Story.9 sugarcoat


「……もう、気は済んだか?」
 突如背後から木の葉が掠れる音と足音がしたかと思うと、数秒後には、顔のすぐ右側からひどく聞き慣れた声がした。そして、ふいにリセの腕にかかっていた重みが半分以下になる。 
「え……ッ、……ハー、ル!?」
 その左手は、リセの手が今まで絶対に離すまいとしていたものと同じものを掴んでいた。目だけを右へやり、確認する。穏やかな、碧の瞳。その色に、何処か安心している自分がいた。
「まったく、なんて処に居るんですか……」
 左側から少々呆れ気味の、だが、優しい声。
「目が離せないですね」
 微かに苦笑を混ぜた微笑を、自らも支え、ほか二人もそうしている眼下の少女へと向けた。
「ったく、暫く大人しくしてれば明らかな落下音は聞こえるし……」
 力を込め、特に合図した訳でもないが自然と合ったタイミングで、三人同時に引き上げる。今まで死に物狂いで持ちこたえていたのが嘘だったかのように、ふわりと軽く、少女を地へと降ろすことができた。崖の淵に手を付き、彼女は息を整える。
「ハール達……いつからいたの?」
 その様子を見ながらリセ一つ息をつき、ハールに問う。すると、彼はそんな彼女から視線を外して下に向ける。
「あー……って、お前手! 血……!」
 たまたま視界に捉えた彼女の白い手が鮮血で染まっているのに気がつくと、目を見開く。
「あ……うん」
 そういえば、といった風貌で、大きな表情の変化も無くきょとんと赤に濡れた手を見つめるリセ。
「……悪い」
 少し、申し訳なさそうに呟くハール。
「何でハールが謝るの?」
 その言葉に、自らの咄嗟に出てしまった『小さな失態』を慌てて取り繕う。
「いや、何でもない……っ」
 しかし当のリセは既に自分の右手には関心が無いらしく、出血を無視して両手を目の前の人物へと伸ばす。
「私はいいから……!」
 そして、思いきり抱き締めた。
「フレイア、フレイア……! 良かった……!!」
 両腕をしっかりと彼女の背に回し、力の限り、抱き締める。
「な……んで?」
 訳が解らないと言わんばかりの表情で、されるがままのフレイア。勿論、自らの身体にきつく腕を絡める彼女に応える余裕など、到底無かった。
「アタシ、みんなの……」 リセの肩越しに、残りの二人を見上げる。すると、うち一人は、
「まったく、心配かけないで下さい」
 と困ったように笑み、
「お前の方は怪我無いか?」
 もう一方は、自分を気遣ってくれる。
 ――視界が、歪んだ。
「……ッ、ごめんなさい……!」
 ぽろり、と、小さな硝子玉が、宵闇の仄青を映す頬を転がっていった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……ッ! ごめん、ごめん……!」
 ――それが、皮切りとなった。堰を切ったかのように水となった感情が溢れ、一気に泣き崩れる。今、彼女の『堰』に罅を入れたのは、二人の言葉と、少女の温もり。そして、泣くとほぼ同時に迷子になっていた幼子が母と対面できたかの如く、力任せといえる程に両腕をしっかりとリセの背に回した。
「怖かった……! 怖かったの! アタシ、みんなのことどんどん好きになっていくから……みんなもアタシのこと好きって言ってくれるから! 信用してくれるから! 認めてくれるから!!」
 今まで胸の深奥に隠してきた本音が涙に洗い流され、言の葉となり、溢れ、雪崩れ、月光に溶けてゆく。 そう、『隠して』きただけなのだ。隠すとは見えなくするということで、けして『消える』訳ではない。数時間前のイズムの言葉を借りれば、『現実から目を背けても、事実に何ら変わりない』。気付かないフリをしたとて、事実は変わらない。
「大好きなの、みんな……! でも…っ、大好きなひとに裏切られるのは痛いの、悲しいの……! もうあんなのヤなの……怖くて、みんなに裏切られるのが怖くて……!」
 『隠す』と『逃げる』は、どこか似ていて。また今回も気付かないフリをしようとした。気付かない、気付いていない。自分は自分の気持ちに、キヅカナイ、キヅカナイ、キヅカナイ。

 『――……アタシハ、ミンナノコト、ガ、』

 その先は、キヅイタラ、キズツク。

「だったら先に……今まで通り、アタシから……もっとすきになる前に……! その時、もっと痛くなる前に……」
 自分で自分を欺くことに慣れてしまった。もう二度と、本気で人に接しないと決めた。
「でも……できなかった……」
 嫌いになったかと先程リセに問うたのも、恐らくリセに向けての質問ではない。自分に言い聞かせるための、ある種の呪文だ。ほら、もう彼女は自分を嫌いになった。だからもう、戻らない。戻れない。
 ――最初は、上辺だけの楽しさだった。本当に仲間が出来たみたいで、嬉しかった。しかし心からの笑顔が出てくるつれ、同時に戸惑いを覚えるようにもなった。直接心で接したら、直接心が傷つくから。深入りしてはいけないと叫ぶ傷痕と、もっと彼女らのなかに居たいという感情の葛藤。そしてあの夜三人の気持ちを聞いてしまったのが、不安定だった彼女を突き動かした。しかし――――
「できなかった……できなかった、の……」
 脚が、この山から降りることを拒絶して。これまでも浸食して騙してきた人間のモノを飲み込んできたこの甲の携帯水晶なのに、どうしてこんなにも付けた左手が重くて、震えが止まらないんだろう。奪ってきたはずなのに、失った気がするのは、何故だろう。早くここを出なければ見つかってしまうのに。旅人狩の自分は見つかってしまうのに。
 ――……それでも半ば惰性で歩き続け、ほぼ無意識のうちに水音に誘われるようにして行き着いた岩壁。この場に一晩に居よう。降るような星空が、暁に侵される前まで。もし、もし見つかってしまったら…………見つけてくれたら。

 そして、彼女は来た。

「忘れられる訳ない……ッ!」
 軽くからかった時の、ハールの困った顔が可愛くて。イズムの店を出るとき、彼の料理をもうみんなで食べれないと思うと、すごく寂しかった。あの夜、綺麗な魔法をみんなで見れたことが嬉しくて仕方なかった。彼女らと共に戦い、息を吸い、並んで歩いて、笑って、死の淵に立って――……『生きている』と、生まれて初めて感じられて。塞がった洞窟を見た瞬間、今までアタシは、生きていたんだと、今この時生きていられて、良かった、と。
 そして何より、汚れを知らずに無邪気に笑うこの腕の中の少女が愛おしくて、憎らしくて。大好きで。その光が眩しくて、痛くて。刺々しい言葉を遠まわしに吐いたこともあった。そして今夜――――『彼女に一番言ってはいけなかったこと』を、言ってしまった。過去が無いことを理由に、侮辱するような、激情。人間は、今までの記憶や経験を頼りに生きている。だが、リセにはそれらの一切が無いのだ。目隠しをして、初めて歩く道を行くようなものだったと思う。どんなに怖かっただろう、どんなに不安だっただろう。それは、彼女の存在を否定していると取られても、おかしくないような言葉だったのに。何よりも過去を理由に彼女を否定するようなことだけは、絶対にしてはいけなかったのに。人間として……否、彼女知る者として。
 なのに、彼女は、こうしていて。
「……今は、話せないか」 ハールが、静かに訊いた。
「……うん」
 余計な言葉や飾りは無い。むしろ、あった方が良いと思われる部分ですら省かれているような、今宵の行動を起こした感情を根付かせた起源への問い。
「……言わなけりゃならなくなったら、言えばいいんじゃねぇの」
 それは遠回しな、『抱えきれなくなったら、聴くから』。彼らしい。甘すぎない、優しさ。やっぱり、彼だ。
「お前がやってきた奴ら……きっとまだ、お前のこと信じてるんじゃねぇの? だから、大事にもならない」
「……あの、実は、ハール君たち以外の人、は……」「ん?」
「あっ、ううん、何でも、ない……」
 この期に及んで追求する気はないので、ひとまずそっとしておくことにする。いくら心理的な策を施した上であったとしても、一人くらいは自警団や役所に通報していても良さそうなものだが、そのような話はここ一帯の町では聞いたことがない。フレイアの思惑以上になった『何か』が、彼女たちと出逢う以前に旅路を共にしてきた者達のなかにあったということだろう。
「これから旅続けてさ、そいつらに会ったら、償えばいいんじゃないか?」
 はっとし、彼を見上げる。世界が在って、自分が生きて、この足で歩いていく限り、彼らの内の一人でも、もう一度巡り会える可能性は存在する。今度は、自らの意志で、出逢う。出逢いに行く。フレイア・シャルロットの旅する理由。彼女を正当化させて救おうなどという考えはない。理由があったから許されるということはない。彼は許すのでも救うのでもなく、受け入れた。否定も肯定もせず。ただ、彼女なりの答えを見つける時間を、共にしてくれる。有りの儘の自分を、受け入れてくれた。
 先程、何故助けるのかと問えば、それは、『フレイアだから』と答えた、この白い少女のように。そして……
「……来てくれてたんだね」
 そう泣き笑いを咲かせるフレイアに、苦笑を浮かべる。やはり、彼女には隠し通せなかった。
「……どうしてオレらがお前を裏切るんだか」
 誤魔化すように、一つ溜め息。だが、負の感情からくるそれではないと感じ取ったらしく、彼女はまた微笑った。
「そんなに僕達のことを好いていてくださるのなら、少しは信じてください?」
 こんな状況でも……いや、だからこそであろうか、彼の変わらないいつもの笑み。だが、普段と少々違うところは、見るものを『油断してはならない』と思わせる何かが薄らいでいるような気がするというところ。
「……フレイアが好きになってくれた私達は、フレイアを傷付けたりする?」
 少しだけ腕を解き、リセはフレイアと顔を見合わせた。――……その笑顔は、まるで白い花のよう。濃紺に降る星屑の天蓋に掛かる銀月を背景に綻ばせる笑みは、もう、自分を苦しめることはない。
「……ッ、しない……!!」
 今度は、蒼い瞳の少女から、抱きついた。自分から距離をなくす。
「まだみんなといていい? 許してくれる? 嫌いになってない?」
 背後からする、声だけの返答。
「最初から怒ってねーし」
「嫌いでもありませんし」
 腕の中の温もりが、答える。
「一緒に行こう?」
「……っ、うん……!!」

 時代は暗夜。行く道は常世。けれど、もう一度歩いていける。
 
 純白の光が、道を照らしてくれたから。
10/13ページ
スキ