企画物
世界を照らす太陽が地平線に呑み込まれた空の下、重厚感のあるビルから出てくる一組の男女。
一人は鉛色の雲を見上げ、もう一人は袖を捲り腕時計へと目を落とす。
「すっかり遅くなってしまったな」
「すみません、私が話し込んでしまったせいで」
「君のおかげで成功したんだ。謝る必要はない」
「いえ、エルヴィンさんが一緒にいてくれたからこそですよ」
自社製品を売り込む為に取引会社へと赴き、プレゼンを開くことになった私とエルヴィン。
取引先には始めこそ渋い顔をされてしまっていたが、私の異様なまでの熱弁が功を成したか最終的には商談は成立した。
外で出迎えてくれたのは美々しい月ではなくそれを覆い隠す分厚い雲なのは残念だが、これで上によい報告が出来る、と緊張の糸が切れた私はほっと安堵していた。
しかし、胸のつかえが取れたその矢先、大粒の雨が降りだし地面を幅広く濡らしていく。
私もエルヴィンも傘を持ち合わせておらず、あっという間に全身の色が雨に変えられた。
四角いビルばかりが立ち並ぶこの通りでは、雨を凌げる軒先も目に映る範囲では見当たらない。
「ここからなら駅より会社の方が近いな。そこまで走れるか」
「は、はい」
エルヴィンの提案で走って自社へと戻ることにした。
一刻も早く屋根のある場所に辿り着きたい一心で、水溜まりを踏んで水が跳ねパンプスの内側がぐずぐずになったがもう構っていられない。
雨により視界が遮られうっすら霧も発生していたが、私が前を走るエルヴィンを見失うことはなかった。
私のペースに彼が合わせてくれているというのは、時折確認するように振り向く姿を見てわかった。
五分程度走り続けただろうか。
屋根のあるバス停や店先など一休み出来そうな箇所はいくつか通ったが、通り雨の勢いは増すばかりだった。
一時凌ぎしたところで天気は悪化の一行を辿ることはわかりきっていて、私もエルヴィンも息を合わせたように足を止めなかった。
酷く長く雨空の下を走ったような感覚で、ようやく屋根のある自社の玄関へと辿り着く。
「ここなら気に病まず雨宿りが出来るな」
「そうですね」
きっちり整えられていたエルヴィンの髪は乱れていて、垂れた前髪を掻き上げる姿を見て、水も滴るいい男とは彼のことを言うのだろうな、などと考えていたその時、背後からゴロゴロと雷鳴が轟き、閃光が走った。
私は咄嗟に耳を塞ぎ顔を俯ける。
そしてようやく、自身のサテン生地のシャツがびっしょりと濡れ、下着の色が暗闇の中でも浮かび上がっていることに気が付いた。
フレアスカートも太股にぴったりと貼り付き、いやらしく体のラインを際立たせている。
途端に羞恥心に見舞われた私は落雷の轟音すらも耳を通さなくなっていた。
変に慌てふためくのもエルヴィンの視線を意識してしまいそうで、私は平静を装った。
「上に行けばタオルがあるので、取ってきます」
「私もノートを持ち帰るから一緒に行こうか」
部署に戻ることにし、必要な物を取りに向かう。
社内に残業している者はいないようで、玄関は既に施錠されていた。
二人で社員用の裏口から入りエレベーターへと乗り込む。
エレベーター内は電気が点いているので、ずっと暗がりの中にいたことで蛍光灯の明かりが目に染みた。
服の透け具合がより目立ってしまうと不安になり、鞄を胸の前で抱く。
行き先ボタンを押して電光表示盤の数字が上がっていくのを眺めていると、上向きの矢印を表示した状態から進まなくなった。
エレベーター独特の浮遊感もなく、階と階の間で停止しているようだった。
「あれ……動いて、ない」
完全に停止しているのはほぼ確実ではあったが、せめてもの希望を込めてすべてのボタンを押してみる。
が、どの階のボタンを押しても点灯はしないし扉が開く気配もない。
閉じ込められたという現実が恐怖に変わり、私は狼狽えた。
「う、嘘、やだ、なんで……」
「落ち着くんだ」
顔の横からエルヴィンの手がすっと伸びる。
受話器のマークの緊急連絡ボタンが押され、すぐに男性が応答した。
「はい、こちら○○製作会社です」
「エレベーターが緊急停止したようです。どのボタンを押しても近くの階にも止まりません」
「わかりました。落雷によるものと思われますが……至急係の者が参ります」
私はエルヴィンと係員のスムーズなやり取りが執り行われている様子を呆けて聞いているだけだった。
背後のすぐ近くからエルヴィンの毅然とした声が降ってきて安心感が与えられる。
エルヴィンの悠揚迫らぬ態度はこんな緊急事態でも変わらずで、一人で動揺しパニックに陥ってしまったことがとても恥ずかしく思えた。
通話が切れると、エルヴィンはふわりと微笑み私を見下ろした。
「大丈夫、すぐに出してもらえるさ」
「は、はい……取り乱してすみません」
「こんな状況なんだ、仕方ない」
中からはこれ以上の打開策はなく、救助を待つ以外にない。
エレベーター内は空気が冷たくひんやりしていて、体温を徐々に奪っていった。
寒さに耐えるように身を縮めていると、肩にぱさりと重みが増す。
えっ、と振り返ると肩には男物の紫紺色のジャケットが掛けられていて、エルヴィンはというと白のワイシャツ一枚と薄着になっていた。
ジャケットは外側は雨に濡れていたものの、上から羽織る分には問題にはならなかった。
むしろ、ありがたいくらいに。
「これで少しは変わるか?」
「すみません、何から何まで」
「謝らなくていい」
私のみすぼらしい姿に目も当てられなくなったのだろう。
男としてのプライドもあったのかもしれない。
エルヴィンだって寒いだろうに、薄着にさせてしまったことを心苦しくなりながらありがたくジャケットを借りることにした。
外からの空気が通りにくくなり、僅かながら暖かい。
だがこの状態で立ち続けるのも足に負担がいきすぎてつらく、私は壁を背もたれにしながらずりずりと床にへたり込んだ。
垂れ下がった髪の束から、ぽた、ぽた、と雫が落ちる。
広がっていく小さな水溜まりを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「雨、嫌いです……」
「ああ。私もだよ」
エルヴィンも私と同じように座り、ふうと息をついた。
エレベーター内は雨も雷の音も通さず、静けさだけが部屋を満たす。
いつ救助が来るのかわからぬままじっとしているのも苦痛と不安で押し潰されそうになる。
そんな中、それを掻き消すように沈黙を破ったのはエルヴィンだった。
「……君、猫は好きか?」
「猫? 好きですよ。飼ってるんですか?」
「一匹ね」
「写真見たいです」
話の流れでそう言うとエルヴィンはスマホを操作し、画面が見えるように私に向けた。
「わあ! 可愛い!」
エルヴィンの自宅だろうか、ソファに寝転がり、カメラに目線を送る愛くるしい目をした猫が写真に納められている。
ついさっきまで意気消沈としていたのが嘘のように甲高い声が出たことに自分でも驚いた。
「人見知りだが、私には甘えたがりでね」
「へえ。私と一緒です」
画面を覗きながら頷いていると、隣から堪えきれなかったかのような笑いがふっと漏れ出るのを感じ顔を上げる。
エルヴィンは手を口に当て眦を引き伸ばしていて、私は彼が何故そんな表情をしているのかわからず首を傾げた。
「甘えん坊なんだな。知らなかった」
「え、あ、ちがっ、違います! 人見知りの方です! 人前で話をするのとか、とても苦手で」
早口で捲し立てるような口調になり逆に肯定しているようだと思いながらも、首をぶんぶんと横に振り訂正した。
そんな私を見てエルヴィンは快活に笑う。
「その割には今日のプレゼンはよく出来ていた」
「あれは、仕事ですから……。それに、隣にあなたがいてくれたので」
まごまごしながら、最後の方は蚊の鳴くような声になっていた。
「写真、ありがとうございます。猫を見ていると癒されますね」
「それはよかった」
猫の写真を見せたのは私を落ち着かせる為の話題作りだったのだろう。
ジャケットを貸してくれた優しさにも触れ、心なしか朗らかになった気分だった。
だが、そんな心の余裕が生まれる一方で体は異変を察知し、著変にそれを現した。
「はあ、はあ、はあ……」
全身が震え、悪寒が走る。呼吸が速い。
頭はぼうっと朦朧としていて、体の気だるさは凄まじいものだった。
異変に気付いたエルヴィンが下から私の顔を覗き込む。
「寒いのか」
「少し……」
「熱があるじゃないか」
私の腕を掴み、全身に熱が籠っていることをエルヴィンも知る。
実を言えば甘えん坊などと印象付けられた時から熱いと感じていたが、羞恥心によるものとばかり思っていた。
豪雨にやられたか、意識もふとした時に手放してしまいそうになる。
「そのシャツは脱いだ方がいい。余計に冷やしてしまうぞ」
「いえ、平気です……」
ずぶ濡れのままのシャツは肌に貼り付き、確実に悪寒を強めていた。
だがこの場で服を脱ぎ肌を曝すというのは同じ空間にいるのが異性というのもあり憚れる。
維持を張りエルヴィンに背中を向けて一人悪寒を乗り越えようとすると、後ろから抱きつく形で腕が回された。
シャツの小さなボタンに指がかけられ、ぷち、ぷち、と一つずつ外されていく。
何をされているのか理解が追い付かず、体温が急激に上昇したのを感じた時にはボタンは四つも外れ下着が露になっていた。
「え、ちょ、ま、待ってくださ」
「待たない」
抵抗しようと腕を掴むもエルヴィンの躯体は背中に密着したまま離れず、朦朧とした意識の中では力も入らない。
あっという間に剥かれてしまい、袖を引き抜かれた。
ひやっと冷たい空気が肌に触れた後、すぐさまジャケットでくるまれ、覆い被さるようにエルヴィンに抱きしめられる。
体は熱いのに寒い。寒いのに、暖かい。
体の震えは止まらないが、先程よりは格段に暖かみは増していた。
これは所謂、応急措置的なもの。他意はない。
私は背中から伝わるエルヴィンの鼓動を感じながらそう言い聞かせた。
「すみ、ません」
「もう謝るな。……いや、私もこんな無理矢理なことをしてすまない」
「でも、あの、私の為にありがたい、んですけど、でもやっぱり……はは、こんなことされたら、勘違い、してしまいますよ」
しどろもどろに、けれども冗談にも聞こえるように笑ってみせる。
うまく笑えなくて乾ききってしまっていたが、これが私の精一杯の装った平静だった。
ただの仕事仲間にここまでするだろうか。
この距離感は、この温もりは、そういう意味じゃないと自身をわからせようとしても都合のいいことばかり浮かんでしまう。
だから、自分が傷付かないようにと先手を打ったのだ。防衛準備はばっちりだ、どこから打たれても深手を負うことはない。
そう身構えていると耳介に柔らかいものが触れ、甘い吐息がすぐ近くから発せられた。
「勘違いしてくれていい。……いつか、勘違いじゃないとわかるだろう」
エルヴィンの抱き留める腕の力がぎゅっと強まる。
顔も耳もすべてが熱く蕩けるようで、沸騰して湯気でも上がりそうだ。
いつの間にか悪寒は消失し、熱だけが残る。
「もっと頼りにしてくれ。君には……"俺"の前では甘えててほしい」
エルヴィンのそれはまるで請うようで、そんな姿を初めて目の当たりにした私は夢でも見ているのかと、これが現実という実感が湧かなかった。
雲を掴むような不明瞭な意識の中、私はその言葉を噛み締めるようにして、
「……はい」
とだけ返事をしていた。
煩いくらいに跳ねる心臓に身を灼かれながら、エルヴィンの逞しい腕に体を預けそっと目を閉じる。
暫くして到着した係員に救助されるまで、私達は互いの体温を共有し合っていた。
外に出るとあんなに激しかった雷雨は上がり、暗雲を吹き飛ばしていた。
雨垂れが優しく地面を叩いて奏でる音を聞きながら空を仰ぐ。
ひっそりと浮かぶ霽月 のように、私の心は晴れ渡っていた。
その後の私達の関係がどう変化したかについてだが、それは想像に任せようと思う。
...FIN
一人は鉛色の雲を見上げ、もう一人は袖を捲り腕時計へと目を落とす。
「すっかり遅くなってしまったな」
「すみません、私が話し込んでしまったせいで」
「君のおかげで成功したんだ。謝る必要はない」
「いえ、エルヴィンさんが一緒にいてくれたからこそですよ」
自社製品を売り込む為に取引会社へと赴き、プレゼンを開くことになった私とエルヴィン。
取引先には始めこそ渋い顔をされてしまっていたが、私の異様なまでの熱弁が功を成したか最終的には商談は成立した。
外で出迎えてくれたのは美々しい月ではなくそれを覆い隠す分厚い雲なのは残念だが、これで上によい報告が出来る、と緊張の糸が切れた私はほっと安堵していた。
しかし、胸のつかえが取れたその矢先、大粒の雨が降りだし地面を幅広く濡らしていく。
私もエルヴィンも傘を持ち合わせておらず、あっという間に全身の色が雨に変えられた。
四角いビルばかりが立ち並ぶこの通りでは、雨を凌げる軒先も目に映る範囲では見当たらない。
「ここからなら駅より会社の方が近いな。そこまで走れるか」
「は、はい」
エルヴィンの提案で走って自社へと戻ることにした。
一刻も早く屋根のある場所に辿り着きたい一心で、水溜まりを踏んで水が跳ねパンプスの内側がぐずぐずになったがもう構っていられない。
雨により視界が遮られうっすら霧も発生していたが、私が前を走るエルヴィンを見失うことはなかった。
私のペースに彼が合わせてくれているというのは、時折確認するように振り向く姿を見てわかった。
五分程度走り続けただろうか。
屋根のあるバス停や店先など一休み出来そうな箇所はいくつか通ったが、通り雨の勢いは増すばかりだった。
一時凌ぎしたところで天気は悪化の一行を辿ることはわかりきっていて、私もエルヴィンも息を合わせたように足を止めなかった。
酷く長く雨空の下を走ったような感覚で、ようやく屋根のある自社の玄関へと辿り着く。
「ここなら気に病まず雨宿りが出来るな」
「そうですね」
きっちり整えられていたエルヴィンの髪は乱れていて、垂れた前髪を掻き上げる姿を見て、水も滴るいい男とは彼のことを言うのだろうな、などと考えていたその時、背後からゴロゴロと雷鳴が轟き、閃光が走った。
私は咄嗟に耳を塞ぎ顔を俯ける。
そしてようやく、自身のサテン生地のシャツがびっしょりと濡れ、下着の色が暗闇の中でも浮かび上がっていることに気が付いた。
フレアスカートも太股にぴったりと貼り付き、いやらしく体のラインを際立たせている。
途端に羞恥心に見舞われた私は落雷の轟音すらも耳を通さなくなっていた。
変に慌てふためくのもエルヴィンの視線を意識してしまいそうで、私は平静を装った。
「上に行けばタオルがあるので、取ってきます」
「私もノートを持ち帰るから一緒に行こうか」
部署に戻ることにし、必要な物を取りに向かう。
社内に残業している者はいないようで、玄関は既に施錠されていた。
二人で社員用の裏口から入りエレベーターへと乗り込む。
エレベーター内は電気が点いているので、ずっと暗がりの中にいたことで蛍光灯の明かりが目に染みた。
服の透け具合がより目立ってしまうと不安になり、鞄を胸の前で抱く。
行き先ボタンを押して電光表示盤の数字が上がっていくのを眺めていると、上向きの矢印を表示した状態から進まなくなった。
エレベーター独特の浮遊感もなく、階と階の間で停止しているようだった。
「あれ……動いて、ない」
完全に停止しているのはほぼ確実ではあったが、せめてもの希望を込めてすべてのボタンを押してみる。
が、どの階のボタンを押しても点灯はしないし扉が開く気配もない。
閉じ込められたという現実が恐怖に変わり、私は狼狽えた。
「う、嘘、やだ、なんで……」
「落ち着くんだ」
顔の横からエルヴィンの手がすっと伸びる。
受話器のマークの緊急連絡ボタンが押され、すぐに男性が応答した。
「はい、こちら○○製作会社です」
「エレベーターが緊急停止したようです。どのボタンを押しても近くの階にも止まりません」
「わかりました。落雷によるものと思われますが……至急係の者が参ります」
私はエルヴィンと係員のスムーズなやり取りが執り行われている様子を呆けて聞いているだけだった。
背後のすぐ近くからエルヴィンの毅然とした声が降ってきて安心感が与えられる。
エルヴィンの悠揚迫らぬ態度はこんな緊急事態でも変わらずで、一人で動揺しパニックに陥ってしまったことがとても恥ずかしく思えた。
通話が切れると、エルヴィンはふわりと微笑み私を見下ろした。
「大丈夫、すぐに出してもらえるさ」
「は、はい……取り乱してすみません」
「こんな状況なんだ、仕方ない」
中からはこれ以上の打開策はなく、救助を待つ以外にない。
エレベーター内は空気が冷たくひんやりしていて、体温を徐々に奪っていった。
寒さに耐えるように身を縮めていると、肩にぱさりと重みが増す。
えっ、と振り返ると肩には男物の紫紺色のジャケットが掛けられていて、エルヴィンはというと白のワイシャツ一枚と薄着になっていた。
ジャケットは外側は雨に濡れていたものの、上から羽織る分には問題にはならなかった。
むしろ、ありがたいくらいに。
「これで少しは変わるか?」
「すみません、何から何まで」
「謝らなくていい」
私のみすぼらしい姿に目も当てられなくなったのだろう。
男としてのプライドもあったのかもしれない。
エルヴィンだって寒いだろうに、薄着にさせてしまったことを心苦しくなりながらありがたくジャケットを借りることにした。
外からの空気が通りにくくなり、僅かながら暖かい。
だがこの状態で立ち続けるのも足に負担がいきすぎてつらく、私は壁を背もたれにしながらずりずりと床にへたり込んだ。
垂れ下がった髪の束から、ぽた、ぽた、と雫が落ちる。
広がっていく小さな水溜まりを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「雨、嫌いです……」
「ああ。私もだよ」
エルヴィンも私と同じように座り、ふうと息をついた。
エレベーター内は雨も雷の音も通さず、静けさだけが部屋を満たす。
いつ救助が来るのかわからぬままじっとしているのも苦痛と不安で押し潰されそうになる。
そんな中、それを掻き消すように沈黙を破ったのはエルヴィンだった。
「……君、猫は好きか?」
「猫? 好きですよ。飼ってるんですか?」
「一匹ね」
「写真見たいです」
話の流れでそう言うとエルヴィンはスマホを操作し、画面が見えるように私に向けた。
「わあ! 可愛い!」
エルヴィンの自宅だろうか、ソファに寝転がり、カメラに目線を送る愛くるしい目をした猫が写真に納められている。
ついさっきまで意気消沈としていたのが嘘のように甲高い声が出たことに自分でも驚いた。
「人見知りだが、私には甘えたがりでね」
「へえ。私と一緒です」
画面を覗きながら頷いていると、隣から堪えきれなかったかのような笑いがふっと漏れ出るのを感じ顔を上げる。
エルヴィンは手を口に当て眦を引き伸ばしていて、私は彼が何故そんな表情をしているのかわからず首を傾げた。
「甘えん坊なんだな。知らなかった」
「え、あ、ちがっ、違います! 人見知りの方です! 人前で話をするのとか、とても苦手で」
早口で捲し立てるような口調になり逆に肯定しているようだと思いながらも、首をぶんぶんと横に振り訂正した。
そんな私を見てエルヴィンは快活に笑う。
「その割には今日のプレゼンはよく出来ていた」
「あれは、仕事ですから……。それに、隣にあなたがいてくれたので」
まごまごしながら、最後の方は蚊の鳴くような声になっていた。
「写真、ありがとうございます。猫を見ていると癒されますね」
「それはよかった」
猫の写真を見せたのは私を落ち着かせる為の話題作りだったのだろう。
ジャケットを貸してくれた優しさにも触れ、心なしか朗らかになった気分だった。
だが、そんな心の余裕が生まれる一方で体は異変を察知し、著変にそれを現した。
「はあ、はあ、はあ……」
全身が震え、悪寒が走る。呼吸が速い。
頭はぼうっと朦朧としていて、体の気だるさは凄まじいものだった。
異変に気付いたエルヴィンが下から私の顔を覗き込む。
「寒いのか」
「少し……」
「熱があるじゃないか」
私の腕を掴み、全身に熱が籠っていることをエルヴィンも知る。
実を言えば甘えん坊などと印象付けられた時から熱いと感じていたが、羞恥心によるものとばかり思っていた。
豪雨にやられたか、意識もふとした時に手放してしまいそうになる。
「そのシャツは脱いだ方がいい。余計に冷やしてしまうぞ」
「いえ、平気です……」
ずぶ濡れのままのシャツは肌に貼り付き、確実に悪寒を強めていた。
だがこの場で服を脱ぎ肌を曝すというのは同じ空間にいるのが異性というのもあり憚れる。
維持を張りエルヴィンに背中を向けて一人悪寒を乗り越えようとすると、後ろから抱きつく形で腕が回された。
シャツの小さなボタンに指がかけられ、ぷち、ぷち、と一つずつ外されていく。
何をされているのか理解が追い付かず、体温が急激に上昇したのを感じた時にはボタンは四つも外れ下着が露になっていた。
「え、ちょ、ま、待ってくださ」
「待たない」
抵抗しようと腕を掴むもエルヴィンの躯体は背中に密着したまま離れず、朦朧とした意識の中では力も入らない。
あっという間に剥かれてしまい、袖を引き抜かれた。
ひやっと冷たい空気が肌に触れた後、すぐさまジャケットでくるまれ、覆い被さるようにエルヴィンに抱きしめられる。
体は熱いのに寒い。寒いのに、暖かい。
体の震えは止まらないが、先程よりは格段に暖かみは増していた。
これは所謂、応急措置的なもの。他意はない。
私は背中から伝わるエルヴィンの鼓動を感じながらそう言い聞かせた。
「すみ、ません」
「もう謝るな。……いや、私もこんな無理矢理なことをしてすまない」
「でも、あの、私の為にありがたい、んですけど、でもやっぱり……はは、こんなことされたら、勘違い、してしまいますよ」
しどろもどろに、けれども冗談にも聞こえるように笑ってみせる。
うまく笑えなくて乾ききってしまっていたが、これが私の精一杯の装った平静だった。
ただの仕事仲間にここまでするだろうか。
この距離感は、この温もりは、そういう意味じゃないと自身をわからせようとしても都合のいいことばかり浮かんでしまう。
だから、自分が傷付かないようにと先手を打ったのだ。防衛準備はばっちりだ、どこから打たれても深手を負うことはない。
そう身構えていると耳介に柔らかいものが触れ、甘い吐息がすぐ近くから発せられた。
「勘違いしてくれていい。……いつか、勘違いじゃないとわかるだろう」
エルヴィンの抱き留める腕の力がぎゅっと強まる。
顔も耳もすべてが熱く蕩けるようで、沸騰して湯気でも上がりそうだ。
いつの間にか悪寒は消失し、熱だけが残る。
「もっと頼りにしてくれ。君には……"俺"の前では甘えててほしい」
エルヴィンのそれはまるで請うようで、そんな姿を初めて目の当たりにした私は夢でも見ているのかと、これが現実という実感が湧かなかった。
雲を掴むような不明瞭な意識の中、私はその言葉を噛み締めるようにして、
「……はい」
とだけ返事をしていた。
煩いくらいに跳ねる心臓に身を灼かれながら、エルヴィンの逞しい腕に体を預けそっと目を閉じる。
暫くして到着した係員に救助されるまで、私達は互いの体温を共有し合っていた。
外に出るとあんなに激しかった雷雨は上がり、暗雲を吹き飛ばしていた。
雨垂れが優しく地面を叩いて奏でる音を聞きながら空を仰ぐ。
ひっそりと浮かぶ
その後の私達の関係がどう変化したかについてだが、それは想像に任せようと思う。
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