SS集 ―進撃の巨人―
今、人類に危機が迫っている。
とある地域から発生した新型ウイルス感染症が猛威を震い、その対策も功を成さぬまま瞬く間に全世界へと流行した。
感染力が非常に高く、人類がそれの危険性を認知した頃には感染者数は大幅に膨れ上がっていた。
例年に比べ民間の感染対策の意識は高まってはいるものの、感染者数は増え続けるばかりである。
そんな状況下でより一層多忙を極める、帝都マリア病院。
都内の中心地に位置する総合病院のとある病棟で看護師達の忙しない声が飛び交う中、胸ポケットのPHSがけたたましく鳴った。
私は作業を中断し、その電話を取った。
「はい、クリーンローゼ、8階担当の…」
「850号室!退院したので清掃お願いします!」
電話の相手である看護師は用件だけを簡潔に伝え、そして返事を聞く前に通話を切った。
私はPHSをポケットに戻し、急いで作業に戻った。
病院の清掃業は、とても忙しい。
廊下や浴室、ナースステーション、そして全ての病室内を毎日掃除し、患者が退院すれば部屋の隅から隅まで消毒し、次の患者を迎える為にベットメーキングを整えなければならない。
患者の入れ替わりが激しい病棟程その忙しさは桁違いで息つく暇も与えられない。
PHSがまた鳴った。電話はいつもひっきりなしでかかってくる。
業務後も電話の音が耳に残り、幻聴が聴こえる程だ。
同じ病棟にいる者同士でも探すことに時間を取られるので、これが一番早いのは分かるがこうも電話が多いとうんざりしてしまう。
「はい、クリーン…」
「850号の清掃はどうなりました?」
「今終わりました」
「じゃあ次、845号室をお願いします!緊急入院来るかもしれないので!」
ガチャ、と切断の音が響く。
私は通話の繋がらない相手に向かって小さく「はい」とだけ返事をした。
仕事がつらい。常に動いてばかりで体力の消耗は予想を遥かに上回る。
折角掃除をしたのに、汚されてしまえばまたやり直し。
しかもこのご時世、感染対策においてより厳しく徹底的に取り組まなくてはならない。
目に見えない汚れを取る。それは、床に落ちたゴミを拾って綺麗にするような達成感はないに等しい。
すべてのことが虚しく感じてしまい、ただただ億劫だ。
この仕事辞めようかな。最近はそんなことばかり考えている。
「おい」
低音ボイスで呼び止められ、振り向いて顔を上げる。
男の人の声なので無意識に見上げる姿勢を取ったが、背後にいた人物の目線は思っていた以上に低い位置にあった。
そこにいたのは病棟部長であるリヴァイ先生…医者だ。
ほとんど関わることのない医者から声をかけられるなんて初めてのことだ。
私は酷く緊張してしまい、返事をするにも声がうわずった。
「ひっ、ひゃい、リヴァイ先生っ」
「声裏返ってんじゃねぇか」
私の怯えた反応にリヴァイ先生は呆れた様子だった。
そして親指を突き出し、ナースステーション前の大部屋を指差した。
「ここの一番ベッド、部屋の清掃とベッドを作ってくれ。大至急」
そう指示をされ、私は狼狽する。
先程の電話の依頼をまだこなしていないのだ。
「で、でも、今845号室の清掃を頼まれてまして…」
「こっちが先だ」
部屋の清掃の優先順位を医者から決められることはそうそうない。
だが、医者であるのに目で人を殺しそうなその眼力に負け、ノーとは言えなかった。
早急に終わらせて先に依頼されていた方にも間に合うように着手しようと、早速作業に取りかかった。
指定されたベッドを作っている最中、リヴァイ先生は同室患者の診察をしていた。
先生が近くにいる中での作業はやりにくさを感じるがそうも言っていられない。
早く、早く、と自身を急かして、ふとあることが頭をよぎる。
リヴァイ先生は病棟代表部長であると同時に、様々な職種から構成される感染制御部のリーダーだ。
それ以前に極度の潔癖症であり、病棟の清掃においてとても厳しく指導している姿をよく見かけている。
少し前、軽く拭き掃除掃き掃除するだけで済ませようとした同僚が、それをめざとく見つけたリヴァイ先生にこってり叱られていたことを思い出した。
同じ目には遭いたくないと、私は指紋も残さないつもりで消毒薬を握りしめた。
念入りに清掃とベットメーキングを済ませると、丁度リヴァイ先生の回診も終わったようだった。
「あ、リヴァイ先生、終わりました」
そう声をかけるとリヴァイ先生は舐めるように目線をゆっくり動かし、清掃のチェックに入った。
「ふ、不備は、ない、はず、です…」
酷評を言い渡されやり直しさせられるのではないかと緊張感が走る。
裁判官の判定を待つ受刑者の気分だった。
「…ああ、悪くねぇな」
というのがリヴァイ先生の下した判決だ。
つまりは、無罪、合格だ。私は心の中で安堵した。
「クリーンローゼの人!845号室がまだ終わってないじゃないですか!」
ほっとするのも束の間、私に清掃依頼した看護師が私を見つけ、ぷりぷりとした表情で叱りつけた。
名札にはペトラと印字されていた。
しまった、と私が頭を下げようとして、リヴァイ先生が先に口を開く。
「ペトラ、ここに今から患者を入れる。オペ中だがもうすぐ終わるだろうから迎えの準備をしておけ」
「え?そんな話聞いてませんけど!?」
「今言った。感染症検査も外来で済んでるし陰性だったからうちで引き受けた。それにオペ後ならナースステーションから近い部屋の方がいいだろ」
「それはそうですけど、でもここ清掃がまだ…」
「もう終わってる。完璧にな」
完璧に。リヴァイ先生はそう強く主張した。
そこに、リヴァイ先生のPHSに一本の電話が入る。
「はい、脳外のリヴァ…ああ、なんだお前か」
リヴァイ先生は通話相手に気だるそうにしながらも「わかった、確認しておく」と言って通話を切り、台車に乗せた回診用のノートPCでカルテを開いた。
「今オペが終わったそうだ。迎えに行ってくれ」
「は、はい!」
指示を受けたペトラはベッドを押しながらパタパタと駆けていった。
二人の会話に入る隙間もなく呆然としていた私に、リヴァイ先生がカルテに目を向けたまま言った。
「大変な時期だ。運ばれてくる患者からも、接触の多い看護師からも、お互い感染するリスクを伴う。触れるものすべてが感染源だ。日々の清掃が感染のリスクを下げることにも繋がる、大事な仕事の一つだ」
リヴァイ先生の言葉の一つ一つが重くのしかかるようだった。
人を救う医者として、そしてこの部署の代表としての責任がその身に宿っているのを感じ取る。
胸の真ん中辺りに、熱いものが込み上げた気がした。
「頑張れよ」
「あっ…はい!ありがとうございます!」
激励を受け、私は綺麗な角度でお辞儀をした。
社交辞令でなく、そうしたくて頭を下げた。
今日の仕事はまだまだ残っている。
次の場所に向かわねばと、私はもう一度お辞儀をしてから清掃カートを引っ張った。
するとそこへ、オペ室から戻った研修医のエレン先生がリヴァイ先生の元へとやって来た。
「リヴァイ先生!さっき電話したオペ後の画像見てくれましたか!?血腫の方ちゃんと綺麗に取り除けていましたよね!?」
「画像は…まあ問題ねぇが時間がかかりすぎだ。俺ならもっと早く終わる」
「うっ…精進します」
厳しい評価を受けたエレン先生はしょんぼりと肩を落としつつ、努力する意思を発した。
そんな姿を見て、私の中でまた一つ熱が上がる。
もう少し、頑張ってみようかな。
私は沸き上がる意欲に応えるように、カートを握る手にぎゅっと力を込めた。
...Fin
とある地域から発生した新型ウイルス感染症が猛威を震い、その対策も功を成さぬまま瞬く間に全世界へと流行した。
感染力が非常に高く、人類がそれの危険性を認知した頃には感染者数は大幅に膨れ上がっていた。
例年に比べ民間の感染対策の意識は高まってはいるものの、感染者数は増え続けるばかりである。
そんな状況下でより一層多忙を極める、帝都マリア病院。
都内の中心地に位置する総合病院のとある病棟で看護師達の忙しない声が飛び交う中、胸ポケットのPHSがけたたましく鳴った。
私は作業を中断し、その電話を取った。
「はい、クリーンローゼ、8階担当の…」
「850号室!退院したので清掃お願いします!」
電話の相手である看護師は用件だけを簡潔に伝え、そして返事を聞く前に通話を切った。
私はPHSをポケットに戻し、急いで作業に戻った。
病院の清掃業は、とても忙しい。
廊下や浴室、ナースステーション、そして全ての病室内を毎日掃除し、患者が退院すれば部屋の隅から隅まで消毒し、次の患者を迎える為にベットメーキングを整えなければならない。
患者の入れ替わりが激しい病棟程その忙しさは桁違いで息つく暇も与えられない。
PHSがまた鳴った。電話はいつもひっきりなしでかかってくる。
業務後も電話の音が耳に残り、幻聴が聴こえる程だ。
同じ病棟にいる者同士でも探すことに時間を取られるので、これが一番早いのは分かるがこうも電話が多いとうんざりしてしまう。
「はい、クリーン…」
「850号の清掃はどうなりました?」
「今終わりました」
「じゃあ次、845号室をお願いします!緊急入院来るかもしれないので!」
ガチャ、と切断の音が響く。
私は通話の繋がらない相手に向かって小さく「はい」とだけ返事をした。
仕事がつらい。常に動いてばかりで体力の消耗は予想を遥かに上回る。
折角掃除をしたのに、汚されてしまえばまたやり直し。
しかもこのご時世、感染対策においてより厳しく徹底的に取り組まなくてはならない。
目に見えない汚れを取る。それは、床に落ちたゴミを拾って綺麗にするような達成感はないに等しい。
すべてのことが虚しく感じてしまい、ただただ億劫だ。
この仕事辞めようかな。最近はそんなことばかり考えている。
「おい」
低音ボイスで呼び止められ、振り向いて顔を上げる。
男の人の声なので無意識に見上げる姿勢を取ったが、背後にいた人物の目線は思っていた以上に低い位置にあった。
そこにいたのは病棟部長であるリヴァイ先生…医者だ。
ほとんど関わることのない医者から声をかけられるなんて初めてのことだ。
私は酷く緊張してしまい、返事をするにも声がうわずった。
「ひっ、ひゃい、リヴァイ先生っ」
「声裏返ってんじゃねぇか」
私の怯えた反応にリヴァイ先生は呆れた様子だった。
そして親指を突き出し、ナースステーション前の大部屋を指差した。
「ここの一番ベッド、部屋の清掃とベッドを作ってくれ。大至急」
そう指示をされ、私は狼狽する。
先程の電話の依頼をまだこなしていないのだ。
「で、でも、今845号室の清掃を頼まれてまして…」
「こっちが先だ」
部屋の清掃の優先順位を医者から決められることはそうそうない。
だが、医者であるのに目で人を殺しそうなその眼力に負け、ノーとは言えなかった。
早急に終わらせて先に依頼されていた方にも間に合うように着手しようと、早速作業に取りかかった。
指定されたベッドを作っている最中、リヴァイ先生は同室患者の診察をしていた。
先生が近くにいる中での作業はやりにくさを感じるがそうも言っていられない。
早く、早く、と自身を急かして、ふとあることが頭をよぎる。
リヴァイ先生は病棟代表部長であると同時に、様々な職種から構成される感染制御部のリーダーだ。
それ以前に極度の潔癖症であり、病棟の清掃においてとても厳しく指導している姿をよく見かけている。
少し前、軽く拭き掃除掃き掃除するだけで済ませようとした同僚が、それをめざとく見つけたリヴァイ先生にこってり叱られていたことを思い出した。
同じ目には遭いたくないと、私は指紋も残さないつもりで消毒薬を握りしめた。
念入りに清掃とベットメーキングを済ませると、丁度リヴァイ先生の回診も終わったようだった。
「あ、リヴァイ先生、終わりました」
そう声をかけるとリヴァイ先生は舐めるように目線をゆっくり動かし、清掃のチェックに入った。
「ふ、不備は、ない、はず、です…」
酷評を言い渡されやり直しさせられるのではないかと緊張感が走る。
裁判官の判定を待つ受刑者の気分だった。
「…ああ、悪くねぇな」
というのがリヴァイ先生の下した判決だ。
つまりは、無罪、合格だ。私は心の中で安堵した。
「クリーンローゼの人!845号室がまだ終わってないじゃないですか!」
ほっとするのも束の間、私に清掃依頼した看護師が私を見つけ、ぷりぷりとした表情で叱りつけた。
名札にはペトラと印字されていた。
しまった、と私が頭を下げようとして、リヴァイ先生が先に口を開く。
「ペトラ、ここに今から患者を入れる。オペ中だがもうすぐ終わるだろうから迎えの準備をしておけ」
「え?そんな話聞いてませんけど!?」
「今言った。感染症検査も外来で済んでるし陰性だったからうちで引き受けた。それにオペ後ならナースステーションから近い部屋の方がいいだろ」
「それはそうですけど、でもここ清掃がまだ…」
「もう終わってる。完璧にな」
完璧に。リヴァイ先生はそう強く主張した。
そこに、リヴァイ先生のPHSに一本の電話が入る。
「はい、脳外のリヴァ…ああ、なんだお前か」
リヴァイ先生は通話相手に気だるそうにしながらも「わかった、確認しておく」と言って通話を切り、台車に乗せた回診用のノートPCでカルテを開いた。
「今オペが終わったそうだ。迎えに行ってくれ」
「は、はい!」
指示を受けたペトラはベッドを押しながらパタパタと駆けていった。
二人の会話に入る隙間もなく呆然としていた私に、リヴァイ先生がカルテに目を向けたまま言った。
「大変な時期だ。運ばれてくる患者からも、接触の多い看護師からも、お互い感染するリスクを伴う。触れるものすべてが感染源だ。日々の清掃が感染のリスクを下げることにも繋がる、大事な仕事の一つだ」
リヴァイ先生の言葉の一つ一つが重くのしかかるようだった。
人を救う医者として、そしてこの部署の代表としての責任がその身に宿っているのを感じ取る。
胸の真ん中辺りに、熱いものが込み上げた気がした。
「頑張れよ」
「あっ…はい!ありがとうございます!」
激励を受け、私は綺麗な角度でお辞儀をした。
社交辞令でなく、そうしたくて頭を下げた。
今日の仕事はまだまだ残っている。
次の場所に向かわねばと、私はもう一度お辞儀をしてから清掃カートを引っ張った。
するとそこへ、オペ室から戻った研修医のエレン先生がリヴァイ先生の元へとやって来た。
「リヴァイ先生!さっき電話したオペ後の画像見てくれましたか!?血腫の方ちゃんと綺麗に取り除けていましたよね!?」
「画像は…まあ問題ねぇが時間がかかりすぎだ。俺ならもっと早く終わる」
「うっ…精進します」
厳しい評価を受けたエレン先生はしょんぼりと肩を落としつつ、努力する意思を発した。
そんな姿を見て、私の中でまた一つ熱が上がる。
もう少し、頑張ってみようかな。
私は沸き上がる意欲に応えるように、カートを握る手にぎゅっと力を込めた。
...Fin
1/2ページ