弐 孤独を埋めて
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
駅のホームは朝は通勤ラッシュ、今のこの時間は丁度帰宅ラッシュと成り代わる。
毎度時刻どおりに到着する電車に乗り込み、座る席はなくドアの前で起立した。
朝よりは人との間に隙間はあるが、それでも満員だ。
この密な狭さにも、就職してから二年近く経ってだいぶ慣れてきていた。
しかし、電車に揺られながらぼーっと窓の外の景色を眺めていた、その時だ。
「っ!?」
背後に感じる、違和感。
その違和感の正体が、自分のではない他人の指が腰からお尻にかけて這う感覚だった。
初めは、気のせい、揺れや混雑しているせいでたまたま当たっただけだと気にも留めなかったが、違う。
服の上からぴったりと手をあてがっていて、明らかにそれが狙って触れているのだと勘づいた。
怖い。
人はこういう時、予期せぬ事態に陥った時、判断に鈍る。
背後に立つ男の鼻息が頭頂部辺りの髪に吹きかけられ、身長差もあることがわかった。
振り向けない。男の顔も体格もわからない。
声を上げるべきかもしれない。
嫌だという意思表示は大事だ。
しかし、声は出なかった。
怖い。
ゆっくり、ゆっくり、指がお尻の形に沿って這い回る。
積極的ではなかったがその緩慢さがワザとではないと言い訳しているようで、意地悪い。
騒いだところで、いくらでも言い逃れできるからだろうか。
右隣に立つ人は中年のおじさんで、スマホに夢中だ。
左隣の女性は小柄のお姉さんで、気弱そうに見える。
みんな、他人には冷たいものだ。
声を上げても、巻き込まないでくれと見て見ぬフリをして誰も助けてくれないかもしれない。
冤罪だと逆に訴えられるかもしれない。
顔を覚えられたら付き纏われて復讐されるかもしれない。
そうなると今よりもっと酷い目に遭わされるかもしれない。
どうしようどうしようと頭はフル回転で思考を巡らすも、考えれば考えるほどに嫌な方向にしか向かなかった。
「白菊少女?」
煉獄さんが心配そうに私の顔を覗き込む。
私は顔を俯かせたまま、目線だけを煉獄さんに移した。
「顔色が思わしくないな。疲れたのか?」
何事もないように装ってはいたが、煉獄さんにあっさりと見抜かれる。
意識していても精神的なダメージは顔色に影響していたらしい。
私は恥ずかしさが込み上げて、下唇を噛み、目を反らし、顔を上げられなくなった。
煉獄さんは不思議そうに目をぱちぱちさせた後、私の背後の男を見た。
上から眺めていって、目線が下の方で止まる。
「…後ろにいる男は、知り合いか?」
煉獄さんは静かにそう尋ねた。
私は煉獄さんに伝わるようにと、小さく首を横に振った。
すぅっと、煉獄さんが大きく息を吸う。
「貴様!離れろ!」
怒気を剥き出しにして、煉獄さんは吠えた。
「聞こえないのか!?嫌がっているのがわからないのか!?」
男は依然として指の動きを止めず、股の間へと滑り込ませてきた。
薄いスラックスでは、布越しでもまるで直接肌に触れているかのようだった。
「己より小さい弱き者を狙って見苦しいぞ!恥を知れ!!」
煉獄さんは怒鳴り続ける。
だが、どれだけ叫ぼうとその声が私以外の耳に届くことはなかった。
男は行為を続け、周囲の人も何も変わらずスマホを見たり窓の外を眺めたままだ。
「煉、獄…さん…」
なんというか、いたたまれない気持ちになり、恐怖心は消えず、涙まで浮かんだ。
電車は走るスピードを緩め、車内アナウンスが流れた。
もうすぐ駅に着くのだという知らせだ。
それはこの場から逃げるための救いだった。
駅に到着し、ホームは丁度正面だった。
反対側でなかったのが不幸中の幸いか、目の前の扉が開いたと同時に私は駆け出した。
男が降りたかはわからないが、顔を見られたら嫌で振り向くことはしなかった。
階段を上り、構内の女子トイレを見つけて中に逃げ込む。
誰もいなかったので手洗いカウンターに鞄を置き、前のめりで台に体を預け息を整えた。
緊張と恐怖からは解き放たれたものの、心臓はバクバクと暴れていた。
顔を上げて正面の鏡を見ると、煉獄さんがいうように顔色は少し青みがかっていた。
「白菊少女!大丈夫か!?」
追いかけてきた煉獄さんが背後に立つ。
声は聞こえるが、鏡には煉獄さんの姿はなかった。
生と死の狭間に存在する吸血鬼も鏡には映らないと云われているので、それと同じようなものなのかもしれない。
架空の生物を想起させるくらいには、心は落ち着いていた。
私は煉獄さんに背を向けたまま、鏡に向かって返答した。
「大丈夫です…よくある、ことです」
「よくあること?あんな下劣な行為は頻繁に起こるというのか」
後ろから飛んでくる声はいつもの溌剌な口調とは異なっていた。
声の調子から、なんとなく表情は読める。
煉獄さんの腹を立てている様子に怖気づいてしまい、振り向けなかった。
私は、穏便にいこうと、宥めるような言葉を探した。
「煉獄さんが気にすることはないですよ」
「気にするに決まっている!」
煉獄さんは車内の時のように声を荒げた。
耳に響く、感情を露わにした声量に驚いた私は肩を上下させた。
「そんなに怒らないで下さい。怖い、です」
「う…すまない」
「でも、嬉しかったです」
煉獄さんのしゅんとした声色に被せるように、私は感謝を表した。
「助けようとしてくれて嬉しかった。それに、心強かった」
あの場に一人でいたら、もっと過激なことをされていたら、逃げることすらも思考から遠ざかっていたのかもしれない。
相手の顔もわからないし結局は泣き寝入りの形とはなってしまったが、声を上げてくれたことは素直に喜ばしいことだ。
カウンターに背を預けて振り返ると、そこには意気阻喪とした煉獄さんがいた。
「俺は情けない」
自身を責め立てて卑下する姿に、心が痛んだ。
「こんな姿では、人一人守ることもできないのか」
つい先日出会ったばかりだが、こんなにも失意に苦しむ煉獄さんはまるで別人のようだった。
挫折というものを味わったことが少ないからか、いつでもつらい境遇を乗り越えてきたからなのか。
常世の存在であるが故に、絶対的に抗えないものに衝突し落胆するのは当然でもあるだろう。
「いいんですよ。もう充分、守ってきたんでしょう?おじいちゃんがいつも言っていました。鬼狩り様は人々のために命を懸けて戦ってくれたんだって。歴史に名を残していなくても、その人たちがいたからこそ今が平和でいられるのは事実だから感謝しないといけない、って…」
人々の知らないところで暗躍し、人を守り、そして死んでいってしまった人たちがいる。
鬼の存在とその恐ろしさと、それと戦ってきた勇敢な者たちを知らないままでいたら、きっとこんな気持ちにはならなかった。
けれど、関わりを持ったからには、知らないフリでいるのも傲慢すぎる。
「子供の私はずっとお伽噺だと思い込んでいたから…私こそ、申し訳なかったと思います」
曾祖父の話が本当であるのを知った今、煉獄さんのことをただの哀れな幽霊とは思いはしない。
憂いに沈む愁然とした顔を見ていられず、熱を加える言葉を探す。
「犯罪や戦争がすべて消えたわけではないですが、それでも以前より平和な世界になったんです。人が鬼に喰われることはなくなったんです。煉獄さんは、立派な人ですよ」
「ありがとう、白菊少女」
精いっぱい労い、励まし、煉獄さんの張りつめた表情が和らいでいく。
眉尻が垂れ、柔らかく微笑むその変化は、草木が芽吹き、開花する花のようだった。
「私はもう大丈夫です。帰りましょう」
恐怖心をしまい、鞄を持ち直す。
隣に煉獄さんがいるだけで心は穏やかで、憂いは晴れていた。
だが一歩外に出ると、耳に入ってくる雨音は激しさを増した。
電車に乗る前に降り注いだ優しい雨粒は、手の平を反すように荒々しく地面を叩いている。
こうも雨足が強くては、改札を抜けていく人々の中に頭を晒したまま外を歩く者はさすがにいなかった。
「あちゃー…」
屋根に溜まった水が軒先からボタボタと零れ落ちていく。
バケツをひっくり返したような勢いを見て、改札前のコンビニに自然と目が向いた。
「傘、買って帰りますね」
「そうした方がいいだろう」
こうも土砂降りの空の下、傘もなしに歩く勇気は持ち合わせていない。
朝の天気予報の確認を怠ったバチが無駄な出費へと繋がってしまったが、文句も言っていられない。
購入したビニール傘を広げ、雨の匂いを体に纏いながら帰路に着いた。
毎度時刻どおりに到着する電車に乗り込み、座る席はなくドアの前で起立した。
朝よりは人との間に隙間はあるが、それでも満員だ。
この密な狭さにも、就職してから二年近く経ってだいぶ慣れてきていた。
しかし、電車に揺られながらぼーっと窓の外の景色を眺めていた、その時だ。
「っ!?」
背後に感じる、違和感。
その違和感の正体が、自分のではない他人の指が腰からお尻にかけて這う感覚だった。
初めは、気のせい、揺れや混雑しているせいでたまたま当たっただけだと気にも留めなかったが、違う。
服の上からぴったりと手をあてがっていて、明らかにそれが狙って触れているのだと勘づいた。
怖い。
人はこういう時、予期せぬ事態に陥った時、判断に鈍る。
背後に立つ男の鼻息が頭頂部辺りの髪に吹きかけられ、身長差もあることがわかった。
振り向けない。男の顔も体格もわからない。
声を上げるべきかもしれない。
嫌だという意思表示は大事だ。
しかし、声は出なかった。
怖い。
ゆっくり、ゆっくり、指がお尻の形に沿って這い回る。
積極的ではなかったがその緩慢さがワザとではないと言い訳しているようで、意地悪い。
騒いだところで、いくらでも言い逃れできるからだろうか。
右隣に立つ人は中年のおじさんで、スマホに夢中だ。
左隣の女性は小柄のお姉さんで、気弱そうに見える。
みんな、他人には冷たいものだ。
声を上げても、巻き込まないでくれと見て見ぬフリをして誰も助けてくれないかもしれない。
冤罪だと逆に訴えられるかもしれない。
顔を覚えられたら付き纏われて復讐されるかもしれない。
そうなると今よりもっと酷い目に遭わされるかもしれない。
どうしようどうしようと頭はフル回転で思考を巡らすも、考えれば考えるほどに嫌な方向にしか向かなかった。
「白菊少女?」
煉獄さんが心配そうに私の顔を覗き込む。
私は顔を俯かせたまま、目線だけを煉獄さんに移した。
「顔色が思わしくないな。疲れたのか?」
何事もないように装ってはいたが、煉獄さんにあっさりと見抜かれる。
意識していても精神的なダメージは顔色に影響していたらしい。
私は恥ずかしさが込み上げて、下唇を噛み、目を反らし、顔を上げられなくなった。
煉獄さんは不思議そうに目をぱちぱちさせた後、私の背後の男を見た。
上から眺めていって、目線が下の方で止まる。
「…後ろにいる男は、知り合いか?」
煉獄さんは静かにそう尋ねた。
私は煉獄さんに伝わるようにと、小さく首を横に振った。
すぅっと、煉獄さんが大きく息を吸う。
「貴様!離れろ!」
怒気を剥き出しにして、煉獄さんは吠えた。
「聞こえないのか!?嫌がっているのがわからないのか!?」
男は依然として指の動きを止めず、股の間へと滑り込ませてきた。
薄いスラックスでは、布越しでもまるで直接肌に触れているかのようだった。
「己より小さい弱き者を狙って見苦しいぞ!恥を知れ!!」
煉獄さんは怒鳴り続ける。
だが、どれだけ叫ぼうとその声が私以外の耳に届くことはなかった。
男は行為を続け、周囲の人も何も変わらずスマホを見たり窓の外を眺めたままだ。
「煉、獄…さん…」
なんというか、いたたまれない気持ちになり、恐怖心は消えず、涙まで浮かんだ。
電車は走るスピードを緩め、車内アナウンスが流れた。
もうすぐ駅に着くのだという知らせだ。
それはこの場から逃げるための救いだった。
駅に到着し、ホームは丁度正面だった。
反対側でなかったのが不幸中の幸いか、目の前の扉が開いたと同時に私は駆け出した。
男が降りたかはわからないが、顔を見られたら嫌で振り向くことはしなかった。
階段を上り、構内の女子トイレを見つけて中に逃げ込む。
誰もいなかったので手洗いカウンターに鞄を置き、前のめりで台に体を預け息を整えた。
緊張と恐怖からは解き放たれたものの、心臓はバクバクと暴れていた。
顔を上げて正面の鏡を見ると、煉獄さんがいうように顔色は少し青みがかっていた。
「白菊少女!大丈夫か!?」
追いかけてきた煉獄さんが背後に立つ。
声は聞こえるが、鏡には煉獄さんの姿はなかった。
生と死の狭間に存在する吸血鬼も鏡には映らないと云われているので、それと同じようなものなのかもしれない。
架空の生物を想起させるくらいには、心は落ち着いていた。
私は煉獄さんに背を向けたまま、鏡に向かって返答した。
「大丈夫です…よくある、ことです」
「よくあること?あんな下劣な行為は頻繁に起こるというのか」
後ろから飛んでくる声はいつもの溌剌な口調とは異なっていた。
声の調子から、なんとなく表情は読める。
煉獄さんの腹を立てている様子に怖気づいてしまい、振り向けなかった。
私は、穏便にいこうと、宥めるような言葉を探した。
「煉獄さんが気にすることはないですよ」
「気にするに決まっている!」
煉獄さんは車内の時のように声を荒げた。
耳に響く、感情を露わにした声量に驚いた私は肩を上下させた。
「そんなに怒らないで下さい。怖い、です」
「う…すまない」
「でも、嬉しかったです」
煉獄さんのしゅんとした声色に被せるように、私は感謝を表した。
「助けようとしてくれて嬉しかった。それに、心強かった」
あの場に一人でいたら、もっと過激なことをされていたら、逃げることすらも思考から遠ざかっていたのかもしれない。
相手の顔もわからないし結局は泣き寝入りの形とはなってしまったが、声を上げてくれたことは素直に喜ばしいことだ。
カウンターに背を預けて振り返ると、そこには意気阻喪とした煉獄さんがいた。
「俺は情けない」
自身を責め立てて卑下する姿に、心が痛んだ。
「こんな姿では、人一人守ることもできないのか」
つい先日出会ったばかりだが、こんなにも失意に苦しむ煉獄さんはまるで別人のようだった。
挫折というものを味わったことが少ないからか、いつでもつらい境遇を乗り越えてきたからなのか。
常世の存在であるが故に、絶対的に抗えないものに衝突し落胆するのは当然でもあるだろう。
「いいんですよ。もう充分、守ってきたんでしょう?おじいちゃんがいつも言っていました。鬼狩り様は人々のために命を懸けて戦ってくれたんだって。歴史に名を残していなくても、その人たちがいたからこそ今が平和でいられるのは事実だから感謝しないといけない、って…」
人々の知らないところで暗躍し、人を守り、そして死んでいってしまった人たちがいる。
鬼の存在とその恐ろしさと、それと戦ってきた勇敢な者たちを知らないままでいたら、きっとこんな気持ちにはならなかった。
けれど、関わりを持ったからには、知らないフリでいるのも傲慢すぎる。
「子供の私はずっとお伽噺だと思い込んでいたから…私こそ、申し訳なかったと思います」
曾祖父の話が本当であるのを知った今、煉獄さんのことをただの哀れな幽霊とは思いはしない。
憂いに沈む愁然とした顔を見ていられず、熱を加える言葉を探す。
「犯罪や戦争がすべて消えたわけではないですが、それでも以前より平和な世界になったんです。人が鬼に喰われることはなくなったんです。煉獄さんは、立派な人ですよ」
「ありがとう、白菊少女」
精いっぱい労い、励まし、煉獄さんの張りつめた表情が和らいでいく。
眉尻が垂れ、柔らかく微笑むその変化は、草木が芽吹き、開花する花のようだった。
「私はもう大丈夫です。帰りましょう」
恐怖心をしまい、鞄を持ち直す。
隣に煉獄さんがいるだけで心は穏やかで、憂いは晴れていた。
だが一歩外に出ると、耳に入ってくる雨音は激しさを増した。
電車に乗る前に降り注いだ優しい雨粒は、手の平を反すように荒々しく地面を叩いている。
こうも雨足が強くては、改札を抜けていく人々の中に頭を晒したまま外を歩く者はさすがにいなかった。
「あちゃー…」
屋根に溜まった水が軒先からボタボタと零れ落ちていく。
バケツをひっくり返したような勢いを見て、改札前のコンビニに自然と目が向いた。
「傘、買って帰りますね」
「そうした方がいいだろう」
こうも土砂降りの空の下、傘もなしに歩く勇気は持ち合わせていない。
朝の天気予報の確認を怠ったバチが無駄な出費へと繋がってしまったが、文句も言っていられない。
購入したビニール傘を広げ、雨の匂いを体に纏いながら帰路に着いた。