Story.8 古の殺戮者

      †     

「……ッ!」
 背後に照った赤い光。矢から手を離す寸前だったフレイアは振り返りそうになったのを辛うじて思い止まり、それを放った。一匹一匹は大したことがないといえ、数多の殺意が突き刺さる状況。こちらも余所見をする余裕があるとは言い難い。
「……大丈夫かな」
「イズムがいる」
「信用、してるんだね」
 すぐ側で魔物と対峙するハールの背へと目を向ける。彼の左手に握られた剣が薙ぎ、大蛇を斬り捨てた。戦闘が始まってから半刻経ったかどうかという頃合いだが、絶えず動いているにも拘わらず息を切らすような素振りは窺えない。
「普通そういう奴以外と戦うか? 一々気にするくらいなら一人の方がやり易いだろ」
 言いながら上から降ってきた蝙蝠を続けざまに二匹紅く染めた。身体の動きに合わせて上着の裾が翻り、刃の先から延びた血が空を縫う。あの森で初めて出会った際の彼とは別人のようだ。近距離でも怯むことなく冷静に、且つ責める時は逃さない。その一太刀どれもが的確であった。だからこそ体力の消耗も少なく済んでいるのだろう。無駄の無い剣筋を目の端に捉えながら、彼女は自分とそんな彼が共闘している意味を考え――るまでもないのだが。
 此処に至るまでの彼らとの旅路が頭を駆け巡る。どうでもいいことで笑った、取るに足らないことが楽しかった。美味しいものもまずいものも焚き火を囲んで口にした。森でも川でも町でも、隣を誰かが歩いていた。雨の夜もよく晴れた月夜も側で誰かが眠っていた。共に人助けと呼べるようなこともした。夢のような日々が重なった。“これ”はその結果。
(でもアタシには、そんなの――)
 感情が積もる。思考を曇らせる。判断を、鈍らせる。
「きゃ……!?」
 瞬間、目の前には縦に細長く裂けた瞳孔。口が本来有り得ない角度まで開き、ぬめりと不気味に生白く光る双牙が視界いっぱいに広がる――と。
 ――身体に、衝撃。
「――――……ぁ」
「――言ってる傍から馬鹿すんなよ馬鹿ッ!」
 舞い散る紅い飛沫。血がハールに押されて地面へと倒れ込んだ自身の右頬にかかった。
「ご、ごめん……」
 彼女を死角から襲った魔物を屠り、紅が滴る剣を降ろす。フレイアは地面に座り込んだまま、半ば唖然とした表情でそれを見ていた。あまりに一瞬の出来事で、たった今何が起こったのかは分かっているのだが、それが自分の身に起こったという現実感が無いといった様子であった。
「危ないだろ!? お前らしくない――」
 真っ直ぐにぶつけられる強い感情。それを受け止めているのか定かではない、どこか遠くを見るような蒼い瞳。そして、小さく唇を動かす。
「……自分の信用裏切られたから怒ってるの?」
「は? 今何て……」
 彼女は素早く立ち上がると弓を強く握る。呟きによって絶ち切られた言葉。声の小ささゆえその意味が解るよう聞くことは叶わなかった。しかし、いつもの彼女なら言うはずのないような事柄だということだけは雰囲気で感じ取れた。
「何でもない。……何でもないよ、ゴメン、気を付ける」
 少し俯き気味に、硬い声質でそう告げる。今度ははっきりと聞き取れた。
「どうしたんだよ、お前……今日朝から変だぞ」
 明らかに纏う空気が違う――形の無い焦燥からその肩に触れそうになったが、思い止めた。
「違う、大丈夫、ちょっと遅く寝たから、ふらついただけ」
 何が違うのか、会話が噛み合っているかも曖昧な無機質な声。彼女がそんな理由で戦闘中に隙を見せたり、ましてや間合いにいる敵を見逃すなど有り得ない。
(どうして急に――……いや、)
 本当に“急に”だったか?
 一瞬思考をそちらに持って行かれそうになった、その時。
「ハール君、左手……ッ」
 下を向いていたフレイアがハールを見上げる。今までも視界に入っていた彼の手が血で染まっていたことに、たった今気付いたようだった。
「気にすんな」
 剣を握る左手から鮮やかな紅が線を引き、地に模様を描いていく。自分の頬にかかった生暖かい血は、魔物のものか、それとも。
「そんな……! だって利き手――」
 本来なら斬り込めない位置から無理に間へ入った代償。幸いなことに致命傷には至っていないが、このまま重量のある武器を長時間振るっていられるようには到底見えなかった。フレイアは形のよい眉を寄せ、無意識なのかハールの服の裾を指先で掴む。震えるそれは弓を引いていたときの力強さが嘘のようで。そのか細さに握れば折れてしまうのではないかと錯覚する。彼の翠と瞳と、何かを訴えるようにフレイアの蒼いそれが交差する。普段の饒舌な彼女とは反対に、まるで、伝えたいのに、それを伝えられる言葉を知らないかのような――――刹那、彼の背後に影が伸びる。蛇の形を成した殺意は、既に跳躍していた。
「……――ハール君ッ!?」
 あとは彼へ牙を突き立てるのみ。利き手に怪我を負っている状態で対応できるとは思えず、かといって弓を引くのも確実に間に合わない。それでも半ば反射的に矢を番える。――あと一拍、足りない。
「ハール君、後ろ……ッ」
 “何か”が風を切る音。大蛇に走る銀が一閃。直後に、それは真っ二つに裂ける。
「――え?」
 見開かれた蒼い目に映る景色は静止する。空中に散らばる血液。振り向き様、剣を薙いだ姿勢の彼。剣筋に迷いなく、瞳に戸惑いはなく。双眸は鋭く大蛇を見据える。そしてその手に――――傷口は無い。
「……あんまり舐めてくれるなよな」
 彼の言葉は、紅を撒き散らしている最中の肉片に向けられたものなのか。 
「誰が左でしか斬れないって言った?」
 眼前の少女に向けられたものなのか。その光景を血色に映す剣は、彼の右手に握られていた。
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