企画物
「こんなところで何をしているんだ」
声をかけられ、私はその聞き覚えのある声にはっとなった。
俯けていた顔を上げると、厩舎の入り口にエルヴィン団長が立っていた。
直属の上司の姿を認め慌てて立ち上がろうとする。
するとエルヴィン団長は手を軽く挙げ、条件反射の動きをする部下を制止した。
「そのままでいい」
「…はい」
私は戸惑いつつも頷き、先程と同じように膝を抱えて座る姿勢に戻った。
私の後ろで静かに牧草を貪っていた馬がヒヒンと唸る。
エルヴィン団長は私の横に歩み寄って馬に手を差し伸べ、首の辺りをぽんぽんと軽く叩いた。
馬は嬉しそうに尾を振り、耳をぴんと立てた。
微笑ましそうに頬を綻ばすエルヴィン団長の横顔。
作戦前のようにピリピリと神経を尖らせている顔の方が見慣れているのもあり、馬に向ける優しい表情に釘付けになる。
エルヴィン団長は鬣を撫でてやりながら口を開いた。
「君は壁外調査の後は決まってここにいるんだな」
「え、知ってたんですか」
認知されていたことに驚き、声が上ずる。
エルヴィン団長に言われた通り、私は壁外調査から帰還した後は大抵厩舎に籠り、膝を抱えて蹲って過ごしていることがほとんどだった。
私は表情を誤魔化そうとはにかんだ。
「ここなら誰も来ない穴場と思ってましたけど、失敗のようです」
「物思いに耽っているのを邪魔してすまない」
「いえ…部下のことを把握するのも団長の仕事でしょうから」
「そういうつもりではないのだがな」
エルヴィン団長は苦笑した。
くるりと体を反転させ、私の隣に腰を降ろす。
「少しでも君の負荷が減らせたら、と思ってね。話してはくれないか」
その言葉に、エルヴィン団長はこれを意図して声をかけるに至ったのだと悟る。
つまりは私が兵団を去る可能性があるのを見越し、食い止める為にだ。
事務的な対応だとしても、心に秘めておくだけでは抱えきれない胸の内を晒したい欲は膨れていた。
「…先日は、私のせいで同期が巨人に食われ死にました。私がもっと強ければ助けられたかもしれないのに」
同じ編成を組んでいた同期が巨人の手に捕まった時、手から口元に運ばれるまでの動作は緩慢で猶予があった。
戦い慣れた兵士であれば立体起動装置を駆使して巨人のうなじを削ぎ落とし、仲間を救えた可能性は充分にあった。
だが私の体は氷のように凍てつき、馬に跨がったまま同期が食われる様を呆然と見ていることしか出来なかった。
「なんで助けてくれなかったのって恨まれてるかもしれません。本当は、弱い私が死んだ方がよかったんです。その方がもっと多くの人を守れたし、人類の為になったかもしれない」
こんな経験は一度のみではない。
壁外調査の度に強くて勇敢な仲間は食われ、弱くて臆病な私が生き延びる。
これまでに巨人を討伐した数なんて、手の指で容易に数えられる。
ここに来るといつも私は叫んでいた。
実際に声には出していないが、脳裏に蘇る悪夢のような映像を繰り返し映し、非力な自身を罵倒し、非難し、消えてしまいたいという感情を心の中で叫ぶという形で消化しようとしていた。
その叫びを他人に打ち明かしたのは今日が初めてのことだった。
卑屈になる私をエルヴィン団長はどんな言葉で返すだろう。
そう期待をしないで待つ間、二つの呼吸と馬達の小さな唸り声が厩舎に反響した。
「君もその守りたい内の一人だ。少なくとも私はそう思っている」
正直、頑張って続けろという励ましでも、調査兵団を抜けろという忠告でもどちらでもよかった。
エルヴィン団長の言葉次第で私の未来はこの時変わっていただろう。
しかし予想の範疇を越えた言葉には驚きを隠せなかった。
こんなのは私を慰める為の、謂わば方便だ。
だが傷心の私はつい深い意味を求めてしまい、そんな自身を叱りつけた。
「そんなこと、兵士である立場で言っていいんですか…」
相手の出方を窺うように恐る恐る声に出す。
エルヴィン団長は私の心境を知ってか知らずか、ふっと笑みを溢した。
「今は兵士ではない。ただの三十代後半のおじさんだ」
自嘲して返す様子に肩透かしを食った気分で、吊られて私も吹き出してしまった。
こんな冗談を交えて話せる人だというのも初めての発見だった。
緩やかな空気に少しだけ肩の荷は降りたが、それでも脳裏にちらつくのは食い散らかされていく仲間の絶望に満ちた顔だった。
「あの、一つ、お願いが…」
「なんだ」
「手を…貸していただけませんか」
「手?」
エルヴィン団長は疑いもなく右手を差し出す。
私はそれを両手で握手するように包み、ゆっくり力を込めた。
生きている人間の体温を感じる。
当たり前のことだ。
だがその当たり前が、壁の外では通用しない。
次に巨人と立ち向かう時、このぬくもりは瞬きする瞬間に消えてなくなってしまうかもしれない。
生きている現状を憂いつつ、このぬくもりに心地よさを覚えてしまうのは愚かだろうか。
「…落ち着くか」
「はい」
ずっと握っていたくなってしまうくらいに。
体温は移り、体はそれ以上に熱を帯びる。
私は惜しむ前にと手の力を緩めた。
「すみません。ありがとうございます」
「君はあたたかいな」
「え?そんなはず、ありません。ずっとここにいたので冷えきっていたかと…」
風通しはよく日が当たらないのもあって厩舎の中は気温が低い。指先は悴むくらいに凍えていた。
私は急に申し訳が立たなくなり手を引っ込めて隠した。
「仲間を思う君が冷たいわけがない。そう言ったんだ」
「っ…ありがとう、ございます」
「足りないなら手くらい、いつでも貸す」
エルヴィン団長の穏やかな口調に、冷えた心は溶かされ、蕩けていく。
「時々…いえ、頻回にこうやって救いを求めてしまうかもしれません…それでも私は、まだ戦えるでしょうか」
「戦うしかない」
先程とは打って変わった、凄みのある声量。
湿気の混じる空間にビリビリとした張りつめた空気が流れ込む。
「進むしかない。振り返ってもそこにあるのは屍だけだ。私達は、進むしかないんだ」
エルヴィン団長のそれは口癖に近かった。
進め、前へ進めと、引き連れた部下を鼓舞し導きを与えてくれる。
この時ばかりは一人の男性ではなく、いつも見ている団長としての威厳が表れていた。
私は再認識した。
エルヴィン団長がいてくれるからこそ、私は兵士でいられるのだと。
私は力強く頷き、まだ震えの止まらない腕をぐっと押さえつけた。それに目を落としたエルヴィン団長が静かに呟く。
「…後で、私の部屋に来なさい」
その指示には少しばかり動揺した。
えっ、と戸惑いながら顔を上げる。エルヴィン団長は伏せ目がちで続けた。
「これは上司としてでの命令ではない。これを断ったからといって、君の評価が左右されることはないというのは前もって言っておこう」
何を言っているのか、どういう意味なのか、前振りを以てしても理解は追いつかない。
余白の読めない私がエルヴィン団長の意を汲んだのは次の台詞を聞いた後だった。
「美味しい紅茶が手に入ったんだ。一緒にどうかな。体を冷やしては明日に響く」
修羅場を極める壁の外ではみなを引っ張り先頭に立つ調査兵団の団長が、たどたどしく、照れ臭そうに頬を掻き、目線も斜め上を向いている。
青天の霹靂とはこのことを言うのだろうか。
私は呆気に取られながらも上昇していく体温を感じながら、はいと頷いた。
***
人は、すぐには強くはなれない。体も、心も。
少し、ほんの少しだけ強くなれたと実感したのはそれから間もなくのことだった。
巨人になれる力を持つ新兵、エレン・イェーガー。
世界の命運を決める彼が、同じく正体が巨人と判明した新兵に連れ去られた。
エレンを奪い返すべく調査兵団及び憲兵団は首謀者の鎧の巨人へ特攻した。
最前線で馬を走らせるエルヴィン団長が、覇気を剥き出しにして右腕を高く挙げたその時だ。
林に隠れた巨人が突如現れ、エルヴィン団長の右腕に噛みつき拐っていった。
一気に隊列の最後尾に押し流されていく。
私は振り向くだけで悲鳴も上げられず、また、体が凍りついた。
「進め!!エレンはすぐそこだ!」
エルヴィン団長の叫びが遥か遠くまで延び響く。
その指示を合図に兵士達は前へ向き直し真っ直ぐにエレンの元へと急いだ。
ただ、私を除いて。
「団長!」
私はガチガチに固まる体を奮い起こし、立体起動装置のワイヤーを射出しエルヴィン団長に襲いかかる巨人にアンカーを突き刺した。
背後に回り込み、直上からうなじ目掛けてワイヤーを巻き取る。
一気に降下し、体を捻りつつうなじを削ぎ落とした。
巨人は静かに崩れ、口を半開きにして地面に倒れた。
私はすぐさまエルヴィン団長に駆け寄り膝を着いた。
「止血します!」
切り離された右腕の悲惨さに眩暈を覚えながらロープを巻きつける。
開口した状態で絶命した巨人の舌の上には剣を握りしめたままの手が転がっていた。
エルヴィン団長が苦痛に顔を歪めながら左手で私の肩を掴む。私を戦いの最前線へ送ろうとしているのだろうが、その手には全くといっていい程に力はなかった。
「何故、助けた。私の代わりはいる。今はエレンの奪還が最優先だ」
その叱責に怒りは含まれておらず、戦場には似合わず静かに諭すようだった。
私は肩に乗せられた手をぎゅっと握り、訴えた。
「私は…エルヴィン団長が一緒でなければ、前に進めません」
今日まで兵士として生きてこられたのはエルヴィン団長の存在あってのものだ。
恐怖に打ち勝ち巨人に刃を突き刺したのも、失いたくないものが目の前にあったからである。
以前は仲間が食われる様を見ているだけに過ぎなかったが、今回あのままエルヴィン団長を見捨てるなんてそれこそ無理な話だった。
二の腕から先のない空間に目を落とす。
もっと早く助けられていたら腕は食われずに済んだかもしれないと、痛恨の極みで唇を噛んだ。
だが残された左腕から伝わるぬくもりは変わっていないと、少しばかり安心した。
「弱くて、申し訳ありません…」
悔しさで涙が溢れ出る。
これまで助けられなかった仲間達への懺悔と後悔も混ざり合った雫は地面に吸い込まれ、すーっと消えていく。
「ならば」
エルヴィン団長は私の肩を借り立ち上がる。
深碧色のマントが風に乗ってひらりと翻り、背中の自由の翼が羽ばたいた。
エルヴィン団長の見つめる先に鎧の巨人とエレンがいた。忘れかけていたが、ここは戦場。
エルヴィン団長はまだ希望を失ってなどいなかった。
「進むぞ!」
力強く声を張り、左手に握る刃が巨人へと向けられる。その大きな背中に習い、私も柄を握り直した。
「はい!」
涙はもう枯れていた。
あるのは熱く燃え滾る、兵士としての意地と誇りだ。
私は、負傷しながらも前を行き部下を引っ張るエルヴィン団長の背中を追いかけていった─────。
***
─────何故、今、あの時の出来事を思い出したのか。
それは私自身が目先に迫る死を悟り、意思とは関係なしに走馬灯の如く過去を振り返っていたからに相違ない。
私は現実を受け入れようと、阿鼻叫喚する新兵達に目を向けた。
ウォールマリア奪還作戦の最中、馬を死守するべく小型の巨人の討伐に当たっていた隊は、獣の巨人の投石により私を除いて全滅した。
壁の内側に残されたのは新兵とリヴァイ兵士長、エルヴィン団長、そして隊の唯一の生き残りである私だ。
投石の雨が止まない中、エルヴィン団長は淡々と言った。
ここにいる新兵と私の命を捧げれば獣を仕留められる、と。
囮を使い、その隙に私とリヴァイ兵長で獣の巨人に近づいて討てという内容だった。
なんてことを言い出すのだと、私は話を進めようとする二人の前に一歩出る。
「私も、団長と共にいきます」
拳を胸に当て、心臓を捧げることを宣言した。
「私では力不足なのはお二人も承知の筈です。獣の巨人は、リヴァイ兵長に託します」
強敵に打ち勝つ為には力はもちろんだが、この作戦で重要なのは陽動だ。
一人でも多く獣の巨人に近づき、敵に意図を読ませず誘導する。
二人共私の覚悟を汲んでくれ、反対はしなかった。
エルヴィン団長が新兵を集め作戦を言い渡している間、私は新兵の青ざめる顔を他人事のように眺めていた。
陽動作戦を始める直前、最期を共にする馬を宥めてやりながら周囲を見渡すと、エルヴィン団長がきょろきょろと首を回し誰かを探していた。
ぱっと目が合った時、私を探していたということに気づいた。
「リヴァイも言っていたが、巨人化したエレンと逃げる道もある。経験値のある君まで犠牲になる必要はない」
エルヴィン団長は作戦を前にして私に逃げ道を作った。
だがどれだけ自分に都合のよい道が用意されていようと、私の意志は変わらない。
「いえ、私にはここで囮になるくらいしか役目はありません。力量は得ています」
「…そうか。だが私をここまで生かしてくれたのは君だ。それは忘れるな」
その言葉は正しく、私の生きた意味だった。
エルヴィン団長が巨人に腕を食われた時の私の行動は、意味のあるものだったとこの時初めて実感した。
涙こそ出なかったが死を前にしているとは思えないくらいに私の心は穏やかだった。
「腕はまだ残っているが、手を握らなくても?」
エルヴィン団長は私の心を読み手を差し出す。
その手に甘えたい気持ちが、ないと言えば嘘になる。
だが今の私に必要かと問えば、そうでもない。
「未練がましくなってしまいますから…遠慮しておきます。それに、覚悟は出来ています」
「強くなったな」
エルヴィン団長はにこやかに、けどどこか寂しそうな顔をした、気がした。
一瞬のことだったので表情は読み取れず、その目は緊張感を漂わせながら敵のいる方角を見据えていた。
本当は気づいていた。
エルヴィン団長の秘めたる思いについては、お茶に誘われたあの日から。
だが彼は、調査兵団団長エルヴィン・スミス。
その肩書きに傷をつけ、名折れとなってはいけない、私なんかが入り込んではいけない。
例えこれが最後の会話になろうとも、ここで今まで保ってきた距離を破ってしまっては後ろ髪を引かれる思いが残ってしまう気がした。
だからこそ私は最期の最後までエルヴィン団長に憧れる部下でいたかった。
私は自身に言い聞かせて、何度も追いかけてきたエルヴィン団長の背中を見つめながら手綱を握りしめた。
隔てのない荒野に広く分かれながら馬を走らせ、獣の巨人に突進する。
エルヴィン団長の雄叫びは轟々たる地響きにも負けず、私と新兵達の覚悟を揺らさずに導いた。
風を切る速さで投石が飛び、目の前を走っていたエルヴィン団長を乗せた馬が地面に落ちた。
近くでそれを見てしまった新兵が悲鳴を上げる。私はそれに被せるように叫んだ。
「振り返るな!!」
私達のやるべきことはただ一つ。
先導する人がいなくなろうとも、使命は果たすべきなのだ。
「私達が!道を切り開くんだ!!」
残された活路を無駄には出来ない。
振り向かず、前を向け。導きの先へ。
敬愛するエルヴィン団長と共に、地獄への道を、
「進めー!!」
数秒後、数十秒後と時が刻まれる度、声は減った。
仲間が次々と倒れていく中で自分はどのくらい走り続けていたのか、よく覚えていない。
恐怖も命も捨てた私が最期に思い出し、願うのは、やっぱりあの人。
もしも来世というものがあるのなら。
今度はただの人として、男女として。
あの時のぬくもりに触れながら、美味しい紅茶を、また一緒に。
...FIN
声をかけられ、私はその聞き覚えのある声にはっとなった。
俯けていた顔を上げると、厩舎の入り口にエルヴィン団長が立っていた。
直属の上司の姿を認め慌てて立ち上がろうとする。
するとエルヴィン団長は手を軽く挙げ、条件反射の動きをする部下を制止した。
「そのままでいい」
「…はい」
私は戸惑いつつも頷き、先程と同じように膝を抱えて座る姿勢に戻った。
私の後ろで静かに牧草を貪っていた馬がヒヒンと唸る。
エルヴィン団長は私の横に歩み寄って馬に手を差し伸べ、首の辺りをぽんぽんと軽く叩いた。
馬は嬉しそうに尾を振り、耳をぴんと立てた。
微笑ましそうに頬を綻ばすエルヴィン団長の横顔。
作戦前のようにピリピリと神経を尖らせている顔の方が見慣れているのもあり、馬に向ける優しい表情に釘付けになる。
エルヴィン団長は鬣を撫でてやりながら口を開いた。
「君は壁外調査の後は決まってここにいるんだな」
「え、知ってたんですか」
認知されていたことに驚き、声が上ずる。
エルヴィン団長に言われた通り、私は壁外調査から帰還した後は大抵厩舎に籠り、膝を抱えて蹲って過ごしていることがほとんどだった。
私は表情を誤魔化そうとはにかんだ。
「ここなら誰も来ない穴場と思ってましたけど、失敗のようです」
「物思いに耽っているのを邪魔してすまない」
「いえ…部下のことを把握するのも団長の仕事でしょうから」
「そういうつもりではないのだがな」
エルヴィン団長は苦笑した。
くるりと体を反転させ、私の隣に腰を降ろす。
「少しでも君の負荷が減らせたら、と思ってね。話してはくれないか」
その言葉に、エルヴィン団長はこれを意図して声をかけるに至ったのだと悟る。
つまりは私が兵団を去る可能性があるのを見越し、食い止める為にだ。
事務的な対応だとしても、心に秘めておくだけでは抱えきれない胸の内を晒したい欲は膨れていた。
「…先日は、私のせいで同期が巨人に食われ死にました。私がもっと強ければ助けられたかもしれないのに」
同じ編成を組んでいた同期が巨人の手に捕まった時、手から口元に運ばれるまでの動作は緩慢で猶予があった。
戦い慣れた兵士であれば立体起動装置を駆使して巨人のうなじを削ぎ落とし、仲間を救えた可能性は充分にあった。
だが私の体は氷のように凍てつき、馬に跨がったまま同期が食われる様を呆然と見ていることしか出来なかった。
「なんで助けてくれなかったのって恨まれてるかもしれません。本当は、弱い私が死んだ方がよかったんです。その方がもっと多くの人を守れたし、人類の為になったかもしれない」
こんな経験は一度のみではない。
壁外調査の度に強くて勇敢な仲間は食われ、弱くて臆病な私が生き延びる。
これまでに巨人を討伐した数なんて、手の指で容易に数えられる。
ここに来るといつも私は叫んでいた。
実際に声には出していないが、脳裏に蘇る悪夢のような映像を繰り返し映し、非力な自身を罵倒し、非難し、消えてしまいたいという感情を心の中で叫ぶという形で消化しようとしていた。
その叫びを他人に打ち明かしたのは今日が初めてのことだった。
卑屈になる私をエルヴィン団長はどんな言葉で返すだろう。
そう期待をしないで待つ間、二つの呼吸と馬達の小さな唸り声が厩舎に反響した。
「君もその守りたい内の一人だ。少なくとも私はそう思っている」
正直、頑張って続けろという励ましでも、調査兵団を抜けろという忠告でもどちらでもよかった。
エルヴィン団長の言葉次第で私の未来はこの時変わっていただろう。
しかし予想の範疇を越えた言葉には驚きを隠せなかった。
こんなのは私を慰める為の、謂わば方便だ。
だが傷心の私はつい深い意味を求めてしまい、そんな自身を叱りつけた。
「そんなこと、兵士である立場で言っていいんですか…」
相手の出方を窺うように恐る恐る声に出す。
エルヴィン団長は私の心境を知ってか知らずか、ふっと笑みを溢した。
「今は兵士ではない。ただの三十代後半のおじさんだ」
自嘲して返す様子に肩透かしを食った気分で、吊られて私も吹き出してしまった。
こんな冗談を交えて話せる人だというのも初めての発見だった。
緩やかな空気に少しだけ肩の荷は降りたが、それでも脳裏にちらつくのは食い散らかされていく仲間の絶望に満ちた顔だった。
「あの、一つ、お願いが…」
「なんだ」
「手を…貸していただけませんか」
「手?」
エルヴィン団長は疑いもなく右手を差し出す。
私はそれを両手で握手するように包み、ゆっくり力を込めた。
生きている人間の体温を感じる。
当たり前のことだ。
だがその当たり前が、壁の外では通用しない。
次に巨人と立ち向かう時、このぬくもりは瞬きする瞬間に消えてなくなってしまうかもしれない。
生きている現状を憂いつつ、このぬくもりに心地よさを覚えてしまうのは愚かだろうか。
「…落ち着くか」
「はい」
ずっと握っていたくなってしまうくらいに。
体温は移り、体はそれ以上に熱を帯びる。
私は惜しむ前にと手の力を緩めた。
「すみません。ありがとうございます」
「君はあたたかいな」
「え?そんなはず、ありません。ずっとここにいたので冷えきっていたかと…」
風通しはよく日が当たらないのもあって厩舎の中は気温が低い。指先は悴むくらいに凍えていた。
私は急に申し訳が立たなくなり手を引っ込めて隠した。
「仲間を思う君が冷たいわけがない。そう言ったんだ」
「っ…ありがとう、ございます」
「足りないなら手くらい、いつでも貸す」
エルヴィン団長の穏やかな口調に、冷えた心は溶かされ、蕩けていく。
「時々…いえ、頻回にこうやって救いを求めてしまうかもしれません…それでも私は、まだ戦えるでしょうか」
「戦うしかない」
先程とは打って変わった、凄みのある声量。
湿気の混じる空間にビリビリとした張りつめた空気が流れ込む。
「進むしかない。振り返ってもそこにあるのは屍だけだ。私達は、進むしかないんだ」
エルヴィン団長のそれは口癖に近かった。
進め、前へ進めと、引き連れた部下を鼓舞し導きを与えてくれる。
この時ばかりは一人の男性ではなく、いつも見ている団長としての威厳が表れていた。
私は再認識した。
エルヴィン団長がいてくれるからこそ、私は兵士でいられるのだと。
私は力強く頷き、まだ震えの止まらない腕をぐっと押さえつけた。それに目を落としたエルヴィン団長が静かに呟く。
「…後で、私の部屋に来なさい」
その指示には少しばかり動揺した。
えっ、と戸惑いながら顔を上げる。エルヴィン団長は伏せ目がちで続けた。
「これは上司としてでの命令ではない。これを断ったからといって、君の評価が左右されることはないというのは前もって言っておこう」
何を言っているのか、どういう意味なのか、前振りを以てしても理解は追いつかない。
余白の読めない私がエルヴィン団長の意を汲んだのは次の台詞を聞いた後だった。
「美味しい紅茶が手に入ったんだ。一緒にどうかな。体を冷やしては明日に響く」
修羅場を極める壁の外ではみなを引っ張り先頭に立つ調査兵団の団長が、たどたどしく、照れ臭そうに頬を掻き、目線も斜め上を向いている。
青天の霹靂とはこのことを言うのだろうか。
私は呆気に取られながらも上昇していく体温を感じながら、はいと頷いた。
***
人は、すぐには強くはなれない。体も、心も。
少し、ほんの少しだけ強くなれたと実感したのはそれから間もなくのことだった。
巨人になれる力を持つ新兵、エレン・イェーガー。
世界の命運を決める彼が、同じく正体が巨人と判明した新兵に連れ去られた。
エレンを奪い返すべく調査兵団及び憲兵団は首謀者の鎧の巨人へ特攻した。
最前線で馬を走らせるエルヴィン団長が、覇気を剥き出しにして右腕を高く挙げたその時だ。
林に隠れた巨人が突如現れ、エルヴィン団長の右腕に噛みつき拐っていった。
一気に隊列の最後尾に押し流されていく。
私は振り向くだけで悲鳴も上げられず、また、体が凍りついた。
「進め!!エレンはすぐそこだ!」
エルヴィン団長の叫びが遥か遠くまで延び響く。
その指示を合図に兵士達は前へ向き直し真っ直ぐにエレンの元へと急いだ。
ただ、私を除いて。
「団長!」
私はガチガチに固まる体を奮い起こし、立体起動装置のワイヤーを射出しエルヴィン団長に襲いかかる巨人にアンカーを突き刺した。
背後に回り込み、直上からうなじ目掛けてワイヤーを巻き取る。
一気に降下し、体を捻りつつうなじを削ぎ落とした。
巨人は静かに崩れ、口を半開きにして地面に倒れた。
私はすぐさまエルヴィン団長に駆け寄り膝を着いた。
「止血します!」
切り離された右腕の悲惨さに眩暈を覚えながらロープを巻きつける。
開口した状態で絶命した巨人の舌の上には剣を握りしめたままの手が転がっていた。
エルヴィン団長が苦痛に顔を歪めながら左手で私の肩を掴む。私を戦いの最前線へ送ろうとしているのだろうが、その手には全くといっていい程に力はなかった。
「何故、助けた。私の代わりはいる。今はエレンの奪還が最優先だ」
その叱責に怒りは含まれておらず、戦場には似合わず静かに諭すようだった。
私は肩に乗せられた手をぎゅっと握り、訴えた。
「私は…エルヴィン団長が一緒でなければ、前に進めません」
今日まで兵士として生きてこられたのはエルヴィン団長の存在あってのものだ。
恐怖に打ち勝ち巨人に刃を突き刺したのも、失いたくないものが目の前にあったからである。
以前は仲間が食われる様を見ているだけに過ぎなかったが、今回あのままエルヴィン団長を見捨てるなんてそれこそ無理な話だった。
二の腕から先のない空間に目を落とす。
もっと早く助けられていたら腕は食われずに済んだかもしれないと、痛恨の極みで唇を噛んだ。
だが残された左腕から伝わるぬくもりは変わっていないと、少しばかり安心した。
「弱くて、申し訳ありません…」
悔しさで涙が溢れ出る。
これまで助けられなかった仲間達への懺悔と後悔も混ざり合った雫は地面に吸い込まれ、すーっと消えていく。
「ならば」
エルヴィン団長は私の肩を借り立ち上がる。
深碧色のマントが風に乗ってひらりと翻り、背中の自由の翼が羽ばたいた。
エルヴィン団長の見つめる先に鎧の巨人とエレンがいた。忘れかけていたが、ここは戦場。
エルヴィン団長はまだ希望を失ってなどいなかった。
「進むぞ!」
力強く声を張り、左手に握る刃が巨人へと向けられる。その大きな背中に習い、私も柄を握り直した。
「はい!」
涙はもう枯れていた。
あるのは熱く燃え滾る、兵士としての意地と誇りだ。
私は、負傷しながらも前を行き部下を引っ張るエルヴィン団長の背中を追いかけていった─────。
***
─────何故、今、あの時の出来事を思い出したのか。
それは私自身が目先に迫る死を悟り、意思とは関係なしに走馬灯の如く過去を振り返っていたからに相違ない。
私は現実を受け入れようと、阿鼻叫喚する新兵達に目を向けた。
ウォールマリア奪還作戦の最中、馬を死守するべく小型の巨人の討伐に当たっていた隊は、獣の巨人の投石により私を除いて全滅した。
壁の内側に残されたのは新兵とリヴァイ兵士長、エルヴィン団長、そして隊の唯一の生き残りである私だ。
投石の雨が止まない中、エルヴィン団長は淡々と言った。
ここにいる新兵と私の命を捧げれば獣を仕留められる、と。
囮を使い、その隙に私とリヴァイ兵長で獣の巨人に近づいて討てという内容だった。
なんてことを言い出すのだと、私は話を進めようとする二人の前に一歩出る。
「私も、団長と共にいきます」
拳を胸に当て、心臓を捧げることを宣言した。
「私では力不足なのはお二人も承知の筈です。獣の巨人は、リヴァイ兵長に託します」
強敵に打ち勝つ為には力はもちろんだが、この作戦で重要なのは陽動だ。
一人でも多く獣の巨人に近づき、敵に意図を読ませず誘導する。
二人共私の覚悟を汲んでくれ、反対はしなかった。
エルヴィン団長が新兵を集め作戦を言い渡している間、私は新兵の青ざめる顔を他人事のように眺めていた。
陽動作戦を始める直前、最期を共にする馬を宥めてやりながら周囲を見渡すと、エルヴィン団長がきょろきょろと首を回し誰かを探していた。
ぱっと目が合った時、私を探していたということに気づいた。
「リヴァイも言っていたが、巨人化したエレンと逃げる道もある。経験値のある君まで犠牲になる必要はない」
エルヴィン団長は作戦を前にして私に逃げ道を作った。
だがどれだけ自分に都合のよい道が用意されていようと、私の意志は変わらない。
「いえ、私にはここで囮になるくらいしか役目はありません。力量は得ています」
「…そうか。だが私をここまで生かしてくれたのは君だ。それは忘れるな」
その言葉は正しく、私の生きた意味だった。
エルヴィン団長が巨人に腕を食われた時の私の行動は、意味のあるものだったとこの時初めて実感した。
涙こそ出なかったが死を前にしているとは思えないくらいに私の心は穏やかだった。
「腕はまだ残っているが、手を握らなくても?」
エルヴィン団長は私の心を読み手を差し出す。
その手に甘えたい気持ちが、ないと言えば嘘になる。
だが今の私に必要かと問えば、そうでもない。
「未練がましくなってしまいますから…遠慮しておきます。それに、覚悟は出来ています」
「強くなったな」
エルヴィン団長はにこやかに、けどどこか寂しそうな顔をした、気がした。
一瞬のことだったので表情は読み取れず、その目は緊張感を漂わせながら敵のいる方角を見据えていた。
本当は気づいていた。
エルヴィン団長の秘めたる思いについては、お茶に誘われたあの日から。
だが彼は、調査兵団団長エルヴィン・スミス。
その肩書きに傷をつけ、名折れとなってはいけない、私なんかが入り込んではいけない。
例えこれが最後の会話になろうとも、ここで今まで保ってきた距離を破ってしまっては後ろ髪を引かれる思いが残ってしまう気がした。
だからこそ私は最期の最後までエルヴィン団長に憧れる部下でいたかった。
私は自身に言い聞かせて、何度も追いかけてきたエルヴィン団長の背中を見つめながら手綱を握りしめた。
隔てのない荒野に広く分かれながら馬を走らせ、獣の巨人に突進する。
エルヴィン団長の雄叫びは轟々たる地響きにも負けず、私と新兵達の覚悟を揺らさずに導いた。
風を切る速さで投石が飛び、目の前を走っていたエルヴィン団長を乗せた馬が地面に落ちた。
近くでそれを見てしまった新兵が悲鳴を上げる。私はそれに被せるように叫んだ。
「振り返るな!!」
私達のやるべきことはただ一つ。
先導する人がいなくなろうとも、使命は果たすべきなのだ。
「私達が!道を切り開くんだ!!」
残された活路を無駄には出来ない。
振り向かず、前を向け。導きの先へ。
敬愛するエルヴィン団長と共に、地獄への道を、
「進めー!!」
数秒後、数十秒後と時が刻まれる度、声は減った。
仲間が次々と倒れていく中で自分はどのくらい走り続けていたのか、よく覚えていない。
恐怖も命も捨てた私が最期に思い出し、願うのは、やっぱりあの人。
もしも来世というものがあるのなら。
今度はただの人として、男女として。
あの時のぬくもりに触れながら、美味しい紅茶を、また一緒に。
...FIN
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