Story.10 幕間
――浮遊感と、約二秒後に衝撃。
「ぅわっ……!」
コハクが転移水晶の光から空中に放り出されたことに気付いた直後には、カサッという芝の音がすると同時に、身体に鈍痛が巡っていた。
「あぃたたた……」
だがもそれも大したものではなく、すぐに辺りを見回す余裕が出てきた。
周囲にざっと視線を走らせると、ここが庭園であるということが分かった。一方あの少女は慣れているのだろう、隣に無駄のない所為で深緑のドレスの裾を翻し芝に降り立った。
そしてそれと共に目に飛び込んできたのは――……
「……ッちょ、アンタ……!」
怪我をした彼が、横たわったまま起き上がらずにいた。その姿に心臓が凍り付く。背中に手を回して抱き起こす、が、一向に身体に力が入る様子は見られない。
「おい、大丈夫か!?」
揺さぶるが、返事は無い。顔も血の気が引いて、素人が見ても『危険だ』と分かった。
「……暫し待っていてくれ」
頭上から硬い声が降ってきた。コハクが顔を上げる前に、彼女は小走りで少し離れた場所へ行ってしまった。そこには小さな人影あり、それを見付けての行動だったらしい。
「リェス様……っ! ずっと待ってらしたのですか!」
「うん」
少しばかり焦った様子の彼女に対して、もう片方の少女は笑って頷いた。小柄な少女で、黒髪の彼女を見上げている。
纏っている葡萄酒色のドレスと同色のリボンを碧色の宝玉で留め、サラサラとした薄桃花のショートカットが肩の少し上あたりで夜風に揺れていた。
遠目からでも『可愛い』ということが分かるような、そんな空気を持つ少女だった。
雰囲気はまるで逆であったが、彼女達が至上の美少女であることは揺るがぬ事実であった。エルフの彼女は鋭利な氷か、水晶のような冷厳とした美しさ、一方は、綻ぶ花を思わせるような可憐さ。美姫二人が庭園で話しているとは、こんな状況下であるにも関わらず童話のワンシーンでも見ているかのような錯覚を覚える。
「お風邪を召されてしまいます」
その白い右手で、不安気に……だがそれ以上に慈しむように、もう一方の少女の肩に届くか届かないかという長さの髪に触れた。
「大丈夫だよ。私、どうせ風邪なんて引けないんだから」
彼女は擽ったそうに微笑む。
「リェス様……」
エルフの少女が纏う空気に、微かな動揺が混じる。
「それはそうと、あの人達は……?」
だがもう一方の彼女はそちらには関せず、コハクと彼に気付いていたようで、会話を切ると少女の影から顔を出した。
「あッ、そう、それなのですが……」
彼女は手短に経緯を説明する。話を進めていくうちに、少女の眼差しは優しげなものから真剣なそれへと変化していった。
「それは……大変だね」
先程よりも微かに硬い声で言うと、小走りで二人の元へと駆け寄った。
「今晩は」
距離が距離なのですぐに彼女たちの傍へと到着すると、ドレスが地面に広がるのも厭わず膝をつく。
「魔法で治すから……腕、出して」
コハクは彼の腕を取り、彼女が治療しやすいような高さへ持ち上げた。傷を見、少女は小さく息を呑むと、静かに右手をその上に翳す。
すると、彼女の掌にひとひらの真紅が生まれた。それは明滅する度に少しずつ大きさを増し、すぐに拳程の大きさになると、今度はその光から砂時計の砂が落ちるさまの如く細く真紅の魔力の粒子がきらきらと零れ、彼の傷付いた腕に巻き付くようにして螺旋を描いていく。
光の糸の合間から覗く傷口が、少しずつだが修復されていくのが見て取れた。だが少しずつとは言っても、当然自然治癒では有り得ない速さで、である。まるで水が布にじわじわと染みていく時のように皮膚は再生していき、それと同時に裂けて露わになっていた血の色は再生した皮膚に覆われ、段々と面積を減らしていく。
コハクがその光景に驚き凝視していると、やがてその光は消えた。
「あ……、治った」
そこにあった筈の傷口は、既に跡形も無くなっていた。目の当たりにする機会は少ない魔法での治療行為が物珍しく、彼女は完治した腕を数秒間見つめていた。
だがすぐに顔を上げると、少女に笑みを向ける。
「おおきに」
「どういたしまして」
早急に治癒魔法を施せて本当に良かったと思う。だが、話で聞いていた『それ』とは少し違う気がしたのだ。
「今のは……治癒、魔法?」
彼女が知っている治癒魔法とは、魔力の粒で失った組織を“再現する”というものだ。本来再現とは、再現される前のモノに見えこそするが、物自体は違うということだ。例えば今のような傷であれば、切れたり抉れたりした身体の失った部分に、魔力をその傷という型に流し込み、埋め、それが自然に治るまでの代替とするのだ。傷が完全的に治癒するまでその魔力は傷口の中に存在し続け、再生とともに少しずつ消えていく。それはあくまで『代わり』だからだ。魔力が本当の身体になるのではない。それが所謂一般的に言う『治癒魔法』なのだ。
だが、今目の前で起こった事象は再現ではない。
これではまるで、『再現』ではなく、『再生』――――……
コハクの問い掛けに、彼女は少し悩むような素振りをみせた。
「うーん……違う、と思うよ」
口元に細い指を添え、彼女は苦笑ともとれる微笑みを浮かべる。
「私もよくわからないんだ」
自分の使役した魔法が『よく分からない』とは、なかなかに由々しき言葉である。
元来魔法とはその原理を知っていることがそれを使うことの必須条件ではない。だが、“知っていなければ使うことは難しい”のだ。魔力とは粒子であること、そしてそれをどう構築し編んでいくかというイメージによって結果は織られ形を成す。
それが何であるか知っていなければ手にしてはいけないという法は無いが、手にしていたとて使い道が分からない、そういうことだ。だが例外として、生まれながらに優れて魔法を使役するセンスが高い者は、知識は無関係に感覚のみで扱えるという。
そして、この世界には“その例外”が部族を成し、一国を築いているのである。
例外など、所詮は己の種族を中心として考え、その中心に属していないものの俗称に過ぎない。“例外”の彼らからすれば、逆に相手側……中心こそが“異端”なのだ。この国では、向こうの国でいうところの例外が、一般なのだ。
――彼女もそういうことなのだろうか。
コハクは思う。この国なのだ。何ら不思議は無い。だが、
『何か』が、引っかかった。
「傷はもう大丈夫なはずなんだけど……起きないね」
その言葉にコハクは思考を中断し、彼に視線を落とす。確かに、まだ目を覚ます気配は無かった。
「さっき相当血ィ出してたからなぁ……これは輸血とかせにゃアカンかもしれへんな」
一つ溜め息を吐き、少女を見やるコハク。
「いくら何でもそれは魔法でもどうにも、」
その時だった。
ふわりと、まるで花が風に揺れるかの如く自然な動作で少女が前に屈んだ。薄桃花の髪の毛先が、彼の頬を撫でる。突然の行動に、コハクは声を上げることさえ忘れていた。
そうして、ゆっくりと、桜の唇が、彼のそれに、触れて。
これらはほんの数秒に満たない間に起こった事であったはずだった。まさに一瞬の出来事。だがそれは、一瞬とはこんなにも長いものであったかと自問してしまうほどの時間に感じられた。
唇を離した瞬間、何かが糸を引いたのが少女の髪越しに垣間見られた。それは異質な光――――魔力の光。
――真紅のそれだったように、思えた。
「……あ、お目覚め!」
コハクがすっかり言葉というものを忘れている間に、少女は微かに動いた彼の瞼に嬉しそうな声をあげた。
「初めまして。傷、治しておいたよ。もう痛くない? 気分は大丈夫?」
何事もなかったかのように振る舞う少女に呆気にとられるコハク。ちらりとエルフの彼女に視線をやれば、複雑な表情をしていた。
一方彼は路地裏から記憶が飛んでおりしばし混乱しているようであったが、転移水晶のことを思い出すとすぐに状況を理解したようで、素直に礼を述べた。
「ありがとうございました」
平静な素振りからして、たった今起こった出来事には全く気付いていないらしい。彼はゆっくりと身を起こした。
「あれ、ふら付かない……血が足りなくなっていたんじゃ……?」
「あー……、改めて先程は悪かったな」
ふいに、エルフの少女が口を挟んだ。『絶妙に不自然』だと言えなくもないタイミングと切り出しだった。
「……しかし、貴男もそのような格好をしていては疑われてしまう」
彼は返答する為に考えるのを中断し、あー……、と小さく溜め息にも似た声を漏らした。一瞬の逡巡の後、“今更隠す”のも面倒だと感じたのか、ぱさりとフードを下ろす。フードが落ちると、そこには――……