参 夢物語
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甘ちゃんの機嫌はすぐに直った。
怒りと恐怖が混ざり合ったあの顔はどこへ吹き飛んだのやら、恋の話で会話は弾む。
ふと見た時計の時刻が零時近くを指し示しているのを見て、甘ちゃんは驚いた声を上げた。
「わっ。もうこんな時間?」
「話し込んじゃったね。終電ある?」
「うん、それは大丈夫。長く居座っちゃってごめんね」
「いいよ。また来て」
そろそろお開きの頃合いだと、二人揃って立ち上がる。
甘ちゃんが机に無造作に置かれた空のアルミ缶や皿を片付けようとしたので、それはやっておくので大丈夫と制止した。
「駅まで送るね」
「ありがとう」
真っ暗闇の空の下、ぽつぽつと灯る街灯を目印に駅へと向かう。
影を踏みながら歩いていると、隣から深い溜め息が聞こえてきた。
「はーあ。今度こそ合コン成功させたいなあ」
甘ちゃんはまだ先日の失敗を引きずっていた。
その前も、その前の前も、デートまでこじつけても長続きはしていない。
「今までよさそうな人いなかったの?」
「いたけど、結婚まで考えてる人はあまりいなかったのよね。付き合ってみないことには結婚までいくかわからないけど、意識もしてない人は、ちょっとね」
結婚願望が強いせいで相手にプレッシャーがかかっているのではないかと思うこともある。
合コン以外の出会いを探した方が早いとアドバイスしたこともあるが、出会いなんてないと断言されてしまっている。
そんなことないと思うのに、と私には甘ちゃんに彼氏ができないことが不思議でならなかった。
「甘ちゃんモテるのにね」
「えっ?モテないよ?」
本人に自覚がないだけで、甘ちゃんを好印象に捉えている人物は多い。
皆に優しいし、感性豊か。容姿だっていい。
しかし、彼女の人のよさに漬け込んでたぶらかす人もいることは事実だ。
私が目を光らせて危険な芽は摘んでいるが、今のところ甘ちゃんはそれに気づいてもいなかった。
「まあ、甘ちゃんには勿体ない男ばっかりだから。焦らずゆっくり厳選しなよ」
いつか彼女に、最愛と言い合える素敵な人が見つかるといいと願った。
私にも、きっと、いつか、なんてことを思いながら。
駅前に辿り着き、甘ちゃんはタタッと小走りに前に出て、くるりと振り向いた。
酒で赤くなった頬を持ち上げて、ニコッと微笑む。
「ありがとう、送ってくれて。帰り気をつけてね」
「またね。来週も頑張ろう」
「うん、頑張ろうねー」
上機嫌に手を振りながら改札の奥へと消えていく甘ちゃんを見送った。
さて帰るか、とくるりと踵を返すと少しだけ離れたところに杏寿郎さんが佇んでいた。
外までついて来ていることは気配でわかっていたが、杏寿郎さんが暗い表情をしていることを初めて知る。
「由乃。大丈夫か?」
「え?何がですか?」
突拍子もなく気兼ねする言葉を投げかけられ、反応に困った。
とぼけた返事をしてしまい、そのついでにやり過ごそうとしたが杏寿郎さんは無言で見つめてくる。
下手に嘘を突き通すのは無理だな、と私は早々に諦めた。
「あー…さっきの、アレですか」
幽霊を怖がる甘ちゃんの、あの険しい顔。
空気が変わり、張り詰めたあの空間。
正直、あ、しまったな、なんて冷静に思いながらも焦りを隠すのに精一杯だった。
「私は大丈夫ですよ」
「そうは見えないな」
「はは…杏寿郎さんには敵いませんね」
笑顔を見せるが、それが取り繕いの仮初であるとすぐに見破られる。
杏寿郎さんに嘘は通用しないと気づき、私は愛想笑いを浮かべた。
足はとぼとぼと力なく進み、杏寿郎さんも私の歩幅に合わせて隣を歩いた。
「杏寿郎さんこそ大丈夫ですか?」
「傷ついていると思っているのか?それなら心配には及ばない。俺は何も気にしちゃいない」
「そうですか…でも、ごめんなさい」
「由乃が謝ることはない」
誰が悪いでもない。ただ、受け入れるか受け入れられないかの違い。
責めはしないし、深く言及もしない。
ただいたたまれなくて、ばつが悪くて、無意識に謝罪の言葉を述べていた。
「私、甘ちゃんとはなんでも話せる仲なんです。でも唯一、私が霊感持ちで幽霊が見えたりすることだけは話せてないんです」
大人になるにつれ、友人と呼べる人たちとの距離は離れていくばかりだ。
休みの日に一緒に遊んだり、互いの家に訪問することも極端に減った。
ただでさえ友人が少ない中、気兼ねもせず親しく接してくれる甘ちゃんは唯一無二のような存在だった。
「杏寿郎さんのことを甘ちゃんにも知ってもらいたいと思ってはいるんですけど…あの子には、無理かもしれません」
幽霊のゆの字すら嫌悪してしまうくらいに存在を否定する彼女に、杏寿郎さんを認知してもらうのはあまりにも酷である。
例え杏寿郎さんから橋渡しを頼まれたとしても無理強いをするつもりだって毛頭ない。
それは甘ちゃんを思ってのことであると同時、自分の為でもあった。
「私、ずっと友達がいなかったんです。霊が見えることで皆から変な子って言われてて。ずっと隠してきてました」
霊が見えるなんて話したら大抵の人は信じず、馬鹿にしてくる者ばかりだった。
トラウマに怯え、もう二度と幽霊の話なんかするものかと意思を固めたはいいものの、中には杏寿郎さんのように死者か生者か見分けがつかないこともあった。
てっきり生きた人かと思って話しかけたら煙のように消えてしまったり、こちらの声が届かず佇むだけの霊もいた。
それを見ていた周りの者たちからは何もない空間に一人で話しかける変人という認識を持たれてしまい、よそよそしい態度で振る舞われるようになった。
いつしか話しかける行為自体怖くなり、私はいつも独りぼっちであった。
この体質をひた隠しにして、ようやく親しい職場仲間を得られた今、それを断ち切ってしまうような行動を取りたくはない。
とにかく、怖いのだ。
どうして私だけ。
どうしてこんな体で。
どうして誰もわかってくれない。
どうにもならないことを、頭ではわかっていながらもいつもいつも問い詰めてしまうのだ。
「どうして、こんな体質で生まれてきてしまったんでしょうね」
「……」
杏寿郎さんは黙然と私の話を聞いていた。
下手な励ましを求めているわけではなかったので、ただ聞いていてくれるだけで充分だった。
これは所謂、愚痴だ。
仕方のないことを、解決しようもないことを吐き出すだけの、ただの愚痴。
少しは気が晴れると思っていたが、もやもやとする心が落ち着く気配はない。
杏寿郎さんを困らせるだけの問いかけを投げかけてしまったことに、自己嫌悪に陥った。
自然と首が項垂れていき、視界は足元しか見えてこない。
「由乃……由乃!!」
「……え?」
ぼんやりとしていたせいで、何度名前を呼ばれたのかはよくわからない。
はっとして振り返ると数メートル後ろで杏寿郎さんが立ち止まり、緊迫した表情でこちらを見ていた。
閉じていた聴覚が息を吹き返したように舞い戻り、鼓膜が震えるくらいの音量で耳に入ってくる。
カンカンカンカン、と激しく鳴り響くそれは踏切の警報機だった。
置かれている状況が理解できなくて周りを見渡すと、目の前で遮断棹がゆっくりと降りてくるところだった。
降りきった後でもゆらゆら揺れる遮断棹の先端を視界に入れながら、その奥で立ち尽くす杏寿郎さんを見つめ返す。
なんで、あの棒の向こう側に杏寿郎さんが?
そう疑問を浮かべた直後、真横から伸びる光線に体が照らされた。
暗闇だった視界が目が開けられないくらいの眩い光に包まれ手で目を覆う。
プァーーーー!っと警笛が鳴らされ、一直線に走ってくる電車は確実に私を捉えていた。
逃げなければ、と思考は働くも体はそれに順応せず、足は地面と一体化したかのように固まって動かなかった。
「危ない!!」
「っ!?」
目の前まで電車が迫り、死を覚悟した。
走馬灯が駆け巡った後で体は呪縛から解かれ、重心が後ろに傾いていく。
一息の間が訪れ、その後の衝撃は、お尻だけ。
高速で電車が駆けていき、風が頬を掠める。
あれ?と思った時には電車は闇の中に消え去っていた。
夢でも見ていたのかと思ったが、心臓は鋭い痛みを与えるほどに鼓動を速めている。
警報音が止むと同時に遮断棹が上がっていく様子を眺めていて、今まさに轢かれる寸前であったと自覚した。
「はぁっ…はぁっ…!……あれ…私、なんで…」
なんで、生きているんだろう。
電車が接近していることを理解した時、体は硬直して微塵も動けず、死を受け入れるしかないと覚悟していた。
だが電車の車体で視界が埋め尽くされた時、手を引かれるような感覚がした。
気づけば線路から一歩離れた地面に尻餅をついていて、電車は過ぎ去った後。
静寂が訪れた夜の空気を吸い込み、後ろを振り向く。
そこには私と同じようにペタリと地面に座り込み、呆然とした表情の杏寿郎さんがいた。
「今の…杏寿郎さん…?」
「触れた…?」
杏寿郎さんは自身の腕を持ち上げ、疑いの目で手の平をじっと見つめた。
「杏寿郎さん」
私は名前を呼び、手を差し伸べた。
もしかして、という期待を込めたその手を、杏寿郎さんは握った。
いや、握ろうとした。
重なり合いそうだった手の平は何も掴めないまますり抜け、空気だけを撫でた。
互いの吐いた息が落胆を含めているのがわかった。
「気のせい、だったか」
「でも、確かに誰かに引っ張られた感覚がしたんです。後ろに引かれて、それで私…」
それで私は、助かったのだ。
温度はわからなかったが、あの時の感覚が杏寿郎さんのものでなければ一体なんだというのか説明がつかない。
「ありがとうございました」
「由乃が一人でに助かっただけかもしれないがな」
「私はそうは思いません。杏寿郎さんがいて本当によかった」
九死に一生を得るとはこのことだ。
この場に誰もいなかったとしたら死んでいたに違いない。
そう信じて疑わないでいると、杏寿郎さんの金色の瞳は真剣な眼差しへと変化した。
「…きっと、出会えるようにしてくれたんだ」
唐突なその言葉は、夢を与えるような希望に満ちていた。
「俺が霊体となってこの時代に存在しているのも、由乃の特異体質も、きっと意味があってのことだ」
杏寿郎さんはそう続けて、この出会いの意義を説いた。
恨めしいくらいの、存在すら否定したくなるような特異体質を肯定へと導こうとする。
心から認められるようになったとしたら、私はそこで初めて自身の存在を好きになれるような気がした。
「そう、思いたいですね」
希望を抱きつつ、また失意の底に落とされた時の痛みを懸念して控えめに返した。
地面とお友達になるのはこれくらいにして、腕に力を入れて立ち上がる。
時間からするに今日のところは電車はもう通らないだろうが、いつまでもこの場にいたくはない。
踏切から離れ、自宅であるアパートが見えたところである提案を思いついた。
「杏寿郎さん。黄泉平坂って知っていますか?」
これまた唐突である話題をこちらから振ると、杏寿郎さんは一瞬考え込む顔をしてから答えた。
「古事記にある神話の話か?」
「はい。伊邪那岐 と伊邪那美 が日本を作ったと云われている日本神話です」
「そう詳しくはないな。知っているのは名前くらいだ」
神話に興味があるわけではないが、旅行雑誌を眺めていた過去の記憶がふと掘り起こされたのだ。
それもまた、意味があることだと信じて。
「それがどうかしたか?」
「伝承にある黄泉平坂…黄泉の国への入り口がある場所に行ってみませんか?」
紹介文は、こうだ。
『生者の国と死者の国を分かつ境界場所。結界を通り抜けた時、あなたは黄泉の世界を感じることができる。…かも?』
おまじないや占い、伝承好きな甘ちゃんといつか旅行で行こうと考えていた場所だ。
だが黄泉の世界となると怖がりの彼女を不快にさせてしまうと読み、旅行話は話題に上げる前に流していた。
「杏寿郎さんが向こうの世界に行ける手がかりか、もしくは本当にその入り口が見つかるかもしれません」
藁をも掴むような話だが、何か行動を起こさなければ始まるものも始まらない。
願いを叶えると名乗りを上げたからには可能性を一つずつ試すべきだと、柄にもないが前向きだった。
「……うむ。そうだな」
杏寿郎さんはほんの少し侘しそうな表情をし、そして意思を固めたように力強く頷いた。
この伝承に偽りがなく本当に入り口があるのだとしたら、それは杏寿郎さんとのお別れを意味する。
直面した時のことを考えた時、私は先刻の杏寿郎さんと同じ表情をしていた。
自分の顔は見えずとも、表情筋の動きと胸を刺すような痛みでそれくらいは容易くわかる。
私は悟られないようにと、わざと顔を背けることしかできなかった。
参 夢物語 了
怒りと恐怖が混ざり合ったあの顔はどこへ吹き飛んだのやら、恋の話で会話は弾む。
ふと見た時計の時刻が零時近くを指し示しているのを見て、甘ちゃんは驚いた声を上げた。
「わっ。もうこんな時間?」
「話し込んじゃったね。終電ある?」
「うん、それは大丈夫。長く居座っちゃってごめんね」
「いいよ。また来て」
そろそろお開きの頃合いだと、二人揃って立ち上がる。
甘ちゃんが机に無造作に置かれた空のアルミ缶や皿を片付けようとしたので、それはやっておくので大丈夫と制止した。
「駅まで送るね」
「ありがとう」
真っ暗闇の空の下、ぽつぽつと灯る街灯を目印に駅へと向かう。
影を踏みながら歩いていると、隣から深い溜め息が聞こえてきた。
「はーあ。今度こそ合コン成功させたいなあ」
甘ちゃんはまだ先日の失敗を引きずっていた。
その前も、その前の前も、デートまでこじつけても長続きはしていない。
「今までよさそうな人いなかったの?」
「いたけど、結婚まで考えてる人はあまりいなかったのよね。付き合ってみないことには結婚までいくかわからないけど、意識もしてない人は、ちょっとね」
結婚願望が強いせいで相手にプレッシャーがかかっているのではないかと思うこともある。
合コン以外の出会いを探した方が早いとアドバイスしたこともあるが、出会いなんてないと断言されてしまっている。
そんなことないと思うのに、と私には甘ちゃんに彼氏ができないことが不思議でならなかった。
「甘ちゃんモテるのにね」
「えっ?モテないよ?」
本人に自覚がないだけで、甘ちゃんを好印象に捉えている人物は多い。
皆に優しいし、感性豊か。容姿だっていい。
しかし、彼女の人のよさに漬け込んでたぶらかす人もいることは事実だ。
私が目を光らせて危険な芽は摘んでいるが、今のところ甘ちゃんはそれに気づいてもいなかった。
「まあ、甘ちゃんには勿体ない男ばっかりだから。焦らずゆっくり厳選しなよ」
いつか彼女に、最愛と言い合える素敵な人が見つかるといいと願った。
私にも、きっと、いつか、なんてことを思いながら。
駅前に辿り着き、甘ちゃんはタタッと小走りに前に出て、くるりと振り向いた。
酒で赤くなった頬を持ち上げて、ニコッと微笑む。
「ありがとう、送ってくれて。帰り気をつけてね」
「またね。来週も頑張ろう」
「うん、頑張ろうねー」
上機嫌に手を振りながら改札の奥へと消えていく甘ちゃんを見送った。
さて帰るか、とくるりと踵を返すと少しだけ離れたところに杏寿郎さんが佇んでいた。
外までついて来ていることは気配でわかっていたが、杏寿郎さんが暗い表情をしていることを初めて知る。
「由乃。大丈夫か?」
「え?何がですか?」
突拍子もなく気兼ねする言葉を投げかけられ、反応に困った。
とぼけた返事をしてしまい、そのついでにやり過ごそうとしたが杏寿郎さんは無言で見つめてくる。
下手に嘘を突き通すのは無理だな、と私は早々に諦めた。
「あー…さっきの、アレですか」
幽霊を怖がる甘ちゃんの、あの険しい顔。
空気が変わり、張り詰めたあの空間。
正直、あ、しまったな、なんて冷静に思いながらも焦りを隠すのに精一杯だった。
「私は大丈夫ですよ」
「そうは見えないな」
「はは…杏寿郎さんには敵いませんね」
笑顔を見せるが、それが取り繕いの仮初であるとすぐに見破られる。
杏寿郎さんに嘘は通用しないと気づき、私は愛想笑いを浮かべた。
足はとぼとぼと力なく進み、杏寿郎さんも私の歩幅に合わせて隣を歩いた。
「杏寿郎さんこそ大丈夫ですか?」
「傷ついていると思っているのか?それなら心配には及ばない。俺は何も気にしちゃいない」
「そうですか…でも、ごめんなさい」
「由乃が謝ることはない」
誰が悪いでもない。ただ、受け入れるか受け入れられないかの違い。
責めはしないし、深く言及もしない。
ただいたたまれなくて、ばつが悪くて、無意識に謝罪の言葉を述べていた。
「私、甘ちゃんとはなんでも話せる仲なんです。でも唯一、私が霊感持ちで幽霊が見えたりすることだけは話せてないんです」
大人になるにつれ、友人と呼べる人たちとの距離は離れていくばかりだ。
休みの日に一緒に遊んだり、互いの家に訪問することも極端に減った。
ただでさえ友人が少ない中、気兼ねもせず親しく接してくれる甘ちゃんは唯一無二のような存在だった。
「杏寿郎さんのことを甘ちゃんにも知ってもらいたいと思ってはいるんですけど…あの子には、無理かもしれません」
幽霊のゆの字すら嫌悪してしまうくらいに存在を否定する彼女に、杏寿郎さんを認知してもらうのはあまりにも酷である。
例え杏寿郎さんから橋渡しを頼まれたとしても無理強いをするつもりだって毛頭ない。
それは甘ちゃんを思ってのことであると同時、自分の為でもあった。
「私、ずっと友達がいなかったんです。霊が見えることで皆から変な子って言われてて。ずっと隠してきてました」
霊が見えるなんて話したら大抵の人は信じず、馬鹿にしてくる者ばかりだった。
トラウマに怯え、もう二度と幽霊の話なんかするものかと意思を固めたはいいものの、中には杏寿郎さんのように死者か生者か見分けがつかないこともあった。
てっきり生きた人かと思って話しかけたら煙のように消えてしまったり、こちらの声が届かず佇むだけの霊もいた。
それを見ていた周りの者たちからは何もない空間に一人で話しかける変人という認識を持たれてしまい、よそよそしい態度で振る舞われるようになった。
いつしか話しかける行為自体怖くなり、私はいつも独りぼっちであった。
この体質をひた隠しにして、ようやく親しい職場仲間を得られた今、それを断ち切ってしまうような行動を取りたくはない。
とにかく、怖いのだ。
どうして私だけ。
どうしてこんな体で。
どうして誰もわかってくれない。
どうにもならないことを、頭ではわかっていながらもいつもいつも問い詰めてしまうのだ。
「どうして、こんな体質で生まれてきてしまったんでしょうね」
「……」
杏寿郎さんは黙然と私の話を聞いていた。
下手な励ましを求めているわけではなかったので、ただ聞いていてくれるだけで充分だった。
これは所謂、愚痴だ。
仕方のないことを、解決しようもないことを吐き出すだけの、ただの愚痴。
少しは気が晴れると思っていたが、もやもやとする心が落ち着く気配はない。
杏寿郎さんを困らせるだけの問いかけを投げかけてしまったことに、自己嫌悪に陥った。
自然と首が項垂れていき、視界は足元しか見えてこない。
「由乃……由乃!!」
「……え?」
ぼんやりとしていたせいで、何度名前を呼ばれたのかはよくわからない。
はっとして振り返ると数メートル後ろで杏寿郎さんが立ち止まり、緊迫した表情でこちらを見ていた。
閉じていた聴覚が息を吹き返したように舞い戻り、鼓膜が震えるくらいの音量で耳に入ってくる。
カンカンカンカン、と激しく鳴り響くそれは踏切の警報機だった。
置かれている状況が理解できなくて周りを見渡すと、目の前で遮断棹がゆっくりと降りてくるところだった。
降りきった後でもゆらゆら揺れる遮断棹の先端を視界に入れながら、その奥で立ち尽くす杏寿郎さんを見つめ返す。
なんで、あの棒の向こう側に杏寿郎さんが?
そう疑問を浮かべた直後、真横から伸びる光線に体が照らされた。
暗闇だった視界が目が開けられないくらいの眩い光に包まれ手で目を覆う。
プァーーーー!っと警笛が鳴らされ、一直線に走ってくる電車は確実に私を捉えていた。
逃げなければ、と思考は働くも体はそれに順応せず、足は地面と一体化したかのように固まって動かなかった。
「危ない!!」
「っ!?」
目の前まで電車が迫り、死を覚悟した。
走馬灯が駆け巡った後で体は呪縛から解かれ、重心が後ろに傾いていく。
一息の間が訪れ、その後の衝撃は、お尻だけ。
高速で電車が駆けていき、風が頬を掠める。
あれ?と思った時には電車は闇の中に消え去っていた。
夢でも見ていたのかと思ったが、心臓は鋭い痛みを与えるほどに鼓動を速めている。
警報音が止むと同時に遮断棹が上がっていく様子を眺めていて、今まさに轢かれる寸前であったと自覚した。
「はぁっ…はぁっ…!……あれ…私、なんで…」
なんで、生きているんだろう。
電車が接近していることを理解した時、体は硬直して微塵も動けず、死を受け入れるしかないと覚悟していた。
だが電車の車体で視界が埋め尽くされた時、手を引かれるような感覚がした。
気づけば線路から一歩離れた地面に尻餅をついていて、電車は過ぎ去った後。
静寂が訪れた夜の空気を吸い込み、後ろを振り向く。
そこには私と同じようにペタリと地面に座り込み、呆然とした表情の杏寿郎さんがいた。
「今の…杏寿郎さん…?」
「触れた…?」
杏寿郎さんは自身の腕を持ち上げ、疑いの目で手の平をじっと見つめた。
「杏寿郎さん」
私は名前を呼び、手を差し伸べた。
もしかして、という期待を込めたその手を、杏寿郎さんは握った。
いや、握ろうとした。
重なり合いそうだった手の平は何も掴めないまますり抜け、空気だけを撫でた。
互いの吐いた息が落胆を含めているのがわかった。
「気のせい、だったか」
「でも、確かに誰かに引っ張られた感覚がしたんです。後ろに引かれて、それで私…」
それで私は、助かったのだ。
温度はわからなかったが、あの時の感覚が杏寿郎さんのものでなければ一体なんだというのか説明がつかない。
「ありがとうございました」
「由乃が一人でに助かっただけかもしれないがな」
「私はそうは思いません。杏寿郎さんがいて本当によかった」
九死に一生を得るとはこのことだ。
この場に誰もいなかったとしたら死んでいたに違いない。
そう信じて疑わないでいると、杏寿郎さんの金色の瞳は真剣な眼差しへと変化した。
「…きっと、出会えるようにしてくれたんだ」
唐突なその言葉は、夢を与えるような希望に満ちていた。
「俺が霊体となってこの時代に存在しているのも、由乃の特異体質も、きっと意味があってのことだ」
杏寿郎さんはそう続けて、この出会いの意義を説いた。
恨めしいくらいの、存在すら否定したくなるような特異体質を肯定へと導こうとする。
心から認められるようになったとしたら、私はそこで初めて自身の存在を好きになれるような気がした。
「そう、思いたいですね」
希望を抱きつつ、また失意の底に落とされた時の痛みを懸念して控えめに返した。
地面とお友達になるのはこれくらいにして、腕に力を入れて立ち上がる。
時間からするに今日のところは電車はもう通らないだろうが、いつまでもこの場にいたくはない。
踏切から離れ、自宅であるアパートが見えたところである提案を思いついた。
「杏寿郎さん。黄泉平坂って知っていますか?」
これまた唐突である話題をこちらから振ると、杏寿郎さんは一瞬考え込む顔をしてから答えた。
「古事記にある神話の話か?」
「はい。
「そう詳しくはないな。知っているのは名前くらいだ」
神話に興味があるわけではないが、旅行雑誌を眺めていた過去の記憶がふと掘り起こされたのだ。
それもまた、意味があることだと信じて。
「それがどうかしたか?」
「伝承にある黄泉平坂…黄泉の国への入り口がある場所に行ってみませんか?」
紹介文は、こうだ。
『生者の国と死者の国を分かつ境界場所。結界を通り抜けた時、あなたは黄泉の世界を感じることができる。…かも?』
おまじないや占い、伝承好きな甘ちゃんといつか旅行で行こうと考えていた場所だ。
だが黄泉の世界となると怖がりの彼女を不快にさせてしまうと読み、旅行話は話題に上げる前に流していた。
「杏寿郎さんが向こうの世界に行ける手がかりか、もしくは本当にその入り口が見つかるかもしれません」
藁をも掴むような話だが、何か行動を起こさなければ始まるものも始まらない。
願いを叶えると名乗りを上げたからには可能性を一つずつ試すべきだと、柄にもないが前向きだった。
「……うむ。そうだな」
杏寿郎さんはほんの少し侘しそうな表情をし、そして意思を固めたように力強く頷いた。
この伝承に偽りがなく本当に入り口があるのだとしたら、それは杏寿郎さんとのお別れを意味する。
直面した時のことを考えた時、私は先刻の杏寿郎さんと同じ表情をしていた。
自分の顔は見えずとも、表情筋の動きと胸を刺すような痛みでそれくらいは容易くわかる。
私は悟られないようにと、わざと顔を背けることしかできなかった。
参 夢物語 了
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