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企画物

かんかんの日照りが続く猛暑。
積雲を浮かばす青空からは灼けつく日差しが降り注ぎ、影を色濃く映し出す。
首をぐっと後ろに反らして見えたのは干からびた地面だった。
天と地がひっくり返り、頭に血が昇っていく。
頭がぼうっとして意識が混濁し、最後に雨が降ったのはいつだろうか、などと能天気なことを考えた。

口から垂れた水滴が重力に逆らえずに頬、目尻、額と伝い地面へと落ちた。口の中は鉄の味がする。
そういえば足が痛い。
大きな何かに強く握られているような、けど感覚もほとんどない気もする。

「離せ!離せえぇぇ!!」

誰かの喚き声と悲鳴が鼓膜を震わせた。
逆さまの視界にぼんやりと映るのは同じ隊列を組んで行動していた仲間達だった。
まるで玩具の人形を扱うように仲間を鷲掴みにしているのは、大きな大きな、私達の敵だ。
私の足を掴み宙ぶらりんにして弄ぶ目の前のコイツも、うなじを削ぎ損ねた内の一体である。

仲間達の阿鼻叫喚が木霊する。
泣き叫び、命乞いをし、そして無音になる。
次は私の番か、と自然と悟った。
逃げる気力もなければ、空を駆け抜けるガスもない。
熱い。暑い。
気温は高い筈なのに、全身に滲むのは冷や汗だった。
一瞬の内に凍える程の寒気に襲われ、汗が体を芯まで冷やす。
光の屈曲が蜃気楼を生むが、それが自然現象なのか意識の混濁からくる視野の異常なのかはっきりとは分からない。
目の前に唾液を含んだ舌と歯が迫る。
私の意識は薄れ、重たい瞼を持ち上げる抵抗力もなく、目を閉じていった。


***


「じゃあ、行ってくるよ」

優しい囁き声が通り抜けて、私はそこでようやく目を覚ました。
体を持ち上げて遠ざかる足音のする方に顔を向けた時には、声の持ち主の背中が扉の向こう側に消える直前だった。
遠くでバタンと重たい扉が閉められ、ガチャンと鍵の締まる音がした。
もっと早く起きていれば玄関までお見送りが出来たかもしれない。また間に合わなかったと、私は項垂れた。

同じ屋根の下で暮らすエルヴィンは、朝が早い。
太陽が昇る前から起床し、ビルの隙間から淡い朝日が漏れる頃には家を出て会社に行ってしまう。
次にエルヴィンの顔が見れるのは空に星が浮かぶ時間帯になるだろう。
そういえば、今日はやけに外が暗い。
いつもより早い時間に出勤したのだろうかと、足を引きずりながら窓辺に移動した。
上を見上げると太陽は重たい雲に遮られ、空は今にも泣き出しそうな顔を見せていた。
エルヴィンは傘を持っていっただろうか。
しっかりしているように見えて少し抜けている部分もある彼だ、怪しいところである。

私は視線を窓から自身の足へと移した。
私は生まれつき左足が悪く、上手に歩くことが出来ない。
よたよたと子供のような足取りになり、長距離の移動も困難だ。
感覚も鈍いので怪我することもザラにある。
エルヴィンが毎日包帯を巻き直してくれていて、私が眠っている間に朝もしてくれたのか包帯は綺麗に巻かれていた。
手厚いケアを施してくれるエルヴィンは嫌な顔を見せたことなどない。
早く帰ってきてくれないかな。
そう待ち焦がれながら雲を目で追いかけたり、家の中を意味もなく彷徨いたりして時が経つのを待った。
日が傾くにつれて雲は分厚い層を重ね、どんよりと鼠色に濁っていく。
やがて透明の雫が窓ガラスを打ちつける音が響くようになり、やっぱりね、と予想通りの結果が出た。
外が光度を失って随分と経った頃、玄関から開錠の音がした。

「ただいま」

帰宅したエルヴィンの声が耳に入り、私はお出迎えの為に玄関へと走った。
リビングと廊下を繋ぐ開いたままの扉を通り抜け、正面の玄関を見上げたその時、エルヴィンの後ろからもう一人の影が見え隠れしているのにはっとなり足を止める。

「リヴァイ、スリッパはそれを使ってくれ」
「ああ」

エルヴィンはビジネスバッグを降ろしながら靴を脱ぎ、来客用のスリッパを並べた。
リヴァイは短く返事をして、傘を軽く振って雫を落とした。
二人は左の肩と右の肩、それぞれシャツの色を変えて帰ってきた。エルヴィンは廊下で固まる私に気づき、緩く笑った。

「ただいま」

エルヴィンがもう一度そう口に出して、リヴァイも私の存在に気がついた。
相変わらず人を威圧する三白眼だ。
睨まれている気がして私は息を呑んだ。
そしてそれ以上近づく勇気がなく、背中を向けて奥へと引っ込んだ。
二人がリビングへと進み、リヴァイの頭髪が見えた瞬間に今度は寝室へ逃げる。
背後でエルヴィンが吐息をつくのが聞こえた。

「まあ知っての通りだが、彼女は極度の人見知りなんだ。気を悪くしないでくれ」
「別に、なんとも」

リヴァイは素っ気ない態度でダイニングチェアの脚を引きバッグを置いた。
エルヴィンも反対の席で荷物を置き、仕事で使用しているノートパソコンを取り出す。

「で、今度発表するプレゼンなんだが…」
「資料は出来てんだろ?パワポ見せろ」

二人がパソコンの画面を覗き込む。
私はその背中を寝室の扉の隙間からこっそりと盗み見た。
リヴァイはエルヴィンの仕事の同僚だ。
仕事終わりに時々招いては堅苦しい話ばかりしている。
内容は難しすぎて私には理解出来ないが、エルヴィンが仕事で悩めばそれを解決してくれるのはいつもリヴァイだ。
エルヴィンにとって彼は頼れる存在なのだろうが、私にはどうにも苦手意識が抜けなかった。
ふいにリヴァイが静かに振り向いて、私と目が合う。
私は硬直したまま後ずさりした。

「おい、別に取って食いはしねぇぞ」

振り向いただけじゃねぇか、とリヴァイが呆れて言う。
エルヴィンは苦笑いを浮かべてそれを見ていた。

「彼女を脅さないでくれないか」
「脅してねぇよ」

悪者扱いされて不機嫌になるリヴァイだが、それを見兼ねたエルヴィンがキッチンでお湯を沸かし紅茶を淹れてくると、あからさまなご機嫌取りに呆れつつもそれを飲んだ。
独特な持ち方でティーカップの淵に唇を付けながら口を開く。

「あいつ、足の調子は良いのか」
「ああ。あれは生まれつきだからな。おかげで包帯を巻くのが特技になったよ」

二人は時々私のことを話題にしながらパソコンの画面と睨めっこしていた。
仕事で使うらしい資料の修正をかけて、ふいにエルヴィンがそういえば、と話を振る。

「リヴァイは前世というものを信じる口か?」
「お前な、いい加減口動かす前にタイピングする手を動かせよ」

リヴァイは溜め息混じりでしかめっ面を崩さなかったが、それでもエルヴィンの話には耳を傾けて答えた。

「別に俺は信じちゃいねぇが。思い当たる節でもあるのか」
「最近よく同じ夢を見るんだ。リアルすぎて夢とは思えないくらいの、巨人が出てくる夢を。俺はその巨人を討伐する団体の団長なんだ」
「へぇ。そんなお偉いさんならさぞ女には困らねぇんだろうな」
「そんな言い方は酷いな」

眉を動かさず平坦な口調で言うリヴァイに、それが冗談であると同時にただの夢として認識しているのを分かった上でエルヴィンはハハッと笑った。

「だがまあ、そうだな。困っていたかどうかまでは覚えがないが、心に決めた人はいたのかもしれないな」
「確信があって言ってるように聞こえるな」
「さあ。どうかな」

エルヴィンは曖昧に返し、含み笑いを浮かべるだけだった。
リヴァイも冗談の掛け合いに深入りはせず、話の軸を企画書に戻した。
時計の長針が一周した辺りで二人の安堵したような吐息が聞こえてきた。

「助かったよリヴァイ。次の企画もなんとかなりそうだ」
「感謝するなら今度奢れ」
「ああ。良い店調べておく」
「傘を貸してやった礼も忘れるなよ」
「そういうのを目ざといと言うんじゃないか?」
「言わねぇよ」

私はベッドの上で横になりながら二人のやりとりを静かに聞いた。
耳を欹てていると二人の足音が遠ざかり、玄関の開閉の音がして止んだ。
音と気配が一人分減り、そして聞き慣れた足音が近づいてくる。
寝室の扉がキィと軋み、リビングの光が漏れ出て寝室が僅かに照らされた。
エルヴィンは顔だけ覗かせてベッドを見下ろしていた。

「リヴァイは帰った。出てきてくれないか」

私はむくりと起き上がった。
エルヴィンの声に応えたい気持ちは山々だが足と気持ちは動かない。
リヴァイが家の外に出たのは分かるが、脳裏にある顔を浮かべるとどうにも萎縮してしまう。
虐められた記憶なんてないが、これはこういう性分として受け入れた。

「足は痛くないか?」

エルヴィンは私の足に注目した。
エルヴィンが出勤してから帰宅するまでの間に家の中を歩いただけだが、しっかり巻いた包帯でもどうしても崩れてしまう。

「包帯がよれてしまっているな。巻き直すからおいで」

エルヴィンの方から迎えに来てくれて、その大きな腕で私を抱き上げた。
リビングのソファに移動すると膝の上に私を座らせ、包帯を丁寧に巻き直してくれた。

「そろそろリヴァイに慣れたらどうだ。ああ見えて寂しがっているぞ」

それはないと思うが。エルヴィンからはそう見えるらしい。
エルヴィンは慣れた手つきで包帯を巻きつつリヴァイの話を続けた。
私は右から左へとそれを流した。
寂しさを埋めることを理由に距離を縮めるなら、それは私にも言えること。
ようやく訪れた二人の時間。
私はそれを噛み締めるようにして、エルヴィンの胸に体を預けていた。




休日。
家でまったりと過ごすエルヴィンだが、日頃の疲れが取れないのか彼は午後からずっとソファーベッドに沈み、昼寝を決め込んでいた。
大きな体がソファに収まりきらず足が外に飛び出ている上に、もう夕暮れ時になるというのに静かな寝息を立て一向に目覚める気配はない。
悪戯心ではみ出た足にパンチをおみまいしてみても寝返りを打つだけで覚醒には至らなかった。
つまらないなとソファから離れた時、生暖かい風が背をくすぐった。
いつもは施錠して閉じている窓が開いており、網戸越しに風と雨の匂いが運ばれてくる。
先程まで晴れていた空はぐずつき、また暗い色を見せた。
やがて弱々しい霧雨が大地へ降り注ぎ、視界を奪っていく。

ああそういえば、あの時もこんな雨だった。

遠い記憶を懐かしみながら、私の足は自然と窓へ寄り、網戸をこじ開けて雨空の下へと降り立っていた。
ぬかるんだ地面を歩き、行く宛もなく彷徨う。
道すがら時々すれ違う人に二度見されながらも私は堂々と歩いた。
足取りが不格好なのは致し方ない。


やがて辿り着いたのは近所の公園だった。
特に何も考えず目に付いたベンチの上で腰を落ち着かせ足を伸ばした。
今日の朝もエルヴィンは丁寧に包帯を巻いてくれたが、ぐしゃぐしゃな上に泥のオマケ付きだ。
怒られるのを覚悟しても、今更どうしようもない。

雨は止まず、細かな粒が体を濡らしていく。
徐々に強まる雨足に相まって霧も濃くなった。
そこでじっと留まってどのくらい経ったかは不明だが、凹んだ地面に水が張るくらいにはなっていた。
何をしたいでもないのに、だが体は雨に打たれたがっている。きっとそれが理由だ。

「可愛いお嬢さん。こんな雨の中で独りかい」

ピチャン、と水はねの音が鳴る。
見上げると、グレーの薄いシャツと膝丈のステテコ姿の、部屋着のままのエルヴィンがそこにいた。
傘も差さず肩はびしょ濡れで、穏やかな口調とは相反してその姿はあまりに可笑しく見えた。
エルヴィンは泥で汚れることを気にも留めずベンチの前で膝をつき、私の体に腕を回して抱きしめた。

「無事で良かった…心配したんだぞ」

冷えた体温は覚えがあった。
あれからどのくらいの時代を超えたか、ここで水溜りができる様子を眺めるよりずっと長い時間なのは確かではある。
…そう、あれは確かに、私とエルヴィンの記憶だった。


***


「こんにちは、お嬢さん」

背中にかかる声に、私は振り向くのに躊躇した。
随分と優男を演じた声だ。
相手が演技をするなら私もそうしようと、笑顔を取り繕った。

「その挨拶、キザっぽいね。エルヴィン」

お嬢さんと呼ばれる歳でもない。
嫌味とも取れる発言だがエルヴィンのことだ、大した意味などないのは把握している。
振り向いた先にいたエルヴィンは傘を差していて、その下にある顔は無表情だった。
だが悲しんでいるようにも、怒っているようにも見える。
雨と霧で視界が悪く、表情すらも曖昧だった。
サアアァァ、と撫でるように雨が肌を湿らせていく。

「どこに行く?」
「どこにも。ただの散歩」
「こんな雨の中を、傘も差さずに?」
「そう。傘も差さずに」

今日は朝から雨空が広がり、霧雨が地を優しく叩いていた。
傘も差さず一人街中を徘徊する片足の女を、住民は奇怪な目で振り返りつつ通り過ぎていっていた。
私はウォール・ローゼの壁にもたれ、杖を立て掛けた。
兵舎を出てから随分と歩いたせいで、もう背中も靴の中もびしょ濡れで気持ち悪いくらいだ。
エルヴィンは私の左足に目線を落とす。

「足の調子は?」
「もうなんともないよ。不便なだけ」

私は一年程前に行われた壁外調査の時に巨人に捕まり、左足を負傷した。
捕まった時は骨折に至るまで握り潰され、救出された後の治療で切断しか道はないと医師から宣告を受けた。
結果左膝から下を失い、以降杖が手放せない生活だ。
私は顔を上げ、エルヴィンの右腕を指した。

「腕の調子は?」
「どうってことない。不便なだけだ」

エルヴィンもまた、巨人に腕を食われていた。
手負いの彼だが引退するどころか現役として作戦を企て、自らも戦地に赴こうとしている。
エルヴィンを見ていると、彼のようにはなれないと惨めさが増すばかりだ。
私は、引き止められてしまったならこのまま世間話でもして凌ごうと目論んだ。

「そういえば最近知ったんだけど、私を助けてくれたのはリヴァイらしいね」
「知らなかったのか」
「私は意識が朦朧としてたし本人も今まで言ってこなかったから。この前たまたまリヴァイにあった時にね、どういう風の吹き回しかあの時のこと教えてもらってさ。どうして生き残ったのか不思議だったけど、その謎が今更になって解けたよ」

一年前、死ぬ間際に見た光景は巨人の口だ。
それから記憶は朧げだが、隣で隊列を組んでいたリヴァイが助けに来てくれたらしい。
今更になって感謝こそ伝えたがリヴァイは相変わらずすかした態度だった。

「まだリヴァイは苦手か」
「得意ではないかな。どうにも彼とは相性が合わないみたいで。私が勝手に苦手意識持ってるだけなんだけど」
「仲良くしろとは言わないが…ああいや、仲良くされたら困るな」
「どうして?」
「俺が嫉妬する」

真面目にそんなことを言うもんだから思わず吹き出した。

「エルヴィンの意外な一面が見られたから、もう充分かな」

面白いものが見れたと、私は満足気になって杖を拾う。
歩み出そうとするとエルヴィンが立ちはだかり道を塞いだ。

「通して」
「駄目だ」

冷たくて寂しそうな目が私を見下ろす。

「また君は俺に内緒で消えてしまうつもりなのか」
「はは、何言ってるの。言ったでしょ、ただの散歩だよ」
「じゃあ、俺の懐を見てみろ」
「懐?」

脈絡もなく言う言葉に疑問を感じながら、エルヴィンの兵服の衿を捲った。
内隠しに差し込んで半分見えたそれは私が綴った手紙で、私室の引き出しにしまっておいたものだ。
それを見て、思ったより早くに見つかってしまったと、もっと時間が稼げる難しい場所に隠しておくんだったと悔いた。
私は手紙をすっと抜き出し、よろめきながら後退してまた壁に背中を預けた。

「だって、私は調査兵団失格だよ。こんな足になっちゃったし」
「…悔しいか」
「違うの。…ホッとしてる。もう壁の外に出て死に向かわなくて済むことに心の底から安堵してるの。最低でしょ。でも、背徳感だってあるの。そう思ってしまう自分自身が憎いの」

戦えもしないのにエルヴィン達と同じ兵服を着てそこに駐在し続ける自身の存在が虚しくて仕方がなかったのだ。
九死に一生を得たことでリヴァイに感謝の言葉は贈ったがあれは本心ではない。
いっそのこと食われてしまいたかったが、それを言葉にして伝える根性も勇気もなかった。

「こんな体で生き残るくらいなら私は…」
「その先は聞きたくない」

エルヴィンは強めの口調で遮った。
左手から傘が離れ、地面を転がる。
金色の髪に雨粒が降り注ぐ。
エルヴィンは私の手から手紙を奪い取ると真ん中辺りを口に咥え、ビリビリと二つに破った。
拳の中でくしゃくしゃに丸められ、そして捨てられた。
雨に濡れてドロドロに溶けていく様子を私は無言で見つめていた。

これで何回目になるだろう。
監視しているんじゃないかと疑うくらいエルヴィンは毎回私を見つけるし、その度に隠した手紙を破り捨ててくる。
もう溜め息しか出てこなかった。

「逃げたいのにさあ…全然逃がしてくれないよね」
「ああ。逃がすつもりはない」

エルヴィンの手が私の肩をがっと掴む。
言葉の通り、逃がさないと手が訴えかけてきていた。

「君には最後まで足掻いてもらう。もちろん俺もそのつもりだ」
「片足で足掻けなんて、難しい注文ね」

私はふっと笑いを零した。
エルヴィンは緩く微笑みながら囁いた。

「これからも俺と共に歩んでくれ。地獄への片道切符しか渡せないが、俺が贈れる最大限の報酬がそれだ」
「そんな誘い文句でその券を受け取る人がいると思ってるの?」

私以外に。
しかし、いい加減逃げることにも疲れてきたところだ。
最後に花を散らすなら、壁の外が一番だろうか。
私の居場所がここだと言うなら、私に残されたのはエルヴィンの願いを叶えるという我儘くらいだ。

「…ここにいても、良いのね」
「俺の隣にいてくれ。俺には君が必要だ」
「本当に世話が焼ける大人ね。仕方ない、今度こそあなたの幸せの為にいてあげるわ」

これは諦めとも言うのだろうが、それでも構わない。
足は失っても生きる意味までは奪われずに済んだことを幸運と思うことにした。
エルヴィンの力強い腕に引き寄せられ、ぎゅっと抱きとめられる。

「もうどこにも行くな」
「はいはい」

雨で落とされた体温は低いが、夏場には丁度良い心地だった。
いつかこの肌の温度すら感じなくなる日がくるのだと思うと離れ難かった。
小さな雨音とエルヴィンの胸の鼓動を耳で感じながら、暫くその場で温もりを分かち合っていた。


***


あなたはいつかすべてを思い出すだろうか。
私といた世界を。
私と話した会話を。
あの時の告白のような言葉を。
けど、思い出したところで…。

跪いて私を抱きしめるエルヴィンの頭を見下げる。
シャワーを浴びたように髪は艶やかに濡れ、シャツの色も元々この色だったと錯覚するくらいに変化し肌にぴっちりと貼りついていた。
どれくらいの時間私を探し回ったのだろう。
逃げたつもりはなく今回は本当にただの散歩だったのだが、エルヴィンにそれが分かる筈もなかった。

「あの時も、こんな優しい雨が降る日だったんだ」

顔を伏せたままエルヴィンが呟いた。
懐かしむように、嘆くように、雨に混じって私の耳に届く。

「彼女も雨の日にいなくなろうとした。遺書を残して。…雨は嫌いだ」

涙こそ流してはいないだろうが、くぐもっていて涙声にも聞こえた。
そんなエルヴィンの頭頂部を見つめていると複雑な心境で心がえぐられ、そこに溜まった水が渦を巻いた。

この世界でも、以前は当たり前だったことを奪われている。
神はいつも幸せばかりを運んでくれるわけではないのだと、万能ではないと思い知った。
同じ時を過ごせる喜びはあるが、お喋りもできたら良いのに。
そんな贅沢は、神は与えてくれなかった。
一体なんの罰か私はまた足が不自由な身として生まれたが、エルヴィンの腕はしっかり両腕が生えていることに関してだけは感謝しても良い。

「頼むから…もうどこにも行くな」

それは誰に言った言葉か。
私か、それとも別の私か。
彼がどこまで思い出しているかは定かでない。
だが、今ここにいるエルヴィンが私の為に呟いた言葉なら、私はそれに応えたい。
私は大きく口を開けて、

「ニャア!」

と鳴いた。
すっと顔を上げたエルヴィンは穏やかな微笑みを向け、私の頭を撫で下ろした。

「お腹空いたな。帰ろう」

エルヴィンは両腕で私を抱き上げ、胸の中に抱いた。
その時エルヴィンの背後から黒い影が近づいた。

「ったく。傘も差さずに…そんなことだろうと思ったぜ」

舌打ちしながらやって来たのはリヴァイだった。
漆黒の傘を差し、反対の手には別の傘が握られている。
リヴァイはエルヴィンの前まで来ると、「汚ぇな」と汚物を見る目で私を睨んだ。
私と同じく濡れ鼠となったエルヴィンを見上げながら傘を突き出す。

「本当にお前は鍵を掛け忘れたり窓を開けっ放しにしたりと粗が目立つな。だから前から言ってただろうが。もしもの為に首輪でも付けておけと」
「そうだな。考えておくよ」
「大体飼い猫がいなくなったからってなんで俺に電話を寄越すんだ。普通保健所か警察だろ」
「焦っていたんだ。リヴァイならなんとかしてくれると思って」
「で、結局てめぇで見つけてんじゃねぇか」

リヴァイは無駄骨だったと愚痴を零した。
エルヴィンは苦笑いで返し、傘は受け取らなかった。

「ありがとうリヴァイ。折角来てくれたのに申し訳ないが、このままにしてくれ」
「はあ?」
「なんだか今日は雨に濡れたい気分なんだ。彼女と一緒に」
「雨が嫌いなくせに。変な奴だな」
「見つけられたのが嬉しくてね」

きゅっ、と私を抱くエルヴィンの腕に力が込められる。
そんなことしなくても私はもう逃げたりはしないのに。
エルヴィンは優しさを映す青い瞳で私を見下ろしていた。
私もじっとその瞳を見つめた。
昔と変わらない、真夏を思わせる紺碧の空のような美しい瞳だった。

あなたと同じ人間に生まれ変わっていたら良いのに。
そう悔やんだのは最初だけだ。
あなたのその幸せそうな瞳を見つめているだけで、私は満たされる。

「そうだ、今度君に紹介したい人がいるんだが…君は女の子だから、嫉妬してしまうかもしれないな」

帰路に着きながらエルヴィンは照れ臭そうにして私に話しかけていた。
冷たい体温が徐々に熱を帯びては私にそれが伝わっていく。

雨はどこまで流れていくのだろう。
私のこの不明瞭な感情も、雨は容易く地面へと流し、染み込んでいく。
私が人間だったら、今この時涙を流していただろうか。
私は自身を取り巻く感情の意味を考えては捨て、エルヴィンの胸の鼓動に耳を傾けていた。





...FIN


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