Story.8 古の殺戮者
†
「リセ」
「……すー」
「リーセー」
「……はちみつすーぷ…………」
「……それって何ですかー? リセさーん、起きてくださーい?」
「りんごいり……」
そうか、蜂蜜スープは林檎入りなのかー……とフレイアはリセの夢のなかの食べ物――だと思う――を頭に描く。スープというか、それ大量の蜂蜜を皿に注いだだけのやつでは? 胸焼けがしてきそうなので想像を中断すると、リセを再び揺さぶる。
「リセー、寝るなー、死ぬぞー、ココ雪山じゃないけどーっ」
「おさとぉぶろ……」
「ベタベタですよぉー……」
月の位置から自分の担当時間が過ぎたのを確認し、次の番であるリセを起こしにかかったフレイアだが、如何せん彼女は目覚めてくれない。未だ甘味の世界に溺れているとみた。
「……どうしたものか」
リセは夕食のあと長いこと、それこそ眠る直前まで魔法の練習をしていた。その甲斐あって見違えるほど上達し、後半では安定した球体の維持を完璧にこなした上、光の小鳥を生み出しぎこちなくはあったものの羽ばたかせるに至った。イズムの「実践あるのみ」という言葉の通り、実践しただけ着実に進歩しているのが素人目にもよく分かった。その分、かなり疲れたのだろう。魔力の消費に加え、あれだけ集中していたのであれば当然である。しかし自分とてまだ睡眠時間は欲しい。何しろ、先刻は眠れなかったのだから。何をどうしたら起きてくれるのか――憎らしいほど夢の世界を堪能しているらしい寝顔を見つめながら考えた、その結果。リセの顔に自身の髪が垂れて触れないよう指で耳の後ろにかけつつ屈み、唇を彼女の耳元に寄せる。
「……ハール君が死にそう」
「っ、嘘ッ!?」
薄手の毛布を跳ね退け飛び起きるリセ。今までの熟睡ぶりが嘘のようで、フレイアは思わず苦笑した。自分が死ぬと言われてもまったく起きようとしなかったくせに、人がそうなると言った途端にこれである。……分かって、いるのだろうか?
「そ、嘘。火、リセの番だよ」
その優しさは、裏を返せば自らの身を滅ぼしかねないということを――
「あ、そっか……良かった……、すぐ起きられなくて、ごめんね」
彼女はほっとしたように一つ息をつくと、まだ眠そうにとろんだ目を擦りながらゆっくりと立ち上がり、篝火の近くに腰掛ける。
「ありがと、う……フレイアご苦労様ー……」
しかしそう言いながらも、目を閉じて、身を起こしたまま再び夢の中へと戻りかけ――
「……ぅあっと」
かくんっ、と首が下がった衝撃で意識を取り戻す。懸命に瞬きを繰り返すが、まだまだ寝てしまいそうな雰囲気だ。無理やり夜更かししようとする子どもを彷彿とさせる仕草に、フレイアは困ったように笑う。
「しょうがないなぁ、目が覚めるまで話相手してあげよっか。話してる間に意識もはっきりしてくるでしょ?」
そう言って、彼女の隣に座るフレイア。
「ふお……すみません……」
リセの頭を撫でる。まったく、これではどちらが年上だか分からない。それも彼女らしさなのだから、悪いとは思わないが。目の前のことに危ういほどひたむきで、不安になるくらい素直。そんな彼女だから、イズムも魔法を教える気になったのかもしれない。きっと彼なら、適当にはぐらかして逃げることぐらい容易だったろうに。
「……しょうがないなぁ」
――それからは、二人で他愛も無い会話をして過ごした。先日立ち寄った町でハールを道連れにし決行した“買いもしない買い物”についてや、今度イズムにお菓子を作って欲しいという話、ゆくゆくはその作り方を教わりたいということなど。二人を起こすわけにはいかないのであまり声は出せなかったが、リセとしてはそれでも十分に楽しかった。目覚めたときには何もなかった自分にも、もう誰かと過ごした日々が、過ごしたい日々がある。眠りを邪魔してしまい申し訳ないという気持ちは残りながらも、それ以上に、ともに過去と未来を語らってくれる友人の優しさに胸が暖かくなった。
(……そっか)
――そうだ、“友人”。“旅の仲間”でもあるのだが、何だかこの言葉がとてもしっくりくる。思えばこんなふうに焚き火を前にどうでもいいようなことを笑い合い、それでいて大切なことを語り合う人間は、フレイアが初めてだ。ハールやイズムともかけがえのない話をしたが、これはそれらとはまた質の違うものだ。何でもない事が一緒にいるだけで楽しくなって、軽やかにきらめく。夢に見ていたお菓子は口にできないけれど、唇から零れて止まないときめくお喋り。月はランプに、星降る夜空は天蓋に。篝火は二人の瞳を宝石のように輝かせ、金と銀の髪を飾る。そう、彼女といるだけで、ただの焚き火番だって小さな夜会になってしまう。
「それでさ、この先の町にすごく綺麗な景色の見える有名な場所があって――」
「わあ! 行ってみたいな、見られるかな」
「二人なら言えばきっと寄り道くらいさせてくれるよ」
「ふふ、そうだね! 楽しみだなぁ……フレイアもそこには行ったことないんだよね」
「うん、ないよ」
瞳の満月がとろけるようにして三日月へと変わる。そのなかには炎が映り揺れ、まるで黄金の水面のようだった。彼女はフレイアの表情からなぜこの返答で笑みを深めたのかという疑問を読み取り、悪い意味ではないと小さく首を横に振る。
「ううん。私は色んなものが初めてで、知らないことがいっぱいあるけど……フレイアは私よりずっと大人で、物識りで、経験も沢山あって……だから、一緒に初めてのことをできるのが嬉しいの」
フレイアにしては珍しく一目見てわかるほどの戸惑いを滲ませる。リセは微笑んで話を続けた。
「……あのね、私が魔法習いたいって思ったの、フレイアと逢ったせいなんだよ」
青い目が見開かれ、まるで予想していなかった言葉であったのだということがありありと窺えた。そんな彼女に、それはそうだろうと少し恥ずかしそうに苦笑いするリセ。
「フレイア、私とそう変わらない歳なのにハールのこと助けてたから……ちょっと悔しかったんだ。フレイアにも――――自分の弱さに対しても」
だから、私も頑張らなきゃいけないって思ったんだよ、と続ける。
「……歳なんて、関係ないよ。ただ、やれるかやれないかの話だし」
「なら、余計にだよ」
晴れやかな笑み。それは今夜の星空のように澄み渡っており、嘘や世辞など欠片もないことは誰の目にも明らかだった。
「だからね……私、フレイアにはすごく感謝してるよ。フレイアと逢ってなかったら、私、色んな意味で弱いままだったと思う。……ありがとう」
「そんな……改まって言わなくても」
斜めに俯くフレイア。外す視線。
「だって、言いたかったんだもの」
「――――……」
逃げるように目を逸らせど、迷いのない声は真っ直ぐに届く。照らす篝火も相まって、白い少女のはにかむ頬に色が差す。
「これからもよろしくね? 私、いっぱい迷惑かけちゃうかもだけど……まだ、隣に立ててないと、思うけど……頑張るから、」
俯いていたフレイアの視界に白い手が入り込む。そして、無意識に握っていた彼女の手に優しく重なった。
「……この先も、フレイアと一緒に色んなものが見たい」
リセの表情は見えない。けれど、その声色は目で見えるものより雄弁であった。静寂に月の光が降り積もる。時折それを揺らす、焚き火が爆ぜる音。炎から、小さな星が弾けては消えていく。
「……リセ」
「ん? なぁに?」
無垢な笑顔が小首を傾げる。
「アタシのこと……好き?」
「……うんっ!」
咲き零れる笑みで頷いて。
「だいすき!」
わずかの淀みも、偽りもない想いを彼女は伝えた。
「……そっか」
フレイアがそう返事をするまでには間があった。それはまるで水面に一滴の雫が落ちるかのように、静かに。一言だけ。しかしそれだけでも、リセは満足そうにまた微笑むのだった。
「……そろそろ大丈夫そうだね! もう起きてられるでしょ?」
言うと、フレイアはぱっと顔を上げる。そこには、眠りの時間を削ったとは思えないほどいつもの溌剌とした笑みが浮かんでいた。
「あ、そうだね! ごめんね、長く付き合ってもらっちゃって……!」
話していた理由を思い出し、フレイアの手から自身のそれを離すとあわあわと両手を振る。フレイアは彼女に軽く片目を瞑ることで大丈夫だと答えると、先程まで寝ていた場所に戻り横になった。
「おやすみなさい、フレイア」
「……おやすみ」
――そう返したフレイアの声が何処か硬質な響きを含んでいたのは、気のせいだったのだろうか。
「リセ」
「……すー」
「リーセー」
「……はちみつすーぷ…………」
「……それって何ですかー? リセさーん、起きてくださーい?」
「りんごいり……」
そうか、蜂蜜スープは林檎入りなのかー……とフレイアはリセの夢のなかの食べ物――だと思う――を頭に描く。スープというか、それ大量の蜂蜜を皿に注いだだけのやつでは? 胸焼けがしてきそうなので想像を中断すると、リセを再び揺さぶる。
「リセー、寝るなー、死ぬぞー、ココ雪山じゃないけどーっ」
「おさとぉぶろ……」
「ベタベタですよぉー……」
月の位置から自分の担当時間が過ぎたのを確認し、次の番であるリセを起こしにかかったフレイアだが、如何せん彼女は目覚めてくれない。未だ甘味の世界に溺れているとみた。
「……どうしたものか」
リセは夕食のあと長いこと、それこそ眠る直前まで魔法の練習をしていた。その甲斐あって見違えるほど上達し、後半では安定した球体の維持を完璧にこなした上、光の小鳥を生み出しぎこちなくはあったものの羽ばたかせるに至った。イズムの「実践あるのみ」という言葉の通り、実践しただけ着実に進歩しているのが素人目にもよく分かった。その分、かなり疲れたのだろう。魔力の消費に加え、あれだけ集中していたのであれば当然である。しかし自分とてまだ睡眠時間は欲しい。何しろ、先刻は眠れなかったのだから。何をどうしたら起きてくれるのか――憎らしいほど夢の世界を堪能しているらしい寝顔を見つめながら考えた、その結果。リセの顔に自身の髪が垂れて触れないよう指で耳の後ろにかけつつ屈み、唇を彼女の耳元に寄せる。
「……ハール君が死にそう」
「っ、嘘ッ!?」
薄手の毛布を跳ね退け飛び起きるリセ。今までの熟睡ぶりが嘘のようで、フレイアは思わず苦笑した。自分が死ぬと言われてもまったく起きようとしなかったくせに、人がそうなると言った途端にこれである。……分かって、いるのだろうか?
「そ、嘘。火、リセの番だよ」
その優しさは、裏を返せば自らの身を滅ぼしかねないということを――
「あ、そっか……良かった……、すぐ起きられなくて、ごめんね」
彼女はほっとしたように一つ息をつくと、まだ眠そうにとろんだ目を擦りながらゆっくりと立ち上がり、篝火の近くに腰掛ける。
「ありがと、う……フレイアご苦労様ー……」
しかしそう言いながらも、目を閉じて、身を起こしたまま再び夢の中へと戻りかけ――
「……ぅあっと」
かくんっ、と首が下がった衝撃で意識を取り戻す。懸命に瞬きを繰り返すが、まだまだ寝てしまいそうな雰囲気だ。無理やり夜更かししようとする子どもを彷彿とさせる仕草に、フレイアは困ったように笑う。
「しょうがないなぁ、目が覚めるまで話相手してあげよっか。話してる間に意識もはっきりしてくるでしょ?」
そう言って、彼女の隣に座るフレイア。
「ふお……すみません……」
リセの頭を撫でる。まったく、これではどちらが年上だか分からない。それも彼女らしさなのだから、悪いとは思わないが。目の前のことに危ういほどひたむきで、不安になるくらい素直。そんな彼女だから、イズムも魔法を教える気になったのかもしれない。きっと彼なら、適当にはぐらかして逃げることぐらい容易だったろうに。
「……しょうがないなぁ」
――それからは、二人で他愛も無い会話をして過ごした。先日立ち寄った町でハールを道連れにし決行した“買いもしない買い物”についてや、今度イズムにお菓子を作って欲しいという話、ゆくゆくはその作り方を教わりたいということなど。二人を起こすわけにはいかないのであまり声は出せなかったが、リセとしてはそれでも十分に楽しかった。目覚めたときには何もなかった自分にも、もう誰かと過ごした日々が、過ごしたい日々がある。眠りを邪魔してしまい申し訳ないという気持ちは残りながらも、それ以上に、ともに過去と未来を語らってくれる友人の優しさに胸が暖かくなった。
(……そっか)
――そうだ、“友人”。“旅の仲間”でもあるのだが、何だかこの言葉がとてもしっくりくる。思えばこんなふうに焚き火を前にどうでもいいようなことを笑い合い、それでいて大切なことを語り合う人間は、フレイアが初めてだ。ハールやイズムともかけがえのない話をしたが、これはそれらとはまた質の違うものだ。何でもない事が一緒にいるだけで楽しくなって、軽やかにきらめく。夢に見ていたお菓子は口にできないけれど、唇から零れて止まないときめくお喋り。月はランプに、星降る夜空は天蓋に。篝火は二人の瞳を宝石のように輝かせ、金と銀の髪を飾る。そう、彼女といるだけで、ただの焚き火番だって小さな夜会になってしまう。
「それでさ、この先の町にすごく綺麗な景色の見える有名な場所があって――」
「わあ! 行ってみたいな、見られるかな」
「二人なら言えばきっと寄り道くらいさせてくれるよ」
「ふふ、そうだね! 楽しみだなぁ……フレイアもそこには行ったことないんだよね」
「うん、ないよ」
瞳の満月がとろけるようにして三日月へと変わる。そのなかには炎が映り揺れ、まるで黄金の水面のようだった。彼女はフレイアの表情からなぜこの返答で笑みを深めたのかという疑問を読み取り、悪い意味ではないと小さく首を横に振る。
「ううん。私は色んなものが初めてで、知らないことがいっぱいあるけど……フレイアは私よりずっと大人で、物識りで、経験も沢山あって……だから、一緒に初めてのことをできるのが嬉しいの」
フレイアにしては珍しく一目見てわかるほどの戸惑いを滲ませる。リセは微笑んで話を続けた。
「……あのね、私が魔法習いたいって思ったの、フレイアと逢ったせいなんだよ」
青い目が見開かれ、まるで予想していなかった言葉であったのだということがありありと窺えた。そんな彼女に、それはそうだろうと少し恥ずかしそうに苦笑いするリセ。
「フレイア、私とそう変わらない歳なのにハールのこと助けてたから……ちょっと悔しかったんだ。フレイアにも――――自分の弱さに対しても」
だから、私も頑張らなきゃいけないって思ったんだよ、と続ける。
「……歳なんて、関係ないよ。ただ、やれるかやれないかの話だし」
「なら、余計にだよ」
晴れやかな笑み。それは今夜の星空のように澄み渡っており、嘘や世辞など欠片もないことは誰の目にも明らかだった。
「だからね……私、フレイアにはすごく感謝してるよ。フレイアと逢ってなかったら、私、色んな意味で弱いままだったと思う。……ありがとう」
「そんな……改まって言わなくても」
斜めに俯くフレイア。外す視線。
「だって、言いたかったんだもの」
「――――……」
逃げるように目を逸らせど、迷いのない声は真っ直ぐに届く。照らす篝火も相まって、白い少女のはにかむ頬に色が差す。
「これからもよろしくね? 私、いっぱい迷惑かけちゃうかもだけど……まだ、隣に立ててないと、思うけど……頑張るから、」
俯いていたフレイアの視界に白い手が入り込む。そして、無意識に握っていた彼女の手に優しく重なった。
「……この先も、フレイアと一緒に色んなものが見たい」
リセの表情は見えない。けれど、その声色は目で見えるものより雄弁であった。静寂に月の光が降り積もる。時折それを揺らす、焚き火が爆ぜる音。炎から、小さな星が弾けては消えていく。
「……リセ」
「ん? なぁに?」
無垢な笑顔が小首を傾げる。
「アタシのこと……好き?」
「……うんっ!」
咲き零れる笑みで頷いて。
「だいすき!」
わずかの淀みも、偽りもない想いを彼女は伝えた。
「……そっか」
フレイアがそう返事をするまでには間があった。それはまるで水面に一滴の雫が落ちるかのように、静かに。一言だけ。しかしそれだけでも、リセは満足そうにまた微笑むのだった。
「……そろそろ大丈夫そうだね! もう起きてられるでしょ?」
言うと、フレイアはぱっと顔を上げる。そこには、眠りの時間を削ったとは思えないほどいつもの溌剌とした笑みが浮かんでいた。
「あ、そうだね! ごめんね、長く付き合ってもらっちゃって……!」
話していた理由を思い出し、フレイアの手から自身のそれを離すとあわあわと両手を振る。フレイアは彼女に軽く片目を瞑ることで大丈夫だと答えると、先程まで寝ていた場所に戻り横になった。
「おやすみなさい、フレイア」
「……おやすみ」
――そう返したフレイアの声が何処か硬質な響きを含んでいたのは、気のせいだったのだろうか。