「それだって、根本的には誰かに頼るってよりは自分で何とかしようって思考だろ? お前が自分から何かをしようと思うのは、いいことだと思うし否定するつもりはない。だけどな、こんなに早く戦う必要あるか? 実際に戦り合うのはもう少し慣れてからの方がいい気がする。……魔法を覚えてから実戦まで、いくらなんでも日が浅すぎるだろ」
ハールは、イズムとキヨが住んでいた『リディアス』を出立した日のことを思い出す。彼女はそのとき金の瞳に強い光を灯して、自分に宣言したのだ。
強いままでいられるようになる、と。
つまりそれは、『守ろうとする必要がなくなる』ということ。
宣言――……否、それはまるで誓いを立てるかのような、ひたすらに強く、純粋な感情だと、感じた。
あの時から片鱗は見せていたのだ。『意外と頑固』で『自分に対して負けず嫌い』で――……『人一倍優しくて思いやりがある』、という彼女の性格の。
一人で抱え込もうとするのだって、周りを信頼していないからではなく、迷惑や心配かけたりしたくないからなのだろう。
「……う、ん」
小さく頷くリセ。だが、ハールの言葉を納得したようには見えなかった。
(……あの時に無意識に頼った。だから、またそうなってしまいそうで、怖い……)
リセは森のなかで魔物と出会ったときのことを思い出す。あのとき当然のようにハールやフレイアの後ろに隠れてしまった自分が嫌で、せめて一人でも身を守れるようになりたい、いつかは逆に自分も守れるようになりたい、と決めたのだ。
「……頼ることがいけないことじゃないのは、知ってる」
人間が支えあって生きていくのは当然だ。進むのはゆっくりでいいとも、『シリス』の武器屋で教えてもらった。頭では分かっている。しかし感情は理屈ではないのだ。まず何より先に、『大切な人の重荷になってしまうのは絶対に嫌だ』という想いが優先されてしまう。
「……でも、頼ることが行き過ぎちゃうのが、怖いの。みんなに迷惑かけたくないよ」
だんだんと声が小さくなっていく。だがけして弱々しい訳ではなく、強い芯を感じさせるような声だった。
「……もし、そんなことしたら」
俯くと、肩から銀の髪がしなやかに零れ落ち、風にふわりと流れた。
「……自分が、嫌いになりそう」
髪が邪魔してハールからは表情を窺うことができなかったが、それがどういう類のものなのかは、容易に想像がついた。
「……オレは、嫌いにならない」
リセがはっと息を呑んだのが空気から感じられた。
「お前、色々区別ついてないんだよ。『頼る』と『甘える』は違うし、『頑張る』ってことと『無理すること』も違う。それと、『努力する』のと『一人で抱え込む』ってのも、違うからな?」
視線は海に向けたまま、ハールは静かに言葉を紡いでいく。
「第一、それじゃあ何のためにオレがついてきたか分かんねぇじゃん」
そう言うと困ったように微笑して、リセの顔を覗き込んだ。彼女は口元に手を寄せると、こくこくと首を縦に振る。だがその動作が意味することとは反対に瞳には躊躇いが揺れているのが見てとれた。
「……分かった、それがお前の性分だもんな」
微かに煮え切らないものを感じたハールはまた苦笑し、降参だと言うように溜め息をつく。
「頑張れるところまで頑張れ。……ただ、その代わり、倒れる時は分かり易い場所で倒れろ」
ふ、と帽子から手が離されるのをリセは感じた。そして彼の言葉の意味を理解すると、柔らかく微笑む。ハールらしい、少しだけ遠回しな優しさが嬉しかった。
「……うん、そのときは、よろしくね」
「ん」
深い青の彼方から、水が崩れる涼やかな音と共に白波が岸に打ち寄せる。
幾度かそれが繰り返されたのち、静けさを破り先に口を開いたのはハールだった。
「……何か説教っぽくなったな、悪い」
「そんなことないよー」
「オレ、あんまり喋るの得意じゃないからさ……ごめん、色々」
「……?」
先程宿屋でリセが自身の空白に戸惑った時にも、何も言ってやれなかった。不器用と言ってしまえばそれまでなのだが、目の前の少女を元気付けることもできない自分が、情けなかった。今だって、もしかしたら無意識のうちに少しキツい話し方になっていたかもしれない。
「何気ない会話とかも、嫌じゃないのにすげー苦手で……上手く返せないし」
「……別に上手じゃなくていいんだよ?」
隣に目を遣れば、いつもと変わらぬ表情で自分を見上げるリセがいた。
「ハールが思ったこと、そのまま言ってくれればいいよ。……そういうのが、嬉しい」
そう言って、ふわりと笑った。薄い花の花弁が風に揺れるような、目にすると何故だか何も言えなくなる笑み。この笑顔、前にも見たことがある。
いつだったか――……そう、先日魔物を倒した鍾乳洞の奥に向かう途中だ。確か、無くなった帽子を見付けたときだったか。
どうしてこの少女は、何気ないことでこんな表情が出来るのだろう。
――……もう少し傍にいれば、分かるだろうか。
「それに、今だってハールが言いたいこと、ちゃんと伝わったよ? 心配してくれてるんだよね、ありがとう」
「え……!? いやっ、別に、そういう訳じゃ……!」
リセは擽ったそうに笑った。突然言われた素直な感謝に慌てるハール。変なところで素直じゃないと思っていたら今度はこれである。本当によくわからない。
――いずれにしろ旅は続くのだ。これもそのうち分かるだろう。
風が吹く。潮の香と千年樹の花弁が、二人を包んだ。