Story.8 古の殺戮者
(……さて、どうしましょうか)
周囲を取り囲む魔物の数を考えれば退路はないと言っていい。それらも大本を倒せば散り散りになるであろうが、その大本に攻撃が通らない。老竜の顔を見上げる。光苔に照らされ浮かび上がる鱗に、白濁とした瞳がうずまっている――――視線を横に移す。まるで階段のようにでこぼこと大きくへこみ、出張った岩の壁。上には、巨大な鍾乳石が垂れる天井。
(……逃げ場なし、ですね)
もう一度竜の上部へと目線を戻す。――その時、不意に一つの考えが閃いた。
「リセさん。少し、いいですか」
数歩離れていたリセを呼ぶ。小走りで駆け寄る彼女。その表情は硬いが恐怖こそなく――否、ある。あるが、自身を支配しようとするそれを必死に押し込め、呑まれぬよう抗っている。生きてきた年月が長いほど強靭な精神をもつなどという単純な考えはないが、記憶の欠落は魔法を扱うのに不可欠なその基盤を脆くさせるには十分過ぎる。そんななか、リセはこの数日で提示された課題をすべて成し遂げ、願った力を掴みとった。目を赤く腫らしながら。慣れない魔力消費と長時間の集中による疲労に耐えながら。そして、自らの無力さを直視しながら。守りたいという強い想いに“喰らい付いて”きたという、儚さを湛える見た目とは程遠い表現すら過言ではない、そんな彼女なら――
「――いけるかもしれません。上手くいけば、ですが」
イズムを見上げ、目を見開くリセ。
「……今から少し無理を言います」
彼が静かに口を開く。話が進むにつれ、金の瞳は驚きから不安へと色を変えていく。しかしその不安は内容そのものに対してではないということは見てとれた。
「で、でもそれって……」
「あれをリセさんが相手するのは危険すぎます。僕が引きつけておきますので、その間に……頑張ってください」
「そんな、イズム君一人でだなんて――!」
「大丈夫ですから。攻撃が効かないなら僕だけで相手したところで変わりありませんし。それに……一人なのはリセさんも同じです」
その一言に口を噤むリセだが、ややあって独り言とも問いかけともとれる小さな声が漏れる。
「私の魔法で、できる、のかな……そもそも届く……? ううん、届かせなきゃいけないよね、ああでも、もうあと少し、近くないと駄目な、気が……」
リセは自然と唇から零れ出てしまった悪い予感を取り消すように首を横に振る。この状況なのだから弱音くらい吐きたいだけ吐いていいとイズムは思ったが、言葉に引っ張られてしまうのを懸念するその気持ちも解らなくはなかった。
「……少し、でいいんですね。なら、こうしましょう」
一つ補正案を伝える。気休めに近いかもしれない。それでも、現状よりほんの僅かでも勝率が――いや、勝率とほぼ同義であるリセが役目を果たせる確率が上がるのであれば、それは無意味ではない。
「……分かった」
多少躊躇ったものの、頷く時は既に迷いなく。金の瞳は、黒のそれをしっかりと見据えていた。
†
――リセが、走り出した。
突如動き出した目の前の獲物に、白濁の眼球をぎょろりと向ける。音で察知したのか気配で気付いたのかは不明だが、意味を成していなくとも目で追うのは生物の本能なのだろうか。しかし、注意を向ける相手がそちらでは困るのだ。
「僕だけ、見ていてくださいね……!」
右手から迸った光で幾重もの帯を紡ぎ、竜の前脚を絡め捕る。あれを彼女に振り下ろさせるわけにはいかない。竜は思惑通りこちらに視線を戻し、まるで「離せ」とでも言っているように一度咆哮した。
「余所見しないでいただけますか?」
手の内の蒼を引き、脚を締め付けながら言う。光帯は『縛るもの』であると同時にその命令を強化する導式を編み込んである。勿論人間の筋力が竜に適うわけはない。その差を無理矢理魔力の出力量で埋めようとしているがゆえ急速に導式へ魔力をもっていかれる。血液を抜かれるような、僅かに身体が冷える感覚。だがこれで良い。出来る限り近付き、老竜にとって目障りであるように努める。自分だけを見て、自分だけに攻撃を仕掛ければいい。
(……リセさんなら、出来ますよ)
そう心のなかで呟いて。帯が引き千切られないよう、魔力をより強く具現化するよう神経を研ぐ。
(あんなに強い、“魔法の原動力”があるんですから)
†
「せーの……ッ」
勢いをつけて、リセは一気に壁に沿った岩の階段を登り始めた。とはいえ本物の階段ではないので、場所によっては他の二、三段分程の高さになっている部分もある。時々躓きそうになりながらも、そのまま登り続けた。もし此処で止まったら――失敗になるから。イズムはこの策の一番重要な役をリセへ言い渡した。正直、魔導士見習いには荷が勝ちすぎる。しかし“一番重要”なのはリセだが、“一番危険”なのは――間違いなく、イズムだ。彼は、それを分かった上で自分で自分に役割を課している。誰かに大切なことを託し、いつもの微笑のままで自ら危険を引き受ける。
(裏切りたく、ない……!)
そんな彼の、信頼を。
天井近くまで続く長い石の階段は、あと半分。
†
竜の前足を縛している光帯が、凄まじい力で引かれる。
(まずい……ッ!)
反射的に魔法を解いて防御魔法を展開させた――――瞬間、半透明の壁に巨大な爪が直接振り下ろされた。
「――――……ッ!」
衝撃が痛みとして腕に伝わり、それは酷い痺れとなり残る。魔法を解くという判断が一瞬でも遅れていたらそのまま帯に引っ張られ、空に放り投げられていたかもしれない。竜は爪を更に強い力で魔力の壁に押し付ける。腕の痛みが増す。もし、今ほんの少しでも気を抜いたら――
(破られる……!)
刻々と相手からかけられる力は大きくなっていく。痛みで声が漏れそうになるのを抑え、すぐさま『防ぐためのもの』に供給する魔力を増やした。蒼が更に目映ゆく輝き、硬さを保とうとする。幸いまだ魔力量には余裕があるが、この出力を続けていたならば時間の問題である。尽きる瞬間を出来るだけ遅らせるため、破られない硬度を保ちつつも魔力を余分に使わぬよう集中する。奪われていく熱と相反するように増していく痛みに、苦しげな吐息が落ちる。だが、もし今自分が倒れたならば標的は別の人間に移ってしまう。揺らぐ意識を繋ぐため、僅かに笑む。彼女が気丈に振る舞うならば、こちらも精一杯余裕ぶってやろうではないか。
(頼みましたよ、リセさん……)
そして彼女が彼女の役割を果たせるよう、目の前にそびえる古の殺戮者を食い止めなければ。
周囲を取り囲む魔物の数を考えれば退路はないと言っていい。それらも大本を倒せば散り散りになるであろうが、その大本に攻撃が通らない。老竜の顔を見上げる。光苔に照らされ浮かび上がる鱗に、白濁とした瞳がうずまっている――――視線を横に移す。まるで階段のようにでこぼこと大きくへこみ、出張った岩の壁。上には、巨大な鍾乳石が垂れる天井。
(……逃げ場なし、ですね)
もう一度竜の上部へと目線を戻す。――その時、不意に一つの考えが閃いた。
「リセさん。少し、いいですか」
数歩離れていたリセを呼ぶ。小走りで駆け寄る彼女。その表情は硬いが恐怖こそなく――否、ある。あるが、自身を支配しようとするそれを必死に押し込め、呑まれぬよう抗っている。生きてきた年月が長いほど強靭な精神をもつなどという単純な考えはないが、記憶の欠落は魔法を扱うのに不可欠なその基盤を脆くさせるには十分過ぎる。そんななか、リセはこの数日で提示された課題をすべて成し遂げ、願った力を掴みとった。目を赤く腫らしながら。慣れない魔力消費と長時間の集中による疲労に耐えながら。そして、自らの無力さを直視しながら。守りたいという強い想いに“喰らい付いて”きたという、儚さを湛える見た目とは程遠い表現すら過言ではない、そんな彼女なら――
「――いけるかもしれません。上手くいけば、ですが」
イズムを見上げ、目を見開くリセ。
「……今から少し無理を言います」
彼が静かに口を開く。話が進むにつれ、金の瞳は驚きから不安へと色を変えていく。しかしその不安は内容そのものに対してではないということは見てとれた。
「で、でもそれって……」
「あれをリセさんが相手するのは危険すぎます。僕が引きつけておきますので、その間に……頑張ってください」
「そんな、イズム君一人でだなんて――!」
「大丈夫ですから。攻撃が効かないなら僕だけで相手したところで変わりありませんし。それに……一人なのはリセさんも同じです」
その一言に口を噤むリセだが、ややあって独り言とも問いかけともとれる小さな声が漏れる。
「私の魔法で、できる、のかな……そもそも届く……? ううん、届かせなきゃいけないよね、ああでも、もうあと少し、近くないと駄目な、気が……」
リセは自然と唇から零れ出てしまった悪い予感を取り消すように首を横に振る。この状況なのだから弱音くらい吐きたいだけ吐いていいとイズムは思ったが、言葉に引っ張られてしまうのを懸念するその気持ちも解らなくはなかった。
「……少し、でいいんですね。なら、こうしましょう」
一つ補正案を伝える。気休めに近いかもしれない。それでも、現状よりほんの僅かでも勝率が――いや、勝率とほぼ同義であるリセが役目を果たせる確率が上がるのであれば、それは無意味ではない。
「……分かった」
多少躊躇ったものの、頷く時は既に迷いなく。金の瞳は、黒のそれをしっかりと見据えていた。
†
――リセが、走り出した。
突如動き出した目の前の獲物に、白濁の眼球をぎょろりと向ける。音で察知したのか気配で気付いたのかは不明だが、意味を成していなくとも目で追うのは生物の本能なのだろうか。しかし、注意を向ける相手がそちらでは困るのだ。
「僕だけ、見ていてくださいね……!」
右手から迸った光で幾重もの帯を紡ぎ、竜の前脚を絡め捕る。あれを彼女に振り下ろさせるわけにはいかない。竜は思惑通りこちらに視線を戻し、まるで「離せ」とでも言っているように一度咆哮した。
「余所見しないでいただけますか?」
手の内の蒼を引き、脚を締め付けながら言う。光帯は『縛るもの』であると同時にその命令を強化する導式を編み込んである。勿論人間の筋力が竜に適うわけはない。その差を無理矢理魔力の出力量で埋めようとしているがゆえ急速に導式へ魔力をもっていかれる。血液を抜かれるような、僅かに身体が冷える感覚。だがこれで良い。出来る限り近付き、老竜にとって目障りであるように努める。自分だけを見て、自分だけに攻撃を仕掛ければいい。
(……リセさんなら、出来ますよ)
そう心のなかで呟いて。帯が引き千切られないよう、魔力をより強く具現化するよう神経を研ぐ。
(あんなに強い、“魔法の原動力”があるんですから)
†
「せーの……ッ」
勢いをつけて、リセは一気に壁に沿った岩の階段を登り始めた。とはいえ本物の階段ではないので、場所によっては他の二、三段分程の高さになっている部分もある。時々躓きそうになりながらも、そのまま登り続けた。もし此処で止まったら――失敗になるから。イズムはこの策の一番重要な役をリセへ言い渡した。正直、魔導士見習いには荷が勝ちすぎる。しかし“一番重要”なのはリセだが、“一番危険”なのは――間違いなく、イズムだ。彼は、それを分かった上で自分で自分に役割を課している。誰かに大切なことを託し、いつもの微笑のままで自ら危険を引き受ける。
(裏切りたく、ない……!)
そんな彼の、信頼を。
天井近くまで続く長い石の階段は、あと半分。
†
竜の前足を縛している光帯が、凄まじい力で引かれる。
(まずい……ッ!)
反射的に魔法を解いて防御魔法を展開させた――――瞬間、半透明の壁に巨大な爪が直接振り下ろされた。
「――――……ッ!」
衝撃が痛みとして腕に伝わり、それは酷い痺れとなり残る。魔法を解くという判断が一瞬でも遅れていたらそのまま帯に引っ張られ、空に放り投げられていたかもしれない。竜は爪を更に強い力で魔力の壁に押し付ける。腕の痛みが増す。もし、今ほんの少しでも気を抜いたら――
(破られる……!)
刻々と相手からかけられる力は大きくなっていく。痛みで声が漏れそうになるのを抑え、すぐさま『防ぐためのもの』に供給する魔力を増やした。蒼が更に目映ゆく輝き、硬さを保とうとする。幸いまだ魔力量には余裕があるが、この出力を続けていたならば時間の問題である。尽きる瞬間を出来るだけ遅らせるため、破られない硬度を保ちつつも魔力を余分に使わぬよう集中する。奪われていく熱と相反するように増していく痛みに、苦しげな吐息が落ちる。だが、もし今自分が倒れたならば標的は別の人間に移ってしまう。揺らぐ意識を繋ぐため、僅かに笑む。彼女が気丈に振る舞うならば、こちらも精一杯余裕ぶってやろうではないか。
(頼みましたよ、リセさん……)
そして彼女が彼女の役割を果たせるよう、目の前にそびえる古の殺戮者を食い止めなければ。