Story.11 花雨が包む影、潮風に乗せる想い。
“イズム・ルキッシュ”
ペン先から細く流れる黒いインクが、宿の宿泊者帳に書き手の名前を綴っていく。
イズムは自分の名前を書き終わると、隣に居た友人にペンを渡した。彼は受け取ると、帳簿にそれを走らせる。
“ハール・フィリックス”
「ハール君って本当に左利きなんだねー、よく書けるよねー」
フレイアは彼の手元に視線を落とすと、何気なく言う。左利きの人間が左で書くのは当然といえば当然なのだが、右利きの人間の素朴な感想である。
「いや、オレはよく右手で書けるもんだと思うけどな……」
互いに利き手なのだからやはり当然なのだが。自分に出来ないことは、たとえそれが当たり前でもすごいと感じるものなのだろうか。と言うか、その右手で剣を扱っていたではないか、とフレイアは思う。両利きなのは剣術に関してだけらしい。どう考えてもそちらの方が難しいだろうに。
「ま、そんなモノだよねー。……あ、ペン貸して」
フレイアは受け取るとさらさらと名前を綴っていく。流麗とはこのようなものをいうのだろうかと思わせる筆跡だった。洒落たレストランのメニューにでも書いてありそうな字面である。
「フレイア……字、キレイだね」
「そーお?」
フレイアは自らの書いた文字をまじまじと見つめるリセに目を遣る。このような些細なことで目をきらきらさせられる彼女が先日までは何処か妬ましくて疎ましくて、そんな感情を持ってしまうこと自体も彼女のせいにして……笑顔が眩しくて辛かった。なのに、今はそれが微笑ましく感じる。
……なんて、字面を褒められた少女がそんなことを思っているとは露知らず。リセは余程そう思ったのか、隣に居たハールにも同意を求めた。
「ね、キレイだね、ハール」
「確かに」
年頃の少女らしく、丸みを帯びていたり、少々癖のある字を書きそうだというイメージを勝手に持っていたが、このような俗に言う“大人っぽい”字を書くとは思っていなかったのだ。
「……少し意外なくらい」
「何だとぅ!?」
そう言い足すと、大人びた筆跡とは逆に子供っぽく怒ったフリをする。その落差に、ハールは少し笑った。
「ハイ、リセ」
最後に残る彼女にペンを渡すフレイア。だがリセは受け取ったものの一瞬それを躊躇ったように見えた。現在リセの右の掌には包帯が巻いてある。それは先日の一件でフレイアを崖から引き上げる際に、支えとしていた樹の根で傷付けたものだ。根はそれなりに深く食い込んでいたらしく、当初は出血も酷かった。今も傷口は塞がっていないので包帯で保護している。だが今ペンを受け取るのを躊躇したのはそれとはまた関係が無く――……
「そういえば、リセさん文字書けるんですか?」
「う……わかんない、書いたことない」
そう、彼女は森で目覚めてから一度も文字を書いたことが無かった。今まで泊まった宿屋の帳簿は誰かが纏めて名前を書いてしまうことが多かったので、その機会も無かったのだが、今回は自筆でとの注意書きがあったのだ。やはりアリエタ程の大きな街になると治安を気にしているのだろう、その辺りも厳しい。リセは眉間に小さくしわを寄せる。とりあえず見よう見真似でペンを右手にとり、紙面に立てて動かしてみる。
――……"リセ・シルヴィア"
「ふへっ!?」
書けたことに彼女自身が一番驚いたようで、笛の入ったぬいぐるみの腹を押したような声を出した。だがその気の抜けるような声とは逆に、表情は戸惑いに暗く陰る。
「……私文字の書き方知ってるのかな? 知ってるんだよね、書けたんだもん……」
独り言のように呟くと帳簿の上にペンを置く。
(……他に、私は何ができる? それで何かの記憶を引き出せたら――……)
――瞬間、激しい頭痛が彼女を襲った。
あまりの痛みに声すら出なかった。思わず片手を頭に添える。しかしそれはそう思った瞬間だけだったようで、すぐに痛みは引いていった。今の頭痛は、急に記憶を探ろうとして精神的に負荷がかかったせいなのか、それとも他の『何か』が働いたせいなのか――……? いずれにせよ、好ましいことではなかった。金の瞳に影が差す。それはまるで、煌々と光を放つ満月に、薄い雲がかかるさまのようだった。
「な……なんか、次どうペンを動かせばいいのか、その瞬間瞬間に分かると言うか……」
無意識なのか、頭に触れている手の爪を立てる。瞼を縁取る銀色の睫毛が揺れた。
「何だろ……こういうの気持ち悪い、……変な感じする」
――……その様子に、誰も何も言えなかった。ただ共通だったのは、改めて、彼女は『不安定な存在』であるという事実を認識せざるを得なかったということ。自分がどのような知識を持っているのかも分からず、それらを手にとって行使してみなければそれが何なのかすら解らない状況。いつも朗らかに笑っている彼女が抱えている問題は、前向きに捉え軽く流せるモノではないという現実を、はっきりと突き付けられた気がした。
「大丈夫か」
「うん……ごめんね、平気。びっくりさせちゃったよね」
ハールの言葉に、ふへへ、と間の抜けた笑い方をするリセ。だが、彼女の抱える異質な空白と、彼女自身の振る舞い方はあまりに見合わない。
「――――……」
かける言葉が見つからなかった。
自分が他人を慰めたり、励ますのが苦手であるのは誰よりも分かっている。
だが――……今ほどそれを悔やんだことは、無かったのではないだろうか。ハールは、知っている限りの言葉で今彼女にかけられるものがないかを探す。
「……いや、」
だが、どれも、相応しいとは言えないようなものしか浮かばず――……否、この場合相応しいと思えるようなものは、逆に無責任で軽薄なような気がして、言えなかった。
だから――――
「――――……、」
それ以上は、何も言えなかった。