弐 孤独を埋めて
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「そういえば、ずっと気になっていたんだが」
料理ばかりに注目していた煉獄さんの目が横にスライドし、机に置かれたスマホへと移り変わる。
「その四角い物を誰もが持っているな。先刻もそれを操作していたが、どういう機械なんだ?」
「スマホのことですか?確かに、持っていない人の方が少ないですね」
大正時代は固定電話すら珍しく、携帯電話なんてありもしなかったはずだ。
会社でも電子機器に関心を示していたところを見るに、誰もが持ち歩くスマホも興味の対象なのだろう。
私はスマホを持ち上げてホームボタンを押し、軽く操作をして見せた。
「機能は色々です。離れた相手と通話したり、手紙を送ったり、写真を撮ったり、わからないことを調べたり、本を読んだり」
「万能なのだな。素晴らしい技術だ」
私はそう使いこなせてはいないが、機能は無限大にある。
スワイプして色んなアプリのアイコンを映していると、強制的に着信画面へと切り替わった。
着信音を鳴らし、画面中央にはお母さんと記されていた。
「音が鳴ったぞ!」
「あ、丁度電話がきたんです。ちょっと失礼しますね」
通話アイコンをスワイプして耳に当てる。
「もしもし」
「由乃!あんた最近全然連絡もしないで何やってたの!」
開幕母の怒号が飛び、その声量に鼓膜が破れそうで咄嗟に耳から遠ざける。
キーンという耳鳴りが止むのを待ちながら受信音をそっと下げた。
「怒んないでよ。何も変わったこともないから、至って普通だよ」
「だったらそう連絡しなさいよ、一言でいいんだから」
「わかったって」
「いーや、わかってない!このやり取りするの十回目!」
「はいはい。で、用は何?」
社会人になったと同時に実家を出て一人暮らしを始め、以降母からの連絡は頻繁にやってくる。
他愛もない世間話をしたり、仕事の愚痴を零したり、時々喧嘩したり。
仲がいいような悪いような、そんなよくある家族の形である。
社会人になりたての頃は憧れの一人暮らしにうきうきしていたが、すぐにホームシックになって毎日の電話は欠かせなかったものだ。
今となってはそんな経験も過去のものとなり、一人の快適さに味を占めて母への電話本数も極端に減った。
最後に電話をしたのは一ヵ月ほど前になるが、怠ったという感覚はない。
母の尖った声にうんざりしながら、早く用件を聞き出そうと促した。
「もうすぐおじいちゃんの十七回忌だから、それを伝えておこうと思って」
母からそう伝えられ、胸がトクンと痛いくらいに跳ねた。
あれ、と不思議に感じた時には痛みは消失し、跡形もない。
曾祖父の話がここで出るなんてタイムリーな電話だな、と横目で見える煉獄さんのことを考えた。
「由乃?」
「あ、うん。わかったよ。当日おじいちゃんの家に行けばいいよね」
「近々ハガキで案内を出しておくからね」
「はーい」
通話を終了させスマホを置く。
煉獄さんは、ほお、と深い感嘆の声を漏らし頷いていた。
「これが電話です。離れた人といつでも繋がって、今の電話の相手は私の母です」
「声が聞けるというのはいい機能だな」
「定期的に連絡しないと今みたいに怒るんですよ」
「娘を心配してくれるいい母君じゃないか」
「それでもこれが続くとちょっと鬱陶しくなりますよ」
昔は私の方がしつこいくらいに電話をしていたのが、今では逆転している。
母も同じようなことを思っていたのかもしれないと考えると、そう悪くは言えなかった。
「ご両親を大切にするんだ。いつまでもいるわけでもないのだからな」
「確かに、そうでしょうね」
「俺の母上は俺が幼い頃に病死してしまってな。生前のうちに感謝を上手く伝えることもできず仕舞いだった」
「そうですね…なかなか会えないので、感謝の意を込めて何か送ろうと思います」
いつまでもいるわけではない。
当たり前なのに忘れかける摂理を唱えられ、胸に刻まれた。
母の生みの親であり私の祖母は若くして亡くなっており、私は顔も知らない。
いつも傍にいてくれる人が永遠を約束してくれるわけではないと、改めて教えられた。
「煉獄さんは、お兄ちゃんみたいですね」
「そうか?」
「一緒にいると安心するし、包容力もあるし…ほわほわします」
「長男だからな。それでかもしれん」
「ああ、やっぱり。そんな感じがしました」
長男であることを知り、納得もした。
頼りがいがあり、面倒見もよさそうで、母の寵愛に理解も深い。
答えを言われる前から多くの人が長男と見破りそうだ。
「何人兄弟ですか?」
「弟が一人いる」
「男兄弟いいですね。私の家は女ばっかりで。親戚も姉妹ばかりだから、女が強い家系ですね」
幼い頃は親戚同士よく集まって遊んだものだが、大人になってからはその機会はめっきりと減り、今では顔を合わせるのは正月と法事の時くらいだ。
女の割合が大きく、主導権のほとんどを女が持つ。
親戚が集まると男連中は肩身が狭そうに小さくなっているのを思い出した。
「どんな弟さんでしたか?」
「そうだな…俺と歳は離れていたんだが、しっかり者だった。物心つく前から母上を亡くしたからか甘え下手だったな。あと、料理が上手だ。俺は家事はてんで駄目だったが、弟の作る料理はいつも美味かった」
弟の話を振られ、煉獄さんは目を閉じながら語った。
浮かんでくる思い出話を次々と言葉にして紡ぎ、いつも以上に饒舌だった。
語りかけるその姿はとても嬉々としていて、私はうんうんと相槌しながら耳を傾けていた。
「俺は鬼殺隊として、家を空けることが多かったからな。寂しい思いをさせてしまっていた」
「でも、戦いに出る煉獄さんを慕っていたはずですよ」
「そうだといいな」
ニコリと微笑む目尻の皺に愛しさを感じ、胸が甘く鼓動する。
弟とはきっと顔も似ていて、でも性格は正反対だと面白い、などと考えた。
「白菊少女は何故親元を離れて一人で暮らしているのだ?」
「仕事もしてるのに実家にいるなんて恥ずかしいですよ」
と見栄を張るが、早々にホームシックになっていたことは事実であるが隠すことにした。
「自立しないとって思いも強かったですからね。成人もしたし、経験は早い方が、って感じで」
「成人?」
煉獄さんは成人という言葉を反復し首を捻った。
疑問を浮かべるようなその反応には、勘違いをしていると思わざるを得なかった。
「もしかして煉獄さん、私を未成年と思ってました?」
「うむ!」
「これでも二十歳なんですけど」
「そうか、俺と同い年か」
「えっ!?」
未成年に見られて軽くショックを受けた矢先、まさかの同年齢で驚きを隠せなかった。
「はは、見えないか?」
「もっと年上かと…」
具体的な年齢までは浮かばないが、二十歳だとはまったく思わなかった。
大人びていて、精悍で、年上のイメージがより強い。
二十歳の誕生日を迎えた時、大人の仲間入りをしたんだと喜悦を感じていた反面、二十歳という節目は想像していたよりずっと子供で、少しだけがっかりした。
それは自分自身が大人になりきれていないだけなのだが、憧れていた分、そんなもんか、と特別なものも感じなかった。
自分にないものを持っている煉獄さんが、憧れの対象のようなものだった。
「そうか、成人もしている大人の女性に少女と呼ぶのは失礼だったな」
「気軽に白菊と呼んでください」
「ふむ…」
煉獄さんは顎の下に指を添え、軽くしゃくった。
何か考えるように軽く俯き、上目遣いで私に尋ねる。
「下の名前で呼んではいけないか?」
煉獄さんの鮮やかな赤色の瞳が小さく揺れた。
学生の頃と比べれば、社会人になってから下の名前で呼ばれることはほとんどなくなっていた。
仲がいい甘ちゃんや家族はともかく、友達と遊ぶ機会も減ったことで名字の方が慣れ親しんでいるレベルだ。
仲が深まる工程で自然と名前呼びになることはあれど、名前で呼んでいいかと許可を求められたこともない。
こういう時、どんな返しをする方がいいだろう。
「えっと、大丈夫、です。いえ、嬉しいです!」
言った後で慌てて訂正する。
この場面での大丈夫という言葉は相手に不安を与えかねないと気づき、ここは素直な感情を伝えるべきだと思い直した。
ここでも自身の性格が表に出て無意識に距離を空けようとしてしまうことに、若干の自己嫌悪にも陥った。
煉獄さんは気にした素振りもなく、緩やかに微笑んだ。
「由乃、俺のことも杏寿郎と呼んでくれ」
「そ、そうですね。私だけ名字で呼ぶのも変ですよね。なら、そうします」
名前で呼び合うことに決め、それで話は一旦終わりと思い込んでいた。
口角を吊り上げ、爛々と光り輝いている瞳が私の顔に全力に注がれ、待っている、という無言の圧力を感じ取る。
「え、えと…」
注目を受け戸惑いを見せても煉獄さんは待ち続けていた。
上手く逸らそうにもそれすら許されない空気になり、私の視線は定まらなくなった。
「杏寿郎、さん…」
なんだか急に羞恥心が高まって、直視ができず壁に向かって名前を呼んだ。
「うむ!なんだ?」
「名前呼んだだけです…というより、そういう雰囲気だったじゃないですか」
「俺は何も言っていないぞ」
言われてはいないが、目は口ほどに物を言うという諺そのままに目で訴えられたのは明白だ。
煉獄さんは喜色満面に溢れる笑顔だったので、それに負けて私が折れたのは言うまでもない。
名前のくだりは今度こそ終息に持っていこうと、話の腰を折る方に回った。
「ああそうだ。夜は外に行かなくてもいいですよ。どうぞここで過ごしてください」
「俺はこの体になっても目と耳は効く。だが温度は感じない。皮膚の感覚もないから外の暑さも寒さもわからないんだ。そこは心配しなくていい」
「でも、それでもいたたまれないんです」
夜になって風も出てきたか、窓を叩く雨と風の音は次第に強くなっていた。
時折吹く突風が窓枠をガタガタと揺らし、嵐のような猛々しい天気だ。
幽霊には関係ないと本人から宣言を受けるが、追い出すのは無情に感じてならなかった。
「夜はテレビを付けておくので、それで少しは退屈凌ぎになると思います。パソコンもあるので動画見たり音楽を聴いたりもできますよ」
興味を惹きそうなコンテンツを提示し、ここに留まらせる理由を作ろうとした。
まるで駅前でお店の勧誘をしている人のようだった。
「優しいのだな」
「だって…寂しいじゃないですか」
引き留める理由を正直に言葉にするとちょっと照れ臭くて、やっぱり目は合わせられなかった。
テレビから流れる笑い声や明るい音楽がなければより気恥ずかしさに押されてしまっていただろう。
「そうか。そこまで言うならお言葉に甘えようか」
「はい、是非そうしてください」
「由乃。君に思い人や恋人ができたら、いつでも追い出してくれて構わないぞ」
「いえ、いませんので…それはないと思います」
「いつかそういう人が現れる。その時の話だ」
「そう…ですね」
煉獄さんを部屋から追い払う日が、いつか来るだろうか。
そうなる未来の可能性があることに複雑な感情を抱きながら、陽気なその声を胸に響かせていた。
弐 孤独を埋めて 了
料理ばかりに注目していた煉獄さんの目が横にスライドし、机に置かれたスマホへと移り変わる。
「その四角い物を誰もが持っているな。先刻もそれを操作していたが、どういう機械なんだ?」
「スマホのことですか?確かに、持っていない人の方が少ないですね」
大正時代は固定電話すら珍しく、携帯電話なんてありもしなかったはずだ。
会社でも電子機器に関心を示していたところを見るに、誰もが持ち歩くスマホも興味の対象なのだろう。
私はスマホを持ち上げてホームボタンを押し、軽く操作をして見せた。
「機能は色々です。離れた相手と通話したり、手紙を送ったり、写真を撮ったり、わからないことを調べたり、本を読んだり」
「万能なのだな。素晴らしい技術だ」
私はそう使いこなせてはいないが、機能は無限大にある。
スワイプして色んなアプリのアイコンを映していると、強制的に着信画面へと切り替わった。
着信音を鳴らし、画面中央にはお母さんと記されていた。
「音が鳴ったぞ!」
「あ、丁度電話がきたんです。ちょっと失礼しますね」
通話アイコンをスワイプして耳に当てる。
「もしもし」
「由乃!あんた最近全然連絡もしないで何やってたの!」
開幕母の怒号が飛び、その声量に鼓膜が破れそうで咄嗟に耳から遠ざける。
キーンという耳鳴りが止むのを待ちながら受信音をそっと下げた。
「怒んないでよ。何も変わったこともないから、至って普通だよ」
「だったらそう連絡しなさいよ、一言でいいんだから」
「わかったって」
「いーや、わかってない!このやり取りするの十回目!」
「はいはい。で、用は何?」
社会人になったと同時に実家を出て一人暮らしを始め、以降母からの連絡は頻繁にやってくる。
他愛もない世間話をしたり、仕事の愚痴を零したり、時々喧嘩したり。
仲がいいような悪いような、そんなよくある家族の形である。
社会人になりたての頃は憧れの一人暮らしにうきうきしていたが、すぐにホームシックになって毎日の電話は欠かせなかったものだ。
今となってはそんな経験も過去のものとなり、一人の快適さに味を占めて母への電話本数も極端に減った。
最後に電話をしたのは一ヵ月ほど前になるが、怠ったという感覚はない。
母の尖った声にうんざりしながら、早く用件を聞き出そうと促した。
「もうすぐおじいちゃんの十七回忌だから、それを伝えておこうと思って」
母からそう伝えられ、胸がトクンと痛いくらいに跳ねた。
あれ、と不思議に感じた時には痛みは消失し、跡形もない。
曾祖父の話がここで出るなんてタイムリーな電話だな、と横目で見える煉獄さんのことを考えた。
「由乃?」
「あ、うん。わかったよ。当日おじいちゃんの家に行けばいいよね」
「近々ハガキで案内を出しておくからね」
「はーい」
通話を終了させスマホを置く。
煉獄さんは、ほお、と深い感嘆の声を漏らし頷いていた。
「これが電話です。離れた人といつでも繋がって、今の電話の相手は私の母です」
「声が聞けるというのはいい機能だな」
「定期的に連絡しないと今みたいに怒るんですよ」
「娘を心配してくれるいい母君じゃないか」
「それでもこれが続くとちょっと鬱陶しくなりますよ」
昔は私の方がしつこいくらいに電話をしていたのが、今では逆転している。
母も同じようなことを思っていたのかもしれないと考えると、そう悪くは言えなかった。
「ご両親を大切にするんだ。いつまでもいるわけでもないのだからな」
「確かに、そうでしょうね」
「俺の母上は俺が幼い頃に病死してしまってな。生前のうちに感謝を上手く伝えることもできず仕舞いだった」
「そうですね…なかなか会えないので、感謝の意を込めて何か送ろうと思います」
いつまでもいるわけではない。
当たり前なのに忘れかける摂理を唱えられ、胸に刻まれた。
母の生みの親であり私の祖母は若くして亡くなっており、私は顔も知らない。
いつも傍にいてくれる人が永遠を約束してくれるわけではないと、改めて教えられた。
「煉獄さんは、お兄ちゃんみたいですね」
「そうか?」
「一緒にいると安心するし、包容力もあるし…ほわほわします」
「長男だからな。それでかもしれん」
「ああ、やっぱり。そんな感じがしました」
長男であることを知り、納得もした。
頼りがいがあり、面倒見もよさそうで、母の寵愛に理解も深い。
答えを言われる前から多くの人が長男と見破りそうだ。
「何人兄弟ですか?」
「弟が一人いる」
「男兄弟いいですね。私の家は女ばっかりで。親戚も姉妹ばかりだから、女が強い家系ですね」
幼い頃は親戚同士よく集まって遊んだものだが、大人になってからはその機会はめっきりと減り、今では顔を合わせるのは正月と法事の時くらいだ。
女の割合が大きく、主導権のほとんどを女が持つ。
親戚が集まると男連中は肩身が狭そうに小さくなっているのを思い出した。
「どんな弟さんでしたか?」
「そうだな…俺と歳は離れていたんだが、しっかり者だった。物心つく前から母上を亡くしたからか甘え下手だったな。あと、料理が上手だ。俺は家事はてんで駄目だったが、弟の作る料理はいつも美味かった」
弟の話を振られ、煉獄さんは目を閉じながら語った。
浮かんでくる思い出話を次々と言葉にして紡ぎ、いつも以上に饒舌だった。
語りかけるその姿はとても嬉々としていて、私はうんうんと相槌しながら耳を傾けていた。
「俺は鬼殺隊として、家を空けることが多かったからな。寂しい思いをさせてしまっていた」
「でも、戦いに出る煉獄さんを慕っていたはずですよ」
「そうだといいな」
ニコリと微笑む目尻の皺に愛しさを感じ、胸が甘く鼓動する。
弟とはきっと顔も似ていて、でも性格は正反対だと面白い、などと考えた。
「白菊少女は何故親元を離れて一人で暮らしているのだ?」
「仕事もしてるのに実家にいるなんて恥ずかしいですよ」
と見栄を張るが、早々にホームシックになっていたことは事実であるが隠すことにした。
「自立しないとって思いも強かったですからね。成人もしたし、経験は早い方が、って感じで」
「成人?」
煉獄さんは成人という言葉を反復し首を捻った。
疑問を浮かべるようなその反応には、勘違いをしていると思わざるを得なかった。
「もしかして煉獄さん、私を未成年と思ってました?」
「うむ!」
「これでも二十歳なんですけど」
「そうか、俺と同い年か」
「えっ!?」
未成年に見られて軽くショックを受けた矢先、まさかの同年齢で驚きを隠せなかった。
「はは、見えないか?」
「もっと年上かと…」
具体的な年齢までは浮かばないが、二十歳だとはまったく思わなかった。
大人びていて、精悍で、年上のイメージがより強い。
二十歳の誕生日を迎えた時、大人の仲間入りをしたんだと喜悦を感じていた反面、二十歳という節目は想像していたよりずっと子供で、少しだけがっかりした。
それは自分自身が大人になりきれていないだけなのだが、憧れていた分、そんなもんか、と特別なものも感じなかった。
自分にないものを持っている煉獄さんが、憧れの対象のようなものだった。
「そうか、成人もしている大人の女性に少女と呼ぶのは失礼だったな」
「気軽に白菊と呼んでください」
「ふむ…」
煉獄さんは顎の下に指を添え、軽くしゃくった。
何か考えるように軽く俯き、上目遣いで私に尋ねる。
「下の名前で呼んではいけないか?」
煉獄さんの鮮やかな赤色の瞳が小さく揺れた。
学生の頃と比べれば、社会人になってから下の名前で呼ばれることはほとんどなくなっていた。
仲がいい甘ちゃんや家族はともかく、友達と遊ぶ機会も減ったことで名字の方が慣れ親しんでいるレベルだ。
仲が深まる工程で自然と名前呼びになることはあれど、名前で呼んでいいかと許可を求められたこともない。
こういう時、どんな返しをする方がいいだろう。
「えっと、大丈夫、です。いえ、嬉しいです!」
言った後で慌てて訂正する。
この場面での大丈夫という言葉は相手に不安を与えかねないと気づき、ここは素直な感情を伝えるべきだと思い直した。
ここでも自身の性格が表に出て無意識に距離を空けようとしてしまうことに、若干の自己嫌悪にも陥った。
煉獄さんは気にした素振りもなく、緩やかに微笑んだ。
「由乃、俺のことも杏寿郎と呼んでくれ」
「そ、そうですね。私だけ名字で呼ぶのも変ですよね。なら、そうします」
名前で呼び合うことに決め、それで話は一旦終わりと思い込んでいた。
口角を吊り上げ、爛々と光り輝いている瞳が私の顔に全力に注がれ、待っている、という無言の圧力を感じ取る。
「え、えと…」
注目を受け戸惑いを見せても煉獄さんは待ち続けていた。
上手く逸らそうにもそれすら許されない空気になり、私の視線は定まらなくなった。
「杏寿郎、さん…」
なんだか急に羞恥心が高まって、直視ができず壁に向かって名前を呼んだ。
「うむ!なんだ?」
「名前呼んだだけです…というより、そういう雰囲気だったじゃないですか」
「俺は何も言っていないぞ」
言われてはいないが、目は口ほどに物を言うという諺そのままに目で訴えられたのは明白だ。
煉獄さんは喜色満面に溢れる笑顔だったので、それに負けて私が折れたのは言うまでもない。
名前のくだりは今度こそ終息に持っていこうと、話の腰を折る方に回った。
「ああそうだ。夜は外に行かなくてもいいですよ。どうぞここで過ごしてください」
「俺はこの体になっても目と耳は効く。だが温度は感じない。皮膚の感覚もないから外の暑さも寒さもわからないんだ。そこは心配しなくていい」
「でも、それでもいたたまれないんです」
夜になって風も出てきたか、窓を叩く雨と風の音は次第に強くなっていた。
時折吹く突風が窓枠をガタガタと揺らし、嵐のような猛々しい天気だ。
幽霊には関係ないと本人から宣言を受けるが、追い出すのは無情に感じてならなかった。
「夜はテレビを付けておくので、それで少しは退屈凌ぎになると思います。パソコンもあるので動画見たり音楽を聴いたりもできますよ」
興味を惹きそうなコンテンツを提示し、ここに留まらせる理由を作ろうとした。
まるで駅前でお店の勧誘をしている人のようだった。
「優しいのだな」
「だって…寂しいじゃないですか」
引き留める理由を正直に言葉にするとちょっと照れ臭くて、やっぱり目は合わせられなかった。
テレビから流れる笑い声や明るい音楽がなければより気恥ずかしさに押されてしまっていただろう。
「そうか。そこまで言うならお言葉に甘えようか」
「はい、是非そうしてください」
「由乃。君に思い人や恋人ができたら、いつでも追い出してくれて構わないぞ」
「いえ、いませんので…それはないと思います」
「いつかそういう人が現れる。その時の話だ」
「そう…ですね」
煉獄さんを部屋から追い払う日が、いつか来るだろうか。
そうなる未来の可能性があることに複雑な感情を抱きながら、陽気なその声を胸に響かせていた。
弐 孤独を埋めて 了