企画物
兵団を維持するにもお金の問題は常に付き物だ。
成果を得られないまま月日だけが無情に流れ、税金を壁外調査に費やすことを市井は厳しい目で睨み、不満を漏らす者も多い。
調査兵団に与えられる僅かな資金のやりくりもその責任も背負う者としてはこの問題には目を瞑りたくてもそれが出来ない。
困り果てていた、そんな時だった。
ある貴族が、兵団に寄付として多額の金を寄越したのだ。
組み分けられる兵団の中でも調査兵団に割り当てた金額は他とは比べようがないくらいの差があった。
それはありがたいと感謝する側の差で、寄付をした貴族の要望で、と上から聞かされた。
税金の無駄遣いと唾を吐かれる方が多いこともあり、その寄付は天からの恵みのようだった。
これは是非ともその貴族にお礼参りをしなくては、とエルヴィンはコートの裾を風ではためかせながら貴族街へと足を運んだ。
紹介してもらった屋敷の、重厚感ある玄関扉を叩く。
まるで人の訪問を予知していたかのようにすぐに扉は開かれた。
出てきたのはいかにも貴族らしい、身なりの整った凛々しくて若い女性だった。
名前を確認して、目の前の女性が寄付した本人だとわかった。
女性はエルヴィンの兵服の紋章を見てふわりと微笑んだ。
「調査兵団のエルヴィン団長ですね?忙しいでしょうに。わざわざ出向いてくださったんですね」
「直接お礼を言わなくては無礼と思いまして。この度は…」
礼を述べようとして、女性は手の平を前に突き出してエルヴィンの言葉を遮った。
「私、もうすぐ死ぬんです」
女性は突拍子もなく、平然とそう言った。
初対面で突然何を、と状況を理解するのも難しい。
こちらが混乱しているのも構わず女性は続ける。
「どうしてもお礼をしたいと言うなら、私が死ぬまでに我が儘を十個、叶えてください」
こうして、貴族令嬢の理不尽な付き合いが始まった。
一つ目。お腹いっぱいになるまで料理を食べたい。
初めに言い出した彼女の願い事がそれだ。
もっと難題な、一兵士に叶えられる願いの限度を超えたことを突きつけられると覚悟していたので、身構えていたエルヴィンはまたもぽかんとした。
地下街の人間でもあるまいし腹を満たすだけの食事にありつくなんて普段からしていることではないかと返したが、貴族の女性は食事の作法やら見栄えやらで親から厳しく躾られ、好きな物を好きなだけというのは経験がないのだと何故か立腹しながら言われた。
エルヴィンの通い慣れた料理屋をご所望だったので、市街地のこれといってなんの変哲もない料理屋へ連れていき、端から端までを注文し彼女の腹を存分に満たしてやった。
その小さな胃袋にどうやって入ったのかは謎だが、彼女も亭主も満足気だったので深く考えるのはやめにした。
次に会った時は、お出かけがしたいと言われた。
ふらりと歩いて目についたお店には片っ端から覗いてみたいと目を輝かせながら頼まれた。
二つ目も普通のこと…の前に、前回のもお出かけの内に入るのではないかと返すと、「それとこれとは別です」と反論された。
もう何も言うまい。
三回目の屋敷訪問。彼女は淑やかなワンピースを脱ぎ捨て、シャツとレギンスという軽装だった。
ブーツの紐を結い上げながら、「今日は馬に乗ります」と宣言された。
馬を飼っているのかと聞くと、飼っていないとのことだ。
「エルヴィンさんが貸してくださるでしょう?」
至極当然のようにそう言われ、自分は彼女の我が儘に付き合っているということを再認識した。
兵団の管理する厩舎 から愛馬を連れ、枯草の混じる牧草地に案内する。
初めて乗馬に挑戦するという彼女の肩は強ばり緊張しているのがわかった。
「ここ、鐙 に足を掛けて、大きく跨がるように」
「こう?」
彼女の体を持ち上げてやりながら鞍に座らせる。
手綱を握らせるが無闇に引っ張らないようにだけ注意喚起し、エルヴィンは地に足を着いたまま馬銜 を掴んで馬を誘導させた。
動き始めると彼女は子供のような声を出した。
「わあ~。馬に乗ってる~」
澄み渡る空を背景に浮かぶ彼女の横顔を見上げる。
馬に揺られて満悦に持ち上がる頬を見ているとエルヴィンの達成感にも繋がり、自然と笑顔になった。
「俺も乗ろう」
「え?わっ!」
エルヴィンは一旦馬を制止させると彼女の背後に乗り込んだ。
抱き抱える形で体を密着させ、手綱を握る彼女の手を上から被せる。
「振り落とされるなよ」
「わ~!きゃあああ~!!あっはははは!」
馬に合図を送り、彼女の悲鳴を木霊させながら草原を駆け抜ける。
左右に広がる麦畑は黄金に輝き、頬を掠める金風がぷっくりと実を膨らませる稲穂を揺らしていた。
彼女を喜ばせることに快感を得るなんて、考えたことはあっただろうか。
初めは致し方なくという、調査兵団存続の為に腰を屈めて媚を売るつもりでいたのだが、この時辺りからエルヴィンの抱く感情に変化が訪れていた。
四つ目。浴びるように酒を飲みたいと彼女が言った。
行きつけの酒場でテーブルを酒で埋め尽くし、巷で有名な酒豪とも張り合い、見事相手を酔い潰し、極めつけのラッパ飲みを披露した彼女に誰もが驚いた。
「ふあ~頭くらくら~うふふふ」
酒場を出た後も上機嫌な彼女は千鳥足で夜の街を歩き、エルヴィンはそのすぐ後ろを付き添った。
彼女といると意外なことだらけで新鮮なのだが、疑問も尽きなかった。
「君は本当に死ぬのか」
後ろから声を投げ掛けると、彼女はぴたりと足を止めた。
自身の死が近いと主張する彼女だが、これまでの様子を見ているととてもそうは見えない。
重い病気を背負いながらそう悟られないよう強がっているだけとも考えてみたが、まさか騙したのでは、と今更ながら疑いの目で見つめる。
彼女はくるりと振り向いて、
「死にますよ?冬は越せません。むしろ冬を前に昇天です」
と改めて寿命の短さを断言した。
その瞳に嘘は混じっていないと直感した。
多額の寄付をして、その見返りに出す願いは無理難題でもないし、嘘をつく理由もないからだ。
ただ、死が近いと感じさせない彼女は少しばかり不気味でもあった。
「本当にそうなら…こんなことで良いのか」
「こんなことって?」
「君にはもう少しこう…人生の最期を飾るに相応しい願い事はないのか」
「…ぷっ」
小さな破裂音は彼女の口から発せられた。
肩を震わせて、堪えきれない笑いを吹き出す。
「あっはははは!相応しい最期ってなんです?エルヴィンさんがそれを言うんですか?」
彼女はついには腹を抱えだす。
そしてふらつき、エルヴィンが手を差し出す前にこてんと尻餅をついた。
彼女はまだ笑っていた。
臍で茶を沸かすようなことを言ったつもりはなかったが、彼女の言う通りこれはナンセンスだった。
死を迎えるのに相応しい最期なんて、答えはない。
だが、死に一番近い危険な任務に当たる兵士の最期は、果たして美しいのだろうか。
誰もがこのように散りたいと思うだろうか。
自身の立場に置き換えるととんでもない跳弾となって返ってくることに気づき、何も言い返せなかった。
存分に笑い転げた彼女はしまったという顔をし、口を手で覆った。
「今のは、失言です…すみません」
エルヴィンはしゅんとなる彼女を責める言葉も慰める言葉も浮かばず、ただ苦笑した。
「…夜は冷えるな。今日はもう帰りなさい」
優しく諭すと、彼女はこくりと頷いた。
「わかりました。でもその前に、次のお願いです」
すっと彼女の両腕がエルヴィンに向けて伸ばされる。五つ目。
「お家まで運んでください」
まるで抱っこをせがむ甘えたがりの子供のようで。
エルヴィンはそのおねだりを半分呆れながらも了承し、彼女を横抱きにした。
ふわっと香る酒の匂い。
彼女程ではないにしろ一応はエルヴィンも酒が入っている。
くらくらするのは酒のせいであって、彼女に当てられたのではない。
この時はまだ、そう言い聞かせていた。
彼女を屋敷まで運んだは良いが、若い女性を一人玄関前に置いてはさすがにまずいと紳士的な考えが横切り、彼女に鍵を開けてもらってリビングまで付き添った。
抱き上げている間は愉悦で満たされたような顔をしていた彼女だったが、ぐったりソファに横たわった時には反転して落ち込んでいた。
「私…魅力ありませんよね。あなたを振り回す性悪女だし、意地汚いことも言ってしまった」
「そんなことはない。気にするな」
エルヴィンはソファの前で膝をつき、キッチンから頂戴した水を汲んだコップを彼女に差し出した。
彼女はのそのそと起き上がりコップの水をこくりと飲んだ後で、納得いかないように口を尖らせた。
「嘘」
「嘘は言わない」
「じゃあ六つ目のお願い。本当のことを言って?」
「勿体無い使い方だ」
わざわざお願い事にしなくても、嘘は言わない性分だ。
「君はとても魅力的だ」
なんの濁りも捻りも混ぜず正直に伝える。
純真なんて言葉で表すのはむず痒いが、疑う彼女にわかってもらえるようにと思えば自然とそう口にしていた。
彼女にとっては思いもよらないことだったか、面を食らいまごつき、顔をこれでもかと耳まで赤くした。
恥ずかしげに顔を俯かせる姿に、身体の中心がカッと熱を帯びるのは酒のせいだけではないと自覚した。
だが衝動というのはやっぱりあるようで、コップを持つ彼女の手を握り、顔を寄せキスをしたのはまったく図らずの行動だった。
彼女の両目が映る距離まで離れて、震える瞳が、エルヴィンに後悔の念を打ち込んだ。
「…すまなかった。もう会わない」
どさくさに紛れたどころではなかっただろう。
身を引こうと立ち上がるエルヴィンの腕を、彼女のか細い手が掴む。
「まだ全部のお願い聞いてもらってないです」
子供っぽいところはあれど大人の女性だ。
煽ったのはどちらかなんて責めるのは、不当だった。
「私を……抱いてください」
七つ目の願いを、消え入りそうな声で紡がれる。
エルヴィンはその小さな声も息も奪うように口を塞ぎながら、彼女のシャツの隙間に指を差し入れた。
ベッドシーツが規則正しく上下する深夜。
二つ分の膨らみの内、片方がごそごそと動く。
エルヴィンは上半身をゆっくり起こしたが、するりと擦れる布切れの音で隣で寝ていた彼女の目がぱちりと開いた。
「時間ですか?」
「いや。朝までに戻ればいい」
「なら…八つ目。ギリギリまでここにいて」
人肌が恋しいように、裸の彼女はエルヴィンの胸に手を当てた。
「訊きたいんだが…君はどうして調査兵団にあんな多額の寄付をしてくれたんだ?」
「もうすぐ死ぬのに私が持っていたって仕方ないじゃないですか。それに、あなたなら有意義に使ってくれるでしょう?お金は未来の為に使わなくちゃ」
「期待に応えないといけないな」
本当に彼女は死ぬらしい。
有り余るお金を未来に役立てる為に投資するが、その先に彼女はいない。
「九つ目…何も…何も言わずに私の声を聞いて」
彼女はエルヴィンに抱きつき、胸に顔をうずめながら呟いた。
「私、本当は…死ぬのが怖い」
ごくりと息を呑む音が聞こえないのに聞こえた気がした。
視線を下げても彼女の顔はよく見えない。
わざと見えないように俯いている。
エルヴィンは願い事の通り何も言わなかった。
例えこれが願いでなくても、何も言えなかったのは変わりないが。
とにかく、エルヴィンはただ黙って彼女を抱きしめた。
そうすることしか、出来なかった。
そうして夜明けも近くなった頃、ようやく胸の中で寝息が聞こえてきた。
今度こそ起こさないように慎重にベッドから抜け出し、脱ぎ捨てた衣類を拾って身なりを整える。
エルヴィンはさよならの挨拶もせず、朝になる前に屋敷を出ていった。
それから、今後の壁外調査の作戦の件で何かと忙しく、時間が取れず彼女と会わなくなった。
出来ることなら余命幾ばくもない彼女の傍にいてやりたい。
その反面で、仕事と調査兵団団長という肩書きが邪魔をして会わない時間が延びていく。
一人の男でなく、団長としての自分を取るのはエルヴィンにとってはそれこそ至極当然なのだ。
…というのは建前で、本当は臆病な自尊心を曝されないように心の窓を閉めていただけだった。
彼女の最後の願いを聞くのが怖くて、言い訳を探して逃げていた。
鮮やかな紅葉が落葉し広葉樹が冬の姿をちらつかせた頃になって、このままではいけないとようやく自身を奮い立たせた。
その日、早々に仕事を切り上げて数週間ぶりに屋敷を訪問した。
しかし、今までは扉を叩けばすぐに顔を出してくれたのに中々反応がない。
後悔に苛まれる想像を働かせたところでようやく扉が開かれた。
「一日三秋の思いでずっと待ってました。全然来てくれないから、最後の願いも叶わずに死ぬところでしたよ」
なんの音沙汰もなく放置していたのに、彼女は皮肉を言いながらも笑顔で出迎えた。
頬は痩せこけ、体も一回り小さくなっている気がした。
初めて彼女の残りの生が狭まっているのを感じ、エルヴィンは挨拶するように、謝罪するように、右手で心臓を捧げながら頭を下げた。
「十個目のお願いです」
頭の上から彼女の穏やかな声が降ってくる。
捧げた心臓は鼓動を速め、右手に伝導して全身が脈打つようだった。
「あの壁の上へ連れていってください」
エルヴィンが頭を上げると、彼女の指は街を囲いそびえ立つ壁を差していた。
エルヴィンはその指と背後の壁を交互に見て、聞き間違いではないかと確認した。
「それが…最後の願いか?」
「難しい?」
「何を…その逆だ」
何を頼まれるのかと思えばそんなこと、と一つ目の願いを聞いた時並みに拍子抜けした。
屋敷の位置的に壁まではそう遠くないが、そこまで歩くのも体が辛いと彼女は初めて弱音を吐いた。
壁までは馬車を用意して移動した。壁下からはリフトに揺られながら上へと昇り、辿り着いた壁の上からの眺めを見た彼女は高揚感に包まれた感情を抑えるように深いため息をついた。
「わあー…綺麗」
全体を見下ろせ、規則的に建てられた街並みは絶景だ。
景色を堪能した彼女は壁の上でごろんと仰向けになり、空しか写らない視界に自身の右腕を天へと伸ばした。
「こんなに高い壁なのに、空には全然届きそうにないなんて。秋の空は高いとよく言うし。ああでも、これだけ空が高いときっと天国も遠いわね。迎えも遅いかも。って、そんなわけないか。秋は短いし」
彼女はいつになく饒舌だった。
伸ばした手をぐっと握るが、空気すら掴めなかったことだろう。
天高く漂う雲には届かずとも、更に上にあるとされる天国は遠いようで近い。
そしてそこへ連れ去られる彼女を止める手段は、ない。
満足した彼女はむくりと起き上がって、ずっと棒立ちでいたエルヴィンと向き合った。
「私の我が儘に付き合ってくれて、どうもありがとうございました。これでさよならです」
「…俺の任期は終わったようだな」
そんな言葉しか返せない自分が、とてつもなく悔しかった。
「エルヴィンさん、これはお願いとは違います。けど…どうか、引き止めないでくださいね」
彼女は微笑みを絶やさずにそう言って、エルヴィンの横を通り過ぎてリフトへと向かった。
ざわわ、と色なき風が素通りし、後ろへと流れていく。
その風が彼女を一足先に常世へと連れ去ってしまいそうで、エルヴィンは咄嗟に振り返り、まだ腕の届く位置にいた彼女を後ろから抱きしめた。
見た目からそうだったが、抱いた時よりも明らかに細く簡単に折れてしまいそうだった。
腕の中で小さくすすり泣く、声にもならない音が聞こえてくる。
「引き止めないでって、言ったじゃないですか」
「俺には…引き止めてと、言っているように聞こえた」
「空耳、じゃないですか」
「なら、これは俺のお願いだ。俺に君を引き止めさせてくれ。君の寿命が尽きるまで…傍にいさせてくれ」
「秋は、短いですよ?」
「だからだよ」
「…こんなことなら、願い事を十個なんて言わなきゃ良かった」
「君の願いくらい、いくらでも叶えてやる」
制限なんて必要ない。
見返りなんて求めていない。
ただ傍にいて見守りたい、それがエルヴィンの願いだった。
腕の力を弱めると、彼女はくるりと回転し正面を向いた。
筋の出来た頬を手で拭い隠しながら、とびきりの笑顔で彼女が言う。
「じゃあ、十一個目。お茶を飲みに行きましょう」
「はは、本当に…君には驚かされてばかりだ」
冷え込む体を抱き寄せ外套の内側に彼女を誘う。
お安いご用だと囁きながら、美味しい紅茶のお店へ行き、いつものようになんでもないような日常を過ごした。
最期の最期まで、彼女は日常にこだわった。
仕事ばかりに心と体を奪われていたエルヴィンにはその日常すら普段なかったものだ。
彼女の願いを叶えながら、与えてもくれた日常だった。
彼女はやがて、その日常すら叶わなくなった。
あんなに豪快に飲んでいた酒は飲めなくなり、外に出る体力もなければ食事も進まなくなった。
どんどん痩せこけ、肌艶は失い、言葉数も少なくなったある日、ベッドで眠る彼女の腕が、何かを掴みたいかのように天に持ち上げられる。
傍らにいたエルヴィンが、その手を両手で包み込む。
ニコッと、彼女は笑う。
「エルヴィンさん…もう何個目のお願いか覚えてないけど…傍にいてくださいね」
ぎゅっと握りしめ、彼女の最期の願いに応える。
体温を失うまで、その手は放さなかった。
彼女の手の甲に、ちゅっとリップ音を鳴らす。
屋敷には二人いるのに、一人の男の嗚咽だけが響いていた。
少しだけ開いた窓の外。
残り香を感じさせるどこかで吹いた金風が、どこまでも高い秋空へと昇っていく。
季節は、冬を迎えた。
...FIN
成果を得られないまま月日だけが無情に流れ、税金を壁外調査に費やすことを市井は厳しい目で睨み、不満を漏らす者も多い。
調査兵団に与えられる僅かな資金のやりくりもその責任も背負う者としてはこの問題には目を瞑りたくてもそれが出来ない。
困り果てていた、そんな時だった。
ある貴族が、兵団に寄付として多額の金を寄越したのだ。
組み分けられる兵団の中でも調査兵団に割り当てた金額は他とは比べようがないくらいの差があった。
それはありがたいと感謝する側の差で、寄付をした貴族の要望で、と上から聞かされた。
税金の無駄遣いと唾を吐かれる方が多いこともあり、その寄付は天からの恵みのようだった。
これは是非ともその貴族にお礼参りをしなくては、とエルヴィンはコートの裾を風ではためかせながら貴族街へと足を運んだ。
紹介してもらった屋敷の、重厚感ある玄関扉を叩く。
まるで人の訪問を予知していたかのようにすぐに扉は開かれた。
出てきたのはいかにも貴族らしい、身なりの整った凛々しくて若い女性だった。
名前を確認して、目の前の女性が寄付した本人だとわかった。
女性はエルヴィンの兵服の紋章を見てふわりと微笑んだ。
「調査兵団のエルヴィン団長ですね?忙しいでしょうに。わざわざ出向いてくださったんですね」
「直接お礼を言わなくては無礼と思いまして。この度は…」
礼を述べようとして、女性は手の平を前に突き出してエルヴィンの言葉を遮った。
「私、もうすぐ死ぬんです」
女性は突拍子もなく、平然とそう言った。
初対面で突然何を、と状況を理解するのも難しい。
こちらが混乱しているのも構わず女性は続ける。
「どうしてもお礼をしたいと言うなら、私が死ぬまでに我が儘を十個、叶えてください」
こうして、貴族令嬢の理不尽な付き合いが始まった。
一つ目。お腹いっぱいになるまで料理を食べたい。
初めに言い出した彼女の願い事がそれだ。
もっと難題な、一兵士に叶えられる願いの限度を超えたことを突きつけられると覚悟していたので、身構えていたエルヴィンはまたもぽかんとした。
地下街の人間でもあるまいし腹を満たすだけの食事にありつくなんて普段からしていることではないかと返したが、貴族の女性は食事の作法やら見栄えやらで親から厳しく躾られ、好きな物を好きなだけというのは経験がないのだと何故か立腹しながら言われた。
エルヴィンの通い慣れた料理屋をご所望だったので、市街地のこれといってなんの変哲もない料理屋へ連れていき、端から端までを注文し彼女の腹を存分に満たしてやった。
その小さな胃袋にどうやって入ったのかは謎だが、彼女も亭主も満足気だったので深く考えるのはやめにした。
次に会った時は、お出かけがしたいと言われた。
ふらりと歩いて目についたお店には片っ端から覗いてみたいと目を輝かせながら頼まれた。
二つ目も普通のこと…の前に、前回のもお出かけの内に入るのではないかと返すと、「それとこれとは別です」と反論された。
もう何も言うまい。
三回目の屋敷訪問。彼女は淑やかなワンピースを脱ぎ捨て、シャツとレギンスという軽装だった。
ブーツの紐を結い上げながら、「今日は馬に乗ります」と宣言された。
馬を飼っているのかと聞くと、飼っていないとのことだ。
「エルヴィンさんが貸してくださるでしょう?」
至極当然のようにそう言われ、自分は彼女の我が儘に付き合っているということを再認識した。
兵団の管理する
初めて乗馬に挑戦するという彼女の肩は強ばり緊張しているのがわかった。
「ここ、
「こう?」
彼女の体を持ち上げてやりながら鞍に座らせる。
手綱を握らせるが無闇に引っ張らないようにだけ注意喚起し、エルヴィンは地に足を着いたまま
動き始めると彼女は子供のような声を出した。
「わあ~。馬に乗ってる~」
澄み渡る空を背景に浮かぶ彼女の横顔を見上げる。
馬に揺られて満悦に持ち上がる頬を見ているとエルヴィンの達成感にも繋がり、自然と笑顔になった。
「俺も乗ろう」
「え?わっ!」
エルヴィンは一旦馬を制止させると彼女の背後に乗り込んだ。
抱き抱える形で体を密着させ、手綱を握る彼女の手を上から被せる。
「振り落とされるなよ」
「わ~!きゃあああ~!!あっはははは!」
馬に合図を送り、彼女の悲鳴を木霊させながら草原を駆け抜ける。
左右に広がる麦畑は黄金に輝き、頬を掠める金風がぷっくりと実を膨らませる稲穂を揺らしていた。
彼女を喜ばせることに快感を得るなんて、考えたことはあっただろうか。
初めは致し方なくという、調査兵団存続の為に腰を屈めて媚を売るつもりでいたのだが、この時辺りからエルヴィンの抱く感情に変化が訪れていた。
四つ目。浴びるように酒を飲みたいと彼女が言った。
行きつけの酒場でテーブルを酒で埋め尽くし、巷で有名な酒豪とも張り合い、見事相手を酔い潰し、極めつけのラッパ飲みを披露した彼女に誰もが驚いた。
「ふあ~頭くらくら~うふふふ」
酒場を出た後も上機嫌な彼女は千鳥足で夜の街を歩き、エルヴィンはそのすぐ後ろを付き添った。
彼女といると意外なことだらけで新鮮なのだが、疑問も尽きなかった。
「君は本当に死ぬのか」
後ろから声を投げ掛けると、彼女はぴたりと足を止めた。
自身の死が近いと主張する彼女だが、これまでの様子を見ているととてもそうは見えない。
重い病気を背負いながらそう悟られないよう強がっているだけとも考えてみたが、まさか騙したのでは、と今更ながら疑いの目で見つめる。
彼女はくるりと振り向いて、
「死にますよ?冬は越せません。むしろ冬を前に昇天です」
と改めて寿命の短さを断言した。
その瞳に嘘は混じっていないと直感した。
多額の寄付をして、その見返りに出す願いは無理難題でもないし、嘘をつく理由もないからだ。
ただ、死が近いと感じさせない彼女は少しばかり不気味でもあった。
「本当にそうなら…こんなことで良いのか」
「こんなことって?」
「君にはもう少しこう…人生の最期を飾るに相応しい願い事はないのか」
「…ぷっ」
小さな破裂音は彼女の口から発せられた。
肩を震わせて、堪えきれない笑いを吹き出す。
「あっはははは!相応しい最期ってなんです?エルヴィンさんがそれを言うんですか?」
彼女はついには腹を抱えだす。
そしてふらつき、エルヴィンが手を差し出す前にこてんと尻餅をついた。
彼女はまだ笑っていた。
臍で茶を沸かすようなことを言ったつもりはなかったが、彼女の言う通りこれはナンセンスだった。
死を迎えるのに相応しい最期なんて、答えはない。
だが、死に一番近い危険な任務に当たる兵士の最期は、果たして美しいのだろうか。
誰もがこのように散りたいと思うだろうか。
自身の立場に置き換えるととんでもない跳弾となって返ってくることに気づき、何も言い返せなかった。
存分に笑い転げた彼女はしまったという顔をし、口を手で覆った。
「今のは、失言です…すみません」
エルヴィンはしゅんとなる彼女を責める言葉も慰める言葉も浮かばず、ただ苦笑した。
「…夜は冷えるな。今日はもう帰りなさい」
優しく諭すと、彼女はこくりと頷いた。
「わかりました。でもその前に、次のお願いです」
すっと彼女の両腕がエルヴィンに向けて伸ばされる。五つ目。
「お家まで運んでください」
まるで抱っこをせがむ甘えたがりの子供のようで。
エルヴィンはそのおねだりを半分呆れながらも了承し、彼女を横抱きにした。
ふわっと香る酒の匂い。
彼女程ではないにしろ一応はエルヴィンも酒が入っている。
くらくらするのは酒のせいであって、彼女に当てられたのではない。
この時はまだ、そう言い聞かせていた。
彼女を屋敷まで運んだは良いが、若い女性を一人玄関前に置いてはさすがにまずいと紳士的な考えが横切り、彼女に鍵を開けてもらってリビングまで付き添った。
抱き上げている間は愉悦で満たされたような顔をしていた彼女だったが、ぐったりソファに横たわった時には反転して落ち込んでいた。
「私…魅力ありませんよね。あなたを振り回す性悪女だし、意地汚いことも言ってしまった」
「そんなことはない。気にするな」
エルヴィンはソファの前で膝をつき、キッチンから頂戴した水を汲んだコップを彼女に差し出した。
彼女はのそのそと起き上がりコップの水をこくりと飲んだ後で、納得いかないように口を尖らせた。
「嘘」
「嘘は言わない」
「じゃあ六つ目のお願い。本当のことを言って?」
「勿体無い使い方だ」
わざわざお願い事にしなくても、嘘は言わない性分だ。
「君はとても魅力的だ」
なんの濁りも捻りも混ぜず正直に伝える。
純真なんて言葉で表すのはむず痒いが、疑う彼女にわかってもらえるようにと思えば自然とそう口にしていた。
彼女にとっては思いもよらないことだったか、面を食らいまごつき、顔をこれでもかと耳まで赤くした。
恥ずかしげに顔を俯かせる姿に、身体の中心がカッと熱を帯びるのは酒のせいだけではないと自覚した。
だが衝動というのはやっぱりあるようで、コップを持つ彼女の手を握り、顔を寄せキスをしたのはまったく図らずの行動だった。
彼女の両目が映る距離まで離れて、震える瞳が、エルヴィンに後悔の念を打ち込んだ。
「…すまなかった。もう会わない」
どさくさに紛れたどころではなかっただろう。
身を引こうと立ち上がるエルヴィンの腕を、彼女のか細い手が掴む。
「まだ全部のお願い聞いてもらってないです」
子供っぽいところはあれど大人の女性だ。
煽ったのはどちらかなんて責めるのは、不当だった。
「私を……抱いてください」
七つ目の願いを、消え入りそうな声で紡がれる。
エルヴィンはその小さな声も息も奪うように口を塞ぎながら、彼女のシャツの隙間に指を差し入れた。
ベッドシーツが規則正しく上下する深夜。
二つ分の膨らみの内、片方がごそごそと動く。
エルヴィンは上半身をゆっくり起こしたが、するりと擦れる布切れの音で隣で寝ていた彼女の目がぱちりと開いた。
「時間ですか?」
「いや。朝までに戻ればいい」
「なら…八つ目。ギリギリまでここにいて」
人肌が恋しいように、裸の彼女はエルヴィンの胸に手を当てた。
「訊きたいんだが…君はどうして調査兵団にあんな多額の寄付をしてくれたんだ?」
「もうすぐ死ぬのに私が持っていたって仕方ないじゃないですか。それに、あなたなら有意義に使ってくれるでしょう?お金は未来の為に使わなくちゃ」
「期待に応えないといけないな」
本当に彼女は死ぬらしい。
有り余るお金を未来に役立てる為に投資するが、その先に彼女はいない。
「九つ目…何も…何も言わずに私の声を聞いて」
彼女はエルヴィンに抱きつき、胸に顔をうずめながら呟いた。
「私、本当は…死ぬのが怖い」
ごくりと息を呑む音が聞こえないのに聞こえた気がした。
視線を下げても彼女の顔はよく見えない。
わざと見えないように俯いている。
エルヴィンは願い事の通り何も言わなかった。
例えこれが願いでなくても、何も言えなかったのは変わりないが。
とにかく、エルヴィンはただ黙って彼女を抱きしめた。
そうすることしか、出来なかった。
そうして夜明けも近くなった頃、ようやく胸の中で寝息が聞こえてきた。
今度こそ起こさないように慎重にベッドから抜け出し、脱ぎ捨てた衣類を拾って身なりを整える。
エルヴィンはさよならの挨拶もせず、朝になる前に屋敷を出ていった。
それから、今後の壁外調査の作戦の件で何かと忙しく、時間が取れず彼女と会わなくなった。
出来ることなら余命幾ばくもない彼女の傍にいてやりたい。
その反面で、仕事と調査兵団団長という肩書きが邪魔をして会わない時間が延びていく。
一人の男でなく、団長としての自分を取るのはエルヴィンにとってはそれこそ至極当然なのだ。
…というのは建前で、本当は臆病な自尊心を曝されないように心の窓を閉めていただけだった。
彼女の最後の願いを聞くのが怖くて、言い訳を探して逃げていた。
鮮やかな紅葉が落葉し広葉樹が冬の姿をちらつかせた頃になって、このままではいけないとようやく自身を奮い立たせた。
その日、早々に仕事を切り上げて数週間ぶりに屋敷を訪問した。
しかし、今までは扉を叩けばすぐに顔を出してくれたのに中々反応がない。
後悔に苛まれる想像を働かせたところでようやく扉が開かれた。
「一日三秋の思いでずっと待ってました。全然来てくれないから、最後の願いも叶わずに死ぬところでしたよ」
なんの音沙汰もなく放置していたのに、彼女は皮肉を言いながらも笑顔で出迎えた。
頬は痩せこけ、体も一回り小さくなっている気がした。
初めて彼女の残りの生が狭まっているのを感じ、エルヴィンは挨拶するように、謝罪するように、右手で心臓を捧げながら頭を下げた。
「十個目のお願いです」
頭の上から彼女の穏やかな声が降ってくる。
捧げた心臓は鼓動を速め、右手に伝導して全身が脈打つようだった。
「あの壁の上へ連れていってください」
エルヴィンが頭を上げると、彼女の指は街を囲いそびえ立つ壁を差していた。
エルヴィンはその指と背後の壁を交互に見て、聞き間違いではないかと確認した。
「それが…最後の願いか?」
「難しい?」
「何を…その逆だ」
何を頼まれるのかと思えばそんなこと、と一つ目の願いを聞いた時並みに拍子抜けした。
屋敷の位置的に壁まではそう遠くないが、そこまで歩くのも体が辛いと彼女は初めて弱音を吐いた。
壁までは馬車を用意して移動した。壁下からはリフトに揺られながら上へと昇り、辿り着いた壁の上からの眺めを見た彼女は高揚感に包まれた感情を抑えるように深いため息をついた。
「わあー…綺麗」
全体を見下ろせ、規則的に建てられた街並みは絶景だ。
景色を堪能した彼女は壁の上でごろんと仰向けになり、空しか写らない視界に自身の右腕を天へと伸ばした。
「こんなに高い壁なのに、空には全然届きそうにないなんて。秋の空は高いとよく言うし。ああでも、これだけ空が高いときっと天国も遠いわね。迎えも遅いかも。って、そんなわけないか。秋は短いし」
彼女はいつになく饒舌だった。
伸ばした手をぐっと握るが、空気すら掴めなかったことだろう。
天高く漂う雲には届かずとも、更に上にあるとされる天国は遠いようで近い。
そしてそこへ連れ去られる彼女を止める手段は、ない。
満足した彼女はむくりと起き上がって、ずっと棒立ちでいたエルヴィンと向き合った。
「私の我が儘に付き合ってくれて、どうもありがとうございました。これでさよならです」
「…俺の任期は終わったようだな」
そんな言葉しか返せない自分が、とてつもなく悔しかった。
「エルヴィンさん、これはお願いとは違います。けど…どうか、引き止めないでくださいね」
彼女は微笑みを絶やさずにそう言って、エルヴィンの横を通り過ぎてリフトへと向かった。
ざわわ、と色なき風が素通りし、後ろへと流れていく。
その風が彼女を一足先に常世へと連れ去ってしまいそうで、エルヴィンは咄嗟に振り返り、まだ腕の届く位置にいた彼女を後ろから抱きしめた。
見た目からそうだったが、抱いた時よりも明らかに細く簡単に折れてしまいそうだった。
腕の中で小さくすすり泣く、声にもならない音が聞こえてくる。
「引き止めないでって、言ったじゃないですか」
「俺には…引き止めてと、言っているように聞こえた」
「空耳、じゃないですか」
「なら、これは俺のお願いだ。俺に君を引き止めさせてくれ。君の寿命が尽きるまで…傍にいさせてくれ」
「秋は、短いですよ?」
「だからだよ」
「…こんなことなら、願い事を十個なんて言わなきゃ良かった」
「君の願いくらい、いくらでも叶えてやる」
制限なんて必要ない。
見返りなんて求めていない。
ただ傍にいて見守りたい、それがエルヴィンの願いだった。
腕の力を弱めると、彼女はくるりと回転し正面を向いた。
筋の出来た頬を手で拭い隠しながら、とびきりの笑顔で彼女が言う。
「じゃあ、十一個目。お茶を飲みに行きましょう」
「はは、本当に…君には驚かされてばかりだ」
冷え込む体を抱き寄せ外套の内側に彼女を誘う。
お安いご用だと囁きながら、美味しい紅茶のお店へ行き、いつものようになんでもないような日常を過ごした。
最期の最期まで、彼女は日常にこだわった。
仕事ばかりに心と体を奪われていたエルヴィンにはその日常すら普段なかったものだ。
彼女の願いを叶えながら、与えてもくれた日常だった。
彼女はやがて、その日常すら叶わなくなった。
あんなに豪快に飲んでいた酒は飲めなくなり、外に出る体力もなければ食事も進まなくなった。
どんどん痩せこけ、肌艶は失い、言葉数も少なくなったある日、ベッドで眠る彼女の腕が、何かを掴みたいかのように天に持ち上げられる。
傍らにいたエルヴィンが、その手を両手で包み込む。
ニコッと、彼女は笑う。
「エルヴィンさん…もう何個目のお願いか覚えてないけど…傍にいてくださいね」
ぎゅっと握りしめ、彼女の最期の願いに応える。
体温を失うまで、その手は放さなかった。
彼女の手の甲に、ちゅっとリップ音を鳴らす。
屋敷には二人いるのに、一人の男の嗚咽だけが響いていた。
少しだけ開いた窓の外。
残り香を感じさせるどこかで吹いた金風が、どこまでも高い秋空へと昇っていく。
季節は、冬を迎えた。
...FIN
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