Story.9 sugarcoat
†
見つからない、見つからない、見つからない。
不安と焦燥。それらは重く冷たく、胸に支えて呼吸を邪魔する。それでも、彼女を捜す足を止めることはない。
早く、早く、早く。
彼女が雑踏に紛れ、手の届かない場所に溶け込む前に。このまま自分の前から彼女が消えるだなんて、考えられない。考えたくない。無くなったモノの話は関係ない。今自分の足を動かしている理由と比べたら、そんなことどうでもいい。
「はぁ……っ」
リセは呼吸さえ忘れていたことに気付き、胸の苦しさにふと、一つ息をつく。ゆっくりと酸素を全身に行き渡らせることで思考も明瞭になり、多少だが五感にも余裕がでてきた。すると、微かな音が響いていることに気付く。淡く届いた音に耳を澄ませた。
――――水の音が、する。
それは、必死に歩き続け、探し疲れた身体に直接染み渡るかのような、涼やかにして、癒しの音。誘われるようにして、聴覚だけを頼りに、水音を辿っていく。
†
彼女が水音を追い、茂みを掻き分けると、一陣の風が銀の髪を揺らした。森特有の土と木の匂いが、茂みの先から吹いてきたその風に洗い流されていくのを感じる。森の香のしない久しぶりの空気を新鮮な思いで吸い込むと、金の瞳をその先へ向け、踏み出す。
視界の先は、切り立った崖になっていた。眼下には、大地を覆う暗く茂った森、それを掻き分けるようにして、幅の広い川が一本通っていた。水音はその川からしていたらしい。そしてその先には、漆黒の水を湛えた海原が大きな生物のように横たわっていた。それのすぐ手前には、沢山の光が灯っている。
街だ。それも、大きい。夜空と溶け合い、境界をなくした海とそれらを背景に、月影の逆光を浴びる後ろ姿があった。
「フレ……、イア?」
月明かりに仄暗く照らされた人物が、まるで面倒だとでも言うように緩慢な動作で振り返る。そして、『まるで』ではなく、本当にそうらしく伏し目がちに溜め息を吐いた。金糸のような前髪の隙間から見えた双眸は、あの蒼く清澄としたそれとは、全く逆のものだった。
「あ……」
雰囲気に気圧され、まるで喉に詰め物でもされたかのように声が出ない。そんなリセの心情を知ってか知らずか――……否、知った上で、冷たく刺すような声色を紡ぐ。
「……何? 取り返しに来たの?」
「え……」
「解ってるでしょ? アタシが盗ってったの」
「そ、れは……」
未だ仔兎のような怯えた瞳で見つめてくる彼女に、冷笑を漏らす。
「そうだよ。アタシは旅人狩。旅人狩の『フレイア・シャルロット』。……貴女たちが思っているような、フレイアじゃない」
背後に深く生い茂る樹木が、リセの不安を煽るかのように葉を鳴らした。
「……失望した? 嫌いになった?」
フレイアはゆっくりとリセに歩み寄り、そっと右手を彼女の頬に這わせた。彼女の身体が硬くなるのが分かる。薄く笑った。
「最初からこうするつもりだったの。いきなり襲って金目のモノを盗ってくなんて、それじゃ大事になるじゃない」
ふふ、と小さく笑う。本来笑うという行為が呼び起こすものと反対の感情をリセに落とし、さらに彼女に顔を近付ける。その綺麗な月色の瞳に、それとは逆の自分が映っているのが見えた。
「人は情ってモノがあるでしょ。それが特に顕著で“やりやすそう“な獲物を決めたら相手の中に侵入(はい)って、距離が適当だと感じたら、するの。もしアタシが旅人狩だったって気付いたって、そこでもうアタシはそこに居ないし、「何か理由があったのかもしれない」って考えて自警団にも通報しないの。――……アタシが、好きだから」
風が、夜空の星を揺らした。
「……元気で明るくて、お馬鹿な『フレイア』は可愛かった?」
光の灯らない瞳で、優しく微笑む。冷艶としたその表情は、リセの知らない顔だった。
「人に好かれる為の演技なんて、今まで腐るほどしてきたもの」
「あ、う……、わ、私……」
震える声を隠そうと、自分の持てるだけの気丈さを総動員し、精一杯、本音を伝える。
「フ、フレイアのこと……失望もしてないし、嫌いにもなってな……、い」
しかし、声の震えを隠すことは出来ず、そんな彼女にフレイアはゆったりと、優雅とも呼べる所為で笑んだ。
「優しいなぁ……リセは」
――――そして、
「――あッ、……い!?」 両肩を掴まれ、勢いよく背後にあった樹の幹に押し付け――――否、叩き付けられた。
「ん、く……ッ」
「こんなことされて、まだそんな風に言えるんだ?」
ぎり、と爪が食い込み、さらに強い力で押さえ付けられる。樹の皮に擦れて、月光を弾く白い肌にうっすらと朱が滲んだ。
「い……ッ!!」
喉の奥から掠れた悲鳴が上がる。しかし傷ついた肩よりも、別の痛さから目の端に涙が浮かんだ。フレイアはそんな彼女から目を逸らすことなく、感情を剥き出しにした声で叫ぶ。
「……本当に苛つく! 綺麗事ばっかり……!!」
あまりに強い感情をまともにぶつけられ、その余韻が残って心と体が麻痺してしまったかのように動かない。
「……貴女のそういうところ、うざったいんだよね」
今度は逆に感情の無い声色で呟く。リセの肩から軽く弾くようにして両手を離し、二歩、三歩と下がっていった。身体が自由になり、フレイアが距離を取っていくのと同時に恐怖感が薄れていく。すると、胸につかえていた言葉達が自然と解け、声となって紡がれていった。
「フレ、イア、……た、確かに、今までやってきたことは、その、悪いこと……だけど、フレイアも、今までそうやってきた人たちのこと、好きじゃなかったの? 好きじゃないから、そんなことできたの?」
彼女の表情が、微かだが凍り付く。本当に、微かだった。だから、きっと自分だからこそ分かったのだと、確信した。
だって、自分はフレイアの――……
「違う……よね、なら、何で……!」
「――ッさい、うるさいッ!!」
フレイアの夜空を裂くような叫びを最後に、無音が空間を満たす。
静寂が耳に痛い。対峙する二人の間を埋めるように、止めどなく月光が降り注ぐ。月の光に音が有るとしたら、きっとそれは、この痛さだ。
「貴女に……貴女に何が分かるっていうの!?」
彼女が息を吸う音がしたかと思うと、言の葉となった感情が一気に弾けた。
「信じてたのに裏切られた時の気持ちが!? 分かる!? ねぇ!? 心から……全身が凍っていくような感じがして、セカイが崩れていくの……!!」
今にも泣き出しそうな勢いで、喚くにも近い声を上げる。月光を受けて、振り乱した金髪が月の雫を散らした。
「もう二度とあんな思いは……! あんなの一度で十分よ!!」
聞いている方も胸が張り裂けるような悲痛な声。こんな彼女を目にするのは初めてだった。いつも明るく朗らに笑っていた彼女とは、別人のよう。
(……ごめん)
その姿に、ただ、悲しさを覚えた。
先程の怖れが嘘だったかのように、何故か今は酷く落ち着いていて、思考が泡のように浮かんでは消えていく。
――どうして今まで気付かなかったんだろう。彼女の言動に違和感を覚えることはあった。だが、まさかこんなことになるとは思わなかった。
(ごめんね、フレイア)
――――いや、気付いていたのかもしれない。
その上で、『フレイアだから』大丈夫だと無条件に思っていた。彼女への信頼が、から回っていた。
きっとその強さに、甘えていた。きっとまだどこかで、気後れしていた。
履き違えていた。けれど、確かな彼女を信じる気持ちを――――
(もう、間違えないよ)
そして触れることを、迷わない。
「……フレイアは」
リセは一歩歩を進め、彼女に近付く。
「本気で好きになるのが怖いんだ?」
「……!」
「もうそんな思いしたくないから、大好きになる前に逃げ出して、自分から先に裏切ってるんだね?」
「ちが……!」
「そうやって未練が無くなるようにしてわざと帰れなくしてるんだ……!」
「違……うッ」
「本当はフレイア、みんなのこと……っ」
「違うっ、違う違う違う違う違うッ!!! ……ッ」
自分でも予想以上の声が出てしまったのか、はっとしたように口を噤む。だがすぐに冷静さを取り戻し、鋭い目つきでリセを射った。
「……安い同情なんて、いらない」
「……フレイア……っ!」
「『ナカマ』なんて使い捨てでしょ……ッ?」
何かを振り切るかのように、目線をリセから一瞬外す。
「フレイア、大丈夫だから、ねぇっ、フレイア……!」
リセはフレイアに向かう足を止めようとはしない。
「……っ、来ないでよ……!」
「みんなで、一緒に……!」
「来ないでッ!!」
瞳に涙を溜め、泣きそうな表情でリセは訴える。だが、それは彼女には届かない。そして――……
「リセには……怖れる過去が無いからそんなことが言えるんだ!!」
瞬間、たった今自分で言ったことが信じられないのか蒼の双眸が見開かれた。そしてリセと、自らが発したその言葉から逃げるようにまた後ろへ――……
「――――あ……ッ!?」
刹那、身体が、浮いた。
「フレイ……ッ!!?」
崖の縁から、石が落ちる音。そして――――空へ流れる金髪と、その持ち主へと伸ばされた、白い腕。
見つからない、見つからない、見つからない。
不安と焦燥。それらは重く冷たく、胸に支えて呼吸を邪魔する。それでも、彼女を捜す足を止めることはない。
早く、早く、早く。
彼女が雑踏に紛れ、手の届かない場所に溶け込む前に。このまま自分の前から彼女が消えるだなんて、考えられない。考えたくない。無くなったモノの話は関係ない。今自分の足を動かしている理由と比べたら、そんなことどうでもいい。
「はぁ……っ」
リセは呼吸さえ忘れていたことに気付き、胸の苦しさにふと、一つ息をつく。ゆっくりと酸素を全身に行き渡らせることで思考も明瞭になり、多少だが五感にも余裕がでてきた。すると、微かな音が響いていることに気付く。淡く届いた音に耳を澄ませた。
――――水の音が、する。
それは、必死に歩き続け、探し疲れた身体に直接染み渡るかのような、涼やかにして、癒しの音。誘われるようにして、聴覚だけを頼りに、水音を辿っていく。
†
彼女が水音を追い、茂みを掻き分けると、一陣の風が銀の髪を揺らした。森特有の土と木の匂いが、茂みの先から吹いてきたその風に洗い流されていくのを感じる。森の香のしない久しぶりの空気を新鮮な思いで吸い込むと、金の瞳をその先へ向け、踏み出す。
視界の先は、切り立った崖になっていた。眼下には、大地を覆う暗く茂った森、それを掻き分けるようにして、幅の広い川が一本通っていた。水音はその川からしていたらしい。そしてその先には、漆黒の水を湛えた海原が大きな生物のように横たわっていた。それのすぐ手前には、沢山の光が灯っている。
街だ。それも、大きい。夜空と溶け合い、境界をなくした海とそれらを背景に、月影の逆光を浴びる後ろ姿があった。
「フレ……、イア?」
月明かりに仄暗く照らされた人物が、まるで面倒だとでも言うように緩慢な動作で振り返る。そして、『まるで』ではなく、本当にそうらしく伏し目がちに溜め息を吐いた。金糸のような前髪の隙間から見えた双眸は、あの蒼く清澄としたそれとは、全く逆のものだった。
「あ……」
雰囲気に気圧され、まるで喉に詰め物でもされたかのように声が出ない。そんなリセの心情を知ってか知らずか――……否、知った上で、冷たく刺すような声色を紡ぐ。
「……何? 取り返しに来たの?」
「え……」
「解ってるでしょ? アタシが盗ってったの」
「そ、れは……」
未だ仔兎のような怯えた瞳で見つめてくる彼女に、冷笑を漏らす。
「そうだよ。アタシは旅人狩。旅人狩の『フレイア・シャルロット』。……貴女たちが思っているような、フレイアじゃない」
背後に深く生い茂る樹木が、リセの不安を煽るかのように葉を鳴らした。
「……失望した? 嫌いになった?」
フレイアはゆっくりとリセに歩み寄り、そっと右手を彼女の頬に這わせた。彼女の身体が硬くなるのが分かる。薄く笑った。
「最初からこうするつもりだったの。いきなり襲って金目のモノを盗ってくなんて、それじゃ大事になるじゃない」
ふふ、と小さく笑う。本来笑うという行為が呼び起こすものと反対の感情をリセに落とし、さらに彼女に顔を近付ける。その綺麗な月色の瞳に、それとは逆の自分が映っているのが見えた。
「人は情ってモノがあるでしょ。それが特に顕著で“やりやすそう“な獲物を決めたら相手の中に侵入(はい)って、距離が適当だと感じたら、するの。もしアタシが旅人狩だったって気付いたって、そこでもうアタシはそこに居ないし、「何か理由があったのかもしれない」って考えて自警団にも通報しないの。――……アタシが、好きだから」
風が、夜空の星を揺らした。
「……元気で明るくて、お馬鹿な『フレイア』は可愛かった?」
光の灯らない瞳で、優しく微笑む。冷艶としたその表情は、リセの知らない顔だった。
「人に好かれる為の演技なんて、今まで腐るほどしてきたもの」
「あ、う……、わ、私……」
震える声を隠そうと、自分の持てるだけの気丈さを総動員し、精一杯、本音を伝える。
「フ、フレイアのこと……失望もしてないし、嫌いにもなってな……、い」
しかし、声の震えを隠すことは出来ず、そんな彼女にフレイアはゆったりと、優雅とも呼べる所為で笑んだ。
「優しいなぁ……リセは」
――――そして、
「――あッ、……い!?」 両肩を掴まれ、勢いよく背後にあった樹の幹に押し付け――――否、叩き付けられた。
「ん、く……ッ」
「こんなことされて、まだそんな風に言えるんだ?」
ぎり、と爪が食い込み、さらに強い力で押さえ付けられる。樹の皮に擦れて、月光を弾く白い肌にうっすらと朱が滲んだ。
「い……ッ!!」
喉の奥から掠れた悲鳴が上がる。しかし傷ついた肩よりも、別の痛さから目の端に涙が浮かんだ。フレイアはそんな彼女から目を逸らすことなく、感情を剥き出しにした声で叫ぶ。
「……本当に苛つく! 綺麗事ばっかり……!!」
あまりに強い感情をまともにぶつけられ、その余韻が残って心と体が麻痺してしまったかのように動かない。
「……貴女のそういうところ、うざったいんだよね」
今度は逆に感情の無い声色で呟く。リセの肩から軽く弾くようにして両手を離し、二歩、三歩と下がっていった。身体が自由になり、フレイアが距離を取っていくのと同時に恐怖感が薄れていく。すると、胸につかえていた言葉達が自然と解け、声となって紡がれていった。
「フレ、イア、……た、確かに、今までやってきたことは、その、悪いこと……だけど、フレイアも、今までそうやってきた人たちのこと、好きじゃなかったの? 好きじゃないから、そんなことできたの?」
彼女の表情が、微かだが凍り付く。本当に、微かだった。だから、きっと自分だからこそ分かったのだと、確信した。
だって、自分はフレイアの――……
「違う……よね、なら、何で……!」
「――ッさい、うるさいッ!!」
フレイアの夜空を裂くような叫びを最後に、無音が空間を満たす。
静寂が耳に痛い。対峙する二人の間を埋めるように、止めどなく月光が降り注ぐ。月の光に音が有るとしたら、きっとそれは、この痛さだ。
「貴女に……貴女に何が分かるっていうの!?」
彼女が息を吸う音がしたかと思うと、言の葉となった感情が一気に弾けた。
「信じてたのに裏切られた時の気持ちが!? 分かる!? ねぇ!? 心から……全身が凍っていくような感じがして、セカイが崩れていくの……!!」
今にも泣き出しそうな勢いで、喚くにも近い声を上げる。月光を受けて、振り乱した金髪が月の雫を散らした。
「もう二度とあんな思いは……! あんなの一度で十分よ!!」
聞いている方も胸が張り裂けるような悲痛な声。こんな彼女を目にするのは初めてだった。いつも明るく朗らに笑っていた彼女とは、別人のよう。
(……ごめん)
その姿に、ただ、悲しさを覚えた。
先程の怖れが嘘だったかのように、何故か今は酷く落ち着いていて、思考が泡のように浮かんでは消えていく。
――どうして今まで気付かなかったんだろう。彼女の言動に違和感を覚えることはあった。だが、まさかこんなことになるとは思わなかった。
(ごめんね、フレイア)
――――いや、気付いていたのかもしれない。
その上で、『フレイアだから』大丈夫だと無条件に思っていた。彼女への信頼が、から回っていた。
きっとその強さに、甘えていた。きっとまだどこかで、気後れしていた。
履き違えていた。けれど、確かな彼女を信じる気持ちを――――
(もう、間違えないよ)
そして触れることを、迷わない。
「……フレイアは」
リセは一歩歩を進め、彼女に近付く。
「本気で好きになるのが怖いんだ?」
「……!」
「もうそんな思いしたくないから、大好きになる前に逃げ出して、自分から先に裏切ってるんだね?」
「ちが……!」
「そうやって未練が無くなるようにしてわざと帰れなくしてるんだ……!」
「違……うッ」
「本当はフレイア、みんなのこと……っ」
「違うっ、違う違う違う違う違うッ!!! ……ッ」
自分でも予想以上の声が出てしまったのか、はっとしたように口を噤む。だがすぐに冷静さを取り戻し、鋭い目つきでリセを射った。
「……安い同情なんて、いらない」
「……フレイア……っ!」
「『ナカマ』なんて使い捨てでしょ……ッ?」
何かを振り切るかのように、目線をリセから一瞬外す。
「フレイア、大丈夫だから、ねぇっ、フレイア……!」
リセはフレイアに向かう足を止めようとはしない。
「……っ、来ないでよ……!」
「みんなで、一緒に……!」
「来ないでッ!!」
瞳に涙を溜め、泣きそうな表情でリセは訴える。だが、それは彼女には届かない。そして――……
「リセには……怖れる過去が無いからそんなことが言えるんだ!!」
瞬間、たった今自分で言ったことが信じられないのか蒼の双眸が見開かれた。そしてリセと、自らが発したその言葉から逃げるようにまた後ろへ――……
「――――あ……ッ!?」
刹那、身体が、浮いた。
「フレイ……ッ!!?」
崖の縁から、石が落ちる音。そして――――空へ流れる金髪と、その持ち主へと伸ばされた、白い腕。