BLACK
黒の組織との戦いが佳境を迎えた頃、探偵は本来の姿を取り戻すことが叶った。
それは全く別の組織へと捜査が入った時にたまたま見つけたデータが正しくAPTX4869の精製に関する書類だった、という何とも単純で簡易的で楽に手に入った。裏で繋がりを持っていたその組織は医療関係に強い人材を集めていたようだった。
表から追い詰めていたはずの組織が裏で別の組織と繋がっている事に気付くことが出来ず多大な被害を出した事実は呆然とした思いを抱えるに充分であった。表からではどれだけ探ってもどれだけ潜入捜査員を使っても把握する事の出来なかったそれを知っていたのは目的の組織員の中でも一握り、幹部ですら知らない者もいたのだという。その時になって漸く気付いた。
―表からではどれだけの力を使ったところで限界がある。
それを悟ってからの行動は無謀と詰られてもおかしくない物だろう。
その時になって初めて、工藤は怪盗が何故怪盗という手段を取っているか心から同意することが出来た。彼の能力があれば表からでも充分に目的を達成することが出来るだろうに、それをしなかったのは多かれ少なかれ、それでは限界があると、あの類まれなる知性で知っていたのだろう。
「本当に行くのね」
必要な荷物だけを詰めたキャリーケースを引きながら歩く工藤の横を灰原は呆れたような表情を隠すことなく問いかける。否、問いかけなんて形を取っているだけでその実誰よりもその心を判っている。幼馴染の少女よりも、長らく付き合いのあった気の良い科学者よりも親友だと呼んだ西の探偵よりも誰よりも。
だからこそ、知ったこの出立の日も誰にも言わず単身で見送りに来たのだ。
「貴方は何時だって自分一人で決めて、一人で動いて、一人だけで傷つこうとするんだから」
ついたため息には諦めの色が濃く出た物だった。
悪い、と謝る事はその言葉を肯定することになる。
何も言わずにただ首を左右に振る事で思いを告げる。けれどそれすらも灰原にとっては意味のない事なのかもしれない。
「…あの人は、どうするの」
浮かんだのは白を身に纏った怪盗の姿。
「……何も言っていない」
言えるわけがない。
彼は未だ戦っている最中なのだから、こんな自分勝手な行動に巻き込むわけにはいかない。心の奥底では彼に居てほしいとどれだけ願っていても、それは余りにも身勝手すぎる願い。
「あの人は何よりも貴方を手放すことを恐れていたと思うのだけれど、それでも貴方は貴方の想いを付き通すのね」
辛辣な灰原の言葉が胸へと突き刺さる。
どれだけあの怪盗が工藤を必要とし、求め、そして囲っていたか、誰よりも工藤自身が知っていた。それは工藤自身も怪盗を必要とし、求め、囲いたいと思っていたからだ。
立場が違う、けれど、思考はほぼ同じ。
だからこそ、工藤が姿をあの男の前から消した時どんな行動を起こすのか、簡単に想像が出来た。けれど、達成しなければならない悲願が彼の行動に制限を掛ける。思いとは裏腹にかかる制限に彼はどう動くのか。出来る事ならば後を追う事など考えずに目的を達成させ、その後は安全に安穏とした世界で生きていてほしいと思う。
「その考えは傲慢が過ぎるわ」
「…オメーの言葉は一々痛いんだよ」
「貴方だって判っているじゃない。彼がただ平和な世界で貴方を失くして生きていけるわけがないって」
「あいつの周りにはいくらでも人がいるだろう」
「人はいても彼が求める人間が居なけれはそれは誰もいないのと同義よ」
ばっさりと言い放つ灰原に苦笑しか浮かべることが出来ない。
確かに出会った頃から孤独を抱えた瞳をしていた。ポーカーフェイスの裏に隠された『黒羽快斗』という人間が実は寂しがり屋なのだと知っているのはどれだけいるのだろうか。
その彼を切り捨てようとしている自分は非道なのだろう。
けれど、彼には日の当たる道を歩いてほしかった。
これから裏の、更にその奥に行こうとしている自分の事など忘れて、ただ幸せに生きていてほしいと思った。
「…まぁ、いいわ。貴方がそれを望むのなら、私は貴方を支えるの。それは相棒の私の役目でしょ。私は日本で、貴方はイタリアで。自分達の目的の為に動く、そうでしょ?」
きゅっと小さなままの掌で包み込んでくる暖かさに気を抜けば涙が出そうになる。けれど、ここで流すわけにはいかない。
「あぁ」
その手を離し、搭乗口へと向かう。
もう後ろは振り向かない。
今はもう、前に進むしかないのだから。
立ち込める既に体に馴染んだ血の匂いと硝煙の匂い。手には重たく冷たい金属の塊。足元には既に人の形をしたナニカに成り下がったモノの数々。散らばる赤は見慣れたけれども、それでも、そのうちの幾つかが自身の手によって撒かれた事だけは未だに慣れることが無い。
「シン」
浅く息を繰り返す工藤を背後から呼ぶ男の声が響く。重く響き渡る声の持ち主は今の工藤の雇い主とも飼い主ともいえる相手だ。
裏の世界に身を落とそうと単身イタリアへと飛び、繋がりを探そうと幾つかのバーやクラブに顔を出していた。それとなく情報を探し、自身の情報も落とし、そうして食いついてきた相手は想像以上の大物だった。
若くしてこの地域を収めるファミリーのボス。それがこの男―ヨスガだった。
先祖に日本人がいるのだと、だから初めて見た時に気になったのだと気さくに声をかける男はマフィアのボスには見えない。けれど、実際に彼の働きを目にしたら決して侮る事など出来はしない。穏やかな表情はそのままに冴えわたるアイスブルーの瞳で相手を眺め、そして無感動に引き金を引く。今まで相対した黒の組織の人間達など大したことなど無いと思わせる程に圧倒的な力の差。
その男の庇護下にいると思われているのが工藤だ。何時だってヨスガは工藤を連れて歩く。今までこの男の隣に立つ人間はいなかったのだという。右腕となる人間も、側近も、愛人も。だというのに唐突に現れた日本人がその席をかっさらっていった、と組織内の反感は大きい。外からでは何もしていないように見えるから余計なのだろう。嘗て日本国内でしていた時と同じように、表だって動くことは無い。下手に動いて自分の存在を知られたくない相手に欠片でも存在を掴ませないために。
「何を考えている」
彼奴とは全く似ていない金の髪にアイスブルーの瞳なのに稀にその気配が重なる時がある。こうして探るように見られている時など特に。
「何も」
ぎゅっと手の中の塊に力を入れ視線を逸らす。逃げている自覚は、ある。けれど、もう会えない。
どっぷりと闇に染まった。そのつもりで此方へと来たけれど、手を汚さずにいる事など出来なくて。ただ表に居た時だけよりもできる事は増えたけれど、もう此処から抜け出すことも出来ない。探る視線を躱しながら動く標的がいないかを探る。黒の組織と戦うために身に付けた物は今に役立っている。全ては収束し結果となる。黒の組織相手には無用に終わったものが使える事実。
「もう此処も終わりだな」
自分たち以外に生きる気配の無い、かつては人で賑わったであろう館。
今は血濡れの館だ。
「帰るぞ」
「了解」
堂々と振り返ることなく歩む男の後ろをついていく。
本当に、遠い所まで来てしまった。
「おかえりなさい」
黒塗りの車から降りたヨスガと工藤を迎えたのは緩やかにウェーブのかかった金の髪をまとめ上げた軽薄な気配を漂わせている男だった。シャオと名乗る男の国籍は不明である。それが本名であるかもまた、不明だ。だが、この男の手腕をヨスガが買い近辺に置いている事を不満に思う人間はいない。それだけの実績を上げているのだという。じろり、と工藤を眺めるシャオの瞳には温度がない。此処に与して一年が経ったが未だに敵対組織の物かと疑われているのだろう。その疑惑は当然あって然るべきもの故に工藤はその視線にも心を揺らすことは無かった。
「そういえば、ヨスガ。リィンが東洋人を拾ってきましたよ。シンに続いて二人目ですね」
リィンという男もまた、ヨスガにその手腕を買われている男である。だが、武道の腕ではなく情報戦に置いての腕であり、インターネットの波及した現在では先に情報を制した組織が上位となる事を早々に理解したヨスガが他の組織に狙われていたリィンを助け、そのまま自身の部下にしたのだという。細く吊り上がった目とへらへらと口元に笑みを浮かべ何を考えているかつかみどころのない男であるが、その実力は確かだ。
工藤もまた、リィンに拾われた。
同じ様に拾われたのが東洋人だという事に、因果を感じる。
「それは何処にいる」
聞きながらも足を止めることなく館へと入りコートを脱いでいくヨスガの後を追う。脱ぎ捨てようとするコートを受け取り更にそれを使用人へと手渡す。自然に行われる行為だが、この行為こそがヨスガが工藤を囲っていると思われる原因にもなっているのだろう。何方も否定をしないから噂は収束することが無い。
「シンの時と同じように広間にいますよ」
他の組織の者との接待の時にも使われる広間に拾われた相手だけがいるのだろう。自身の時を思い返せば容易にその光景が目に浮かぶ。
「シン」
「なんだ」
「お前も会いたいか?同朋かもしれないぞ」
「……ヨスガが会えと言うなら会おう」
「なら、命令だ。俺についてこい」
此処に工藤の意思はない。否、現在は、無い。未だ組織のボスと拾われた男、もしくは手の内の銃弾の一つ。シルバーブレッドの名は当初から知られていた。リィンに掛かれば江戸川コナンと工藤新一を結び付ける事は容易だったようだ。にまにまとした笑みを浮かべるリィンの姿が廊下の柱の陰に目に入る。何かを企んでいるという事は判るがその内容までは把握できない。何方にしても命令があれば従うまでだ。
大きな扉の奥に新しく拾われた男がいる。気配が感じられない。ヨスガの瞳が興味深そうに煌いた。
重々しい音を立てて開かれる扉の奥に、その男はいた。
ひゅっ、と鳴ったのは自身の喉か。
「お前が今回拾われた男か」
「拾われた、というか売り込みに行ったんですけどね」
思わず伏せてしまった目に男がどんな表情を浮かべているのかは見えない。
何故此処にあの男がいるのだろうか。
痕跡など全て消したはずだ。
それに目的はまだ達成していないだろう。
ぐるぐると工藤の脳内には疑問ばかりが回っていく。その為、男とヨスガが交わす言葉を殆ど聞こえていない。ヨスガがちらり、と工藤へと視線を投げるが何事も無かったように男へと視線を戻した。
「名は」
「黒羽快斗です」
「シンの知り合いか?」
「それが貴方に関係ありますか?」
その問いかけに、ぴりっと空気が凍る。肌を焼くほどの熱量と、同じだけの冷気が黒羽を中心に渦巻き、それをヨスガは楽しそうに見ている。再度、ヨスガは工藤を見るが判りやすいほどの空気の変化にも気付くことが出来ないほどに混乱を極めている。その事実に、この男と出会うことは工藤の中では有り得ない事だったのだと判断する。そして、この男をどう扱うかも脳裏で計算を重ねていった。
「あるな。此奴は俺が拾った。故に、俺の物だ」
言い放つヨスガに、黒羽は口元を歪めた笑みを浮かべる。
「新一は昔から、今も、俺の物ですよ」
昏く光る紫紺の瞳には執着に濡れ敵意に満ちている。ヨスガを相手に堂々と敵意を見せる愚か者は余程自身の力を過信しているか、ヨスガの力を見誤っているかのどちらかでしかなかった。
けれど、目の前の男はそのどちらでもない。
酷く愉快な気分になったヨスガはくつくつと、次第に声をあげて笑う。
其処で漸く工藤が思考を戻した。
はくり、と慄く口唇は言葉を発せない。
困惑に満ちた瞳はただ黒羽を見つめている。
視線に気付いた黒羽はにやにやと笑みを浮かべるヨスガを視界から外し工藤へと向きなおる。ヨスガは止めることはしない。
「久しぶり、新一」
黒羽から溢れるのは懐かしい故郷の言葉。
そして、変わらぬ黒羽の気配に此方へと来てから長らく張り詰めていた心の線が綻びそうになる。けれど、最後の一線で持ちこたえた。
会うつもりはなかった。
「なんで…」
「俺さー、怒ってんだよ。新一が居なくなったってのに哀ちゃんは何にも教えてくれないし、探そうにも痕跡も残ってない。流石にあっちの片手間に探そうとしても無理だって判断したから死ぬ気であれは見つけ出して終わらせた。で、漸く探し出したと思ったらこんな遠いとこまで来てんだもんな」
「だって」
「なに?お前の居場所わかってから哀ちゃんに聞いたら、俺には教えんなって言ったんだってな。なー、まだわかんないの?お前がいないんならこんな世界必要ないんだぜ?」
「そこまでだ」
暗く歪んだ紫紺が睨みつけてくるたびに心が軋んで悲鳴を上げていく。そんな顔をさせたいわけじゃなかった。ただ、自分の意思で裏のさらに奥へと行こうとする以上これ以上は巻き込んではいけないと思った。
これ以上聞いていたら心が軋み割れ戻ることはなくなる。
そう思ったところでヨスガの制止の声がかかった。言いたいことの半分も言えず湧き上がる不愉快さを隠そうともしない黒羽の姿はあの頃と重ならない。
「んだよ」
「シンが嫌がっている。お前が何を言っていたのか知らないが、そいつを壊すなら誰だって容赦はしない」
「はっ!…本当に、新一は厄介な奴を惹きつける」
「そんなにこいつと居たいのならこのファミリーにはいればいい。此奴は謂わば俺の影だ。更にその影になるか?」
工藤を支える影になるか、と聞くヨスガに愚問だと返す。満足そうに笑うヨスガの真意はわからない。わかるのは一つだけ。
このまま黒羽が受け入れれば、工藤以上にその存在が表に出ることはない。
それは、長らく裏稼業に身を窶していた黒羽も気が付いているのだろう。ヨスガの真意を確かめるように目を眇め、そして、工藤へと視線を移していく。似たようで色の違う二つの瞳が交錯し、縺れ、解れた。
くっと口の端を吊り上げ、ヨスガへと向き直る。
「いいぜ。お前の駒になってやるよ。ただ、勘違いするな。俺はお前の部下なわけじゃない。新一がお前を見限らない限りお前に力を貸す。お前が新一を裏切るような行動をした瞬間、新一が何と言おうとお前は俺の敵になる。忘れるな、お前は俺の上にいるわけじゃないことを」
「理由は何だろうと構わない。シンがお前の楔となるならそれは俺にとって何よりも判りやすいラインになるな。俺がシンを裏切るわけがない」
ゆるりと目元を緩めて笑う男は過去を思い出すように目を閉じ口元を緩ませた。その表情には慈愛に満ちていて黒羽はぎしり、と心臓が軋むのを感じる。工藤とこの男の出会いを知りたいと、関係を確認したいと強烈な渇きと共に湧き上がった。
仮に工藤が黒羽よりもこの男の方が大切だと言ったならば。
「快斗、いいんだな」
「お前が俺の隣にいるのなら、場所は何処でもいいんだよ。立場だってなんだっていいんだ。お前が選んだ道に俺は添いたい」
「でも、お前にも叶えたい願いがあっただろ」
パンドラという名のついた災厄を内包した宝石。
父親を殺した組織との対決。
そのどちらも自身の日常を切り崩してでも叶えたい悲願だったはずだ。
「此処に居たら叶わなくなるぞ」
裏の裏、更にその奥。自身の本来の名前すら忘れそうになるほどに隠された存在になる。それが、工藤新一として選んだ道だった。ヨスガはそれを理解し、それでも、と『シン』と呼ぶ。
それはヨスガ自身にも覚えのある行動だったからなのかもしれない。
自身の望みよりも組織の有益を選ぶ。それが此処に所属する全ての存在の意義。
「構わないよ。パンドラは見つけた。けど、やっぱりというか、俺だけの力じゃ奴らをどうにかすることは出来なかった。だから、他の方法を探したんだ」
それは工藤が求めた道と同じだった。
裏にはびこる物を濯ごうとすればそれよりも強くならねばならない。
だから選んだ。
「それが新一と一緒に居られる事にもなるなら一石二鳥でしょ」
「……人を殺すことも、あるんだぞ」
出来るのか、誰よりも優しいお前に。
問いかけの言葉は言葉にならなくとも届く。黒羽の表情は次第に柔らかく包み込むように変化していく。それは問いかけにはそぐわない優しさに満ち溢れた物だった。
「そんなのどうでもいいんだよ。元々俺が優しくするのは新一相手だけだぜ。新一を守るために、新一の居場所になるためなら、そんなのどうだっていい」
「…はぁ。お前がいいなら、俺はいい」
黒羽がその心を決めた時点で工藤の中でもこれ異様逃げるのは止めようと心が決まる。
そっと寄り添うように黒羽の隣へと移動する工藤の姿をヨスガは視線で追いかけた。
「これからはお前ら二人で組め。で、黒羽快斗、お前も名を伏せるならそのようにするがどうする」
「新一と一緒で」
「判った」
鷹揚に頷くヨスガに此処で工藤と再会してから聞きたかったことを尋ねた。
「あんたにとって、新一は何なんだ」
上司と部下というには余りにも言葉の端端に宿る物が甘く溶けている。其処に何かあると邪推せざるを得ない。
「安心しろよ、シンと俺の間には何も無い」
ひらり、と手を振るヨスガの姿に嘘は無いようである。けれど、工藤を見る目には甘さが宿っている。
「ただ、シンは俺の恋人―…いや、元恋人だな。そいつに似てるんだ」
苦く笑う口元と遠くにまだその相手を想っている事を悟る。
はっと吐く息には後悔が含まれぐしゃり、と金糸の髪をかき混ぜている。
「あんな思いは二度としたくねーからな。お前も、そいつが大切なら確り捕まえていろよ。俺ンとこ来てだいぶたつがそいつは無茶ばかりだ」
呆れた様に疲れた様に言う姿には常のボスとしての威厳は無い。
黒羽と工藤の姿に自身の過去の姿を重ねたのか。
カツン、と床を鳴らし部屋を出ていく後姿をリィンも追いかけていく。
音を立てずにしまったドアは外と中を断絶させた。
「あの人は大切な人を自分の手で殺してしまったと悔やんでいたんだ。そんな時に俺に会った。俺を拾ってくれた。訳アリなのなんてすぐにわかっていただろうに、何も聞かずに裏で生きる術を教えてくれた。俺とあの人の関係はそれだけだよ」
「しんいち」
「あの日、お前に言うのが怖くて、もし軽蔑されたらと思ったら何も言えなかった。お前の手を離す事よりも、お前に軽蔑されることの方が怖かった」
でも、と工藤は言葉を重ねる。
「お前なら此処まで追ってきてくれるんじゃないかって、心のどこかで思ってた。その時は逃げないでお前に向き直ろうって決めてた」
「追わないわけ、ないだろ。追うに、決まってるだろ。例えその手が血にまみれようと、俺の手が血にまみれようと、お前の居ない世界に意味はないんだ」
そっと、細く長いマジシャンとしての指先を握りしめる。怪盗をしていても汚れる事が無かった手をこれから先どれだけ汚してしまうのだろうか。追ってきた彼を避けて遠ざけて拒んで日本に返すのが一番いい事なのだろう。けれど、手放すこと等出来そうにない。
「俺はお前に付くんだろ?なら、命令してよ。お前から俺が離れないように、何時までも傍に居ろって。言ってよ」
工藤の手にふわふわとした癖毛が縋りつく。
「言って」
懇願と希う色にまみれた声は低くかすれていた。
ぎゅっと強く握られた手のひらと頭の上から落とされた望んだ言葉。
何方ともなく伸ばされた腕の中に納まる互いの体温があるのならば、たとえこの先何が変わろうとも自分達の想いが変わることは無い。
それは全く別の組織へと捜査が入った時にたまたま見つけたデータが正しくAPTX4869の精製に関する書類だった、という何とも単純で簡易的で楽に手に入った。裏で繋がりを持っていたその組織は医療関係に強い人材を集めていたようだった。
表から追い詰めていたはずの組織が裏で別の組織と繋がっている事に気付くことが出来ず多大な被害を出した事実は呆然とした思いを抱えるに充分であった。表からではどれだけ探ってもどれだけ潜入捜査員を使っても把握する事の出来なかったそれを知っていたのは目的の組織員の中でも一握り、幹部ですら知らない者もいたのだという。その時になって漸く気付いた。
―表からではどれだけの力を使ったところで限界がある。
それを悟ってからの行動は無謀と詰られてもおかしくない物だろう。
その時になって初めて、工藤は怪盗が何故怪盗という手段を取っているか心から同意することが出来た。彼の能力があれば表からでも充分に目的を達成することが出来るだろうに、それをしなかったのは多かれ少なかれ、それでは限界があると、あの類まれなる知性で知っていたのだろう。
「本当に行くのね」
必要な荷物だけを詰めたキャリーケースを引きながら歩く工藤の横を灰原は呆れたような表情を隠すことなく問いかける。否、問いかけなんて形を取っているだけでその実誰よりもその心を判っている。幼馴染の少女よりも、長らく付き合いのあった気の良い科学者よりも親友だと呼んだ西の探偵よりも誰よりも。
だからこそ、知ったこの出立の日も誰にも言わず単身で見送りに来たのだ。
「貴方は何時だって自分一人で決めて、一人で動いて、一人だけで傷つこうとするんだから」
ついたため息には諦めの色が濃く出た物だった。
悪い、と謝る事はその言葉を肯定することになる。
何も言わずにただ首を左右に振る事で思いを告げる。けれどそれすらも灰原にとっては意味のない事なのかもしれない。
「…あの人は、どうするの」
浮かんだのは白を身に纏った怪盗の姿。
「……何も言っていない」
言えるわけがない。
彼は未だ戦っている最中なのだから、こんな自分勝手な行動に巻き込むわけにはいかない。心の奥底では彼に居てほしいとどれだけ願っていても、それは余りにも身勝手すぎる願い。
「あの人は何よりも貴方を手放すことを恐れていたと思うのだけれど、それでも貴方は貴方の想いを付き通すのね」
辛辣な灰原の言葉が胸へと突き刺さる。
どれだけあの怪盗が工藤を必要とし、求め、そして囲っていたか、誰よりも工藤自身が知っていた。それは工藤自身も怪盗を必要とし、求め、囲いたいと思っていたからだ。
立場が違う、けれど、思考はほぼ同じ。
だからこそ、工藤が姿をあの男の前から消した時どんな行動を起こすのか、簡単に想像が出来た。けれど、達成しなければならない悲願が彼の行動に制限を掛ける。思いとは裏腹にかかる制限に彼はどう動くのか。出来る事ならば後を追う事など考えずに目的を達成させ、その後は安全に安穏とした世界で生きていてほしいと思う。
「その考えは傲慢が過ぎるわ」
「…オメーの言葉は一々痛いんだよ」
「貴方だって判っているじゃない。彼がただ平和な世界で貴方を失くして生きていけるわけがないって」
「あいつの周りにはいくらでも人がいるだろう」
「人はいても彼が求める人間が居なけれはそれは誰もいないのと同義よ」
ばっさりと言い放つ灰原に苦笑しか浮かべることが出来ない。
確かに出会った頃から孤独を抱えた瞳をしていた。ポーカーフェイスの裏に隠された『黒羽快斗』という人間が実は寂しがり屋なのだと知っているのはどれだけいるのだろうか。
その彼を切り捨てようとしている自分は非道なのだろう。
けれど、彼には日の当たる道を歩いてほしかった。
これから裏の、更にその奥に行こうとしている自分の事など忘れて、ただ幸せに生きていてほしいと思った。
「…まぁ、いいわ。貴方がそれを望むのなら、私は貴方を支えるの。それは相棒の私の役目でしょ。私は日本で、貴方はイタリアで。自分達の目的の為に動く、そうでしょ?」
きゅっと小さなままの掌で包み込んでくる暖かさに気を抜けば涙が出そうになる。けれど、ここで流すわけにはいかない。
「あぁ」
その手を離し、搭乗口へと向かう。
もう後ろは振り向かない。
今はもう、前に進むしかないのだから。
立ち込める既に体に馴染んだ血の匂いと硝煙の匂い。手には重たく冷たい金属の塊。足元には既に人の形をしたナニカに成り下がったモノの数々。散らばる赤は見慣れたけれども、それでも、そのうちの幾つかが自身の手によって撒かれた事だけは未だに慣れることが無い。
「シン」
浅く息を繰り返す工藤を背後から呼ぶ男の声が響く。重く響き渡る声の持ち主は今の工藤の雇い主とも飼い主ともいえる相手だ。
裏の世界に身を落とそうと単身イタリアへと飛び、繋がりを探そうと幾つかのバーやクラブに顔を出していた。それとなく情報を探し、自身の情報も落とし、そうして食いついてきた相手は想像以上の大物だった。
若くしてこの地域を収めるファミリーのボス。それがこの男―ヨスガだった。
先祖に日本人がいるのだと、だから初めて見た時に気になったのだと気さくに声をかける男はマフィアのボスには見えない。けれど、実際に彼の働きを目にしたら決して侮る事など出来はしない。穏やかな表情はそのままに冴えわたるアイスブルーの瞳で相手を眺め、そして無感動に引き金を引く。今まで相対した黒の組織の人間達など大したことなど無いと思わせる程に圧倒的な力の差。
その男の庇護下にいると思われているのが工藤だ。何時だってヨスガは工藤を連れて歩く。今までこの男の隣に立つ人間はいなかったのだという。右腕となる人間も、側近も、愛人も。だというのに唐突に現れた日本人がその席をかっさらっていった、と組織内の反感は大きい。外からでは何もしていないように見えるから余計なのだろう。嘗て日本国内でしていた時と同じように、表だって動くことは無い。下手に動いて自分の存在を知られたくない相手に欠片でも存在を掴ませないために。
「何を考えている」
彼奴とは全く似ていない金の髪にアイスブルーの瞳なのに稀にその気配が重なる時がある。こうして探るように見られている時など特に。
「何も」
ぎゅっと手の中の塊に力を入れ視線を逸らす。逃げている自覚は、ある。けれど、もう会えない。
どっぷりと闇に染まった。そのつもりで此方へと来たけれど、手を汚さずにいる事など出来なくて。ただ表に居た時だけよりもできる事は増えたけれど、もう此処から抜け出すことも出来ない。探る視線を躱しながら動く標的がいないかを探る。黒の組織と戦うために身に付けた物は今に役立っている。全ては収束し結果となる。黒の組織相手には無用に終わったものが使える事実。
「もう此処も終わりだな」
自分たち以外に生きる気配の無い、かつては人で賑わったであろう館。
今は血濡れの館だ。
「帰るぞ」
「了解」
堂々と振り返ることなく歩む男の後ろをついていく。
本当に、遠い所まで来てしまった。
「おかえりなさい」
黒塗りの車から降りたヨスガと工藤を迎えたのは緩やかにウェーブのかかった金の髪をまとめ上げた軽薄な気配を漂わせている男だった。シャオと名乗る男の国籍は不明である。それが本名であるかもまた、不明だ。だが、この男の手腕をヨスガが買い近辺に置いている事を不満に思う人間はいない。それだけの実績を上げているのだという。じろり、と工藤を眺めるシャオの瞳には温度がない。此処に与して一年が経ったが未だに敵対組織の物かと疑われているのだろう。その疑惑は当然あって然るべきもの故に工藤はその視線にも心を揺らすことは無かった。
「そういえば、ヨスガ。リィンが東洋人を拾ってきましたよ。シンに続いて二人目ですね」
リィンという男もまた、ヨスガにその手腕を買われている男である。だが、武道の腕ではなく情報戦に置いての腕であり、インターネットの波及した現在では先に情報を制した組織が上位となる事を早々に理解したヨスガが他の組織に狙われていたリィンを助け、そのまま自身の部下にしたのだという。細く吊り上がった目とへらへらと口元に笑みを浮かべ何を考えているかつかみどころのない男であるが、その実力は確かだ。
工藤もまた、リィンに拾われた。
同じ様に拾われたのが東洋人だという事に、因果を感じる。
「それは何処にいる」
聞きながらも足を止めることなく館へと入りコートを脱いでいくヨスガの後を追う。脱ぎ捨てようとするコートを受け取り更にそれを使用人へと手渡す。自然に行われる行為だが、この行為こそがヨスガが工藤を囲っていると思われる原因にもなっているのだろう。何方も否定をしないから噂は収束することが無い。
「シンの時と同じように広間にいますよ」
他の組織の者との接待の時にも使われる広間に拾われた相手だけがいるのだろう。自身の時を思い返せば容易にその光景が目に浮かぶ。
「シン」
「なんだ」
「お前も会いたいか?同朋かもしれないぞ」
「……ヨスガが会えと言うなら会おう」
「なら、命令だ。俺についてこい」
此処に工藤の意思はない。否、現在は、無い。未だ組織のボスと拾われた男、もしくは手の内の銃弾の一つ。シルバーブレッドの名は当初から知られていた。リィンに掛かれば江戸川コナンと工藤新一を結び付ける事は容易だったようだ。にまにまとした笑みを浮かべるリィンの姿が廊下の柱の陰に目に入る。何かを企んでいるという事は判るがその内容までは把握できない。何方にしても命令があれば従うまでだ。
大きな扉の奥に新しく拾われた男がいる。気配が感じられない。ヨスガの瞳が興味深そうに煌いた。
重々しい音を立てて開かれる扉の奥に、その男はいた。
ひゅっ、と鳴ったのは自身の喉か。
「お前が今回拾われた男か」
「拾われた、というか売り込みに行ったんですけどね」
思わず伏せてしまった目に男がどんな表情を浮かべているのかは見えない。
何故此処にあの男がいるのだろうか。
痕跡など全て消したはずだ。
それに目的はまだ達成していないだろう。
ぐるぐると工藤の脳内には疑問ばかりが回っていく。その為、男とヨスガが交わす言葉を殆ど聞こえていない。ヨスガがちらり、と工藤へと視線を投げるが何事も無かったように男へと視線を戻した。
「名は」
「黒羽快斗です」
「シンの知り合いか?」
「それが貴方に関係ありますか?」
その問いかけに、ぴりっと空気が凍る。肌を焼くほどの熱量と、同じだけの冷気が黒羽を中心に渦巻き、それをヨスガは楽しそうに見ている。再度、ヨスガは工藤を見るが判りやすいほどの空気の変化にも気付くことが出来ないほどに混乱を極めている。その事実に、この男と出会うことは工藤の中では有り得ない事だったのだと判断する。そして、この男をどう扱うかも脳裏で計算を重ねていった。
「あるな。此奴は俺が拾った。故に、俺の物だ」
言い放つヨスガに、黒羽は口元を歪めた笑みを浮かべる。
「新一は昔から、今も、俺の物ですよ」
昏く光る紫紺の瞳には執着に濡れ敵意に満ちている。ヨスガを相手に堂々と敵意を見せる愚か者は余程自身の力を過信しているか、ヨスガの力を見誤っているかのどちらかでしかなかった。
けれど、目の前の男はそのどちらでもない。
酷く愉快な気分になったヨスガはくつくつと、次第に声をあげて笑う。
其処で漸く工藤が思考を戻した。
はくり、と慄く口唇は言葉を発せない。
困惑に満ちた瞳はただ黒羽を見つめている。
視線に気付いた黒羽はにやにやと笑みを浮かべるヨスガを視界から外し工藤へと向きなおる。ヨスガは止めることはしない。
「久しぶり、新一」
黒羽から溢れるのは懐かしい故郷の言葉。
そして、変わらぬ黒羽の気配に此方へと来てから長らく張り詰めていた心の線が綻びそうになる。けれど、最後の一線で持ちこたえた。
会うつもりはなかった。
「なんで…」
「俺さー、怒ってんだよ。新一が居なくなったってのに哀ちゃんは何にも教えてくれないし、探そうにも痕跡も残ってない。流石にあっちの片手間に探そうとしても無理だって判断したから死ぬ気であれは見つけ出して終わらせた。で、漸く探し出したと思ったらこんな遠いとこまで来てんだもんな」
「だって」
「なに?お前の居場所わかってから哀ちゃんに聞いたら、俺には教えんなって言ったんだってな。なー、まだわかんないの?お前がいないんならこんな世界必要ないんだぜ?」
「そこまでだ」
暗く歪んだ紫紺が睨みつけてくるたびに心が軋んで悲鳴を上げていく。そんな顔をさせたいわけじゃなかった。ただ、自分の意思で裏のさらに奥へと行こうとする以上これ以上は巻き込んではいけないと思った。
これ以上聞いていたら心が軋み割れ戻ることはなくなる。
そう思ったところでヨスガの制止の声がかかった。言いたいことの半分も言えず湧き上がる不愉快さを隠そうともしない黒羽の姿はあの頃と重ならない。
「んだよ」
「シンが嫌がっている。お前が何を言っていたのか知らないが、そいつを壊すなら誰だって容赦はしない」
「はっ!…本当に、新一は厄介な奴を惹きつける」
「そんなにこいつと居たいのならこのファミリーにはいればいい。此奴は謂わば俺の影だ。更にその影になるか?」
工藤を支える影になるか、と聞くヨスガに愚問だと返す。満足そうに笑うヨスガの真意はわからない。わかるのは一つだけ。
このまま黒羽が受け入れれば、工藤以上にその存在が表に出ることはない。
それは、長らく裏稼業に身を窶していた黒羽も気が付いているのだろう。ヨスガの真意を確かめるように目を眇め、そして、工藤へと視線を移していく。似たようで色の違う二つの瞳が交錯し、縺れ、解れた。
くっと口の端を吊り上げ、ヨスガへと向き直る。
「いいぜ。お前の駒になってやるよ。ただ、勘違いするな。俺はお前の部下なわけじゃない。新一がお前を見限らない限りお前に力を貸す。お前が新一を裏切るような行動をした瞬間、新一が何と言おうとお前は俺の敵になる。忘れるな、お前は俺の上にいるわけじゃないことを」
「理由は何だろうと構わない。シンがお前の楔となるならそれは俺にとって何よりも判りやすいラインになるな。俺がシンを裏切るわけがない」
ゆるりと目元を緩めて笑う男は過去を思い出すように目を閉じ口元を緩ませた。その表情には慈愛に満ちていて黒羽はぎしり、と心臓が軋むのを感じる。工藤とこの男の出会いを知りたいと、関係を確認したいと強烈な渇きと共に湧き上がった。
仮に工藤が黒羽よりもこの男の方が大切だと言ったならば。
「快斗、いいんだな」
「お前が俺の隣にいるのなら、場所は何処でもいいんだよ。立場だってなんだっていいんだ。お前が選んだ道に俺は添いたい」
「でも、お前にも叶えたい願いがあっただろ」
パンドラという名のついた災厄を内包した宝石。
父親を殺した組織との対決。
そのどちらも自身の日常を切り崩してでも叶えたい悲願だったはずだ。
「此処に居たら叶わなくなるぞ」
裏の裏、更にその奥。自身の本来の名前すら忘れそうになるほどに隠された存在になる。それが、工藤新一として選んだ道だった。ヨスガはそれを理解し、それでも、と『シン』と呼ぶ。
それはヨスガ自身にも覚えのある行動だったからなのかもしれない。
自身の望みよりも組織の有益を選ぶ。それが此処に所属する全ての存在の意義。
「構わないよ。パンドラは見つけた。けど、やっぱりというか、俺だけの力じゃ奴らをどうにかすることは出来なかった。だから、他の方法を探したんだ」
それは工藤が求めた道と同じだった。
裏にはびこる物を濯ごうとすればそれよりも強くならねばならない。
だから選んだ。
「それが新一と一緒に居られる事にもなるなら一石二鳥でしょ」
「……人を殺すことも、あるんだぞ」
出来るのか、誰よりも優しいお前に。
問いかけの言葉は言葉にならなくとも届く。黒羽の表情は次第に柔らかく包み込むように変化していく。それは問いかけにはそぐわない優しさに満ち溢れた物だった。
「そんなのどうでもいいんだよ。元々俺が優しくするのは新一相手だけだぜ。新一を守るために、新一の居場所になるためなら、そんなのどうだっていい」
「…はぁ。お前がいいなら、俺はいい」
黒羽がその心を決めた時点で工藤の中でもこれ異様逃げるのは止めようと心が決まる。
そっと寄り添うように黒羽の隣へと移動する工藤の姿をヨスガは視線で追いかけた。
「これからはお前ら二人で組め。で、黒羽快斗、お前も名を伏せるならそのようにするがどうする」
「新一と一緒で」
「判った」
鷹揚に頷くヨスガに此処で工藤と再会してから聞きたかったことを尋ねた。
「あんたにとって、新一は何なんだ」
上司と部下というには余りにも言葉の端端に宿る物が甘く溶けている。其処に何かあると邪推せざるを得ない。
「安心しろよ、シンと俺の間には何も無い」
ひらり、と手を振るヨスガの姿に嘘は無いようである。けれど、工藤を見る目には甘さが宿っている。
「ただ、シンは俺の恋人―…いや、元恋人だな。そいつに似てるんだ」
苦く笑う口元と遠くにまだその相手を想っている事を悟る。
はっと吐く息には後悔が含まれぐしゃり、と金糸の髪をかき混ぜている。
「あんな思いは二度としたくねーからな。お前も、そいつが大切なら確り捕まえていろよ。俺ンとこ来てだいぶたつがそいつは無茶ばかりだ」
呆れた様に疲れた様に言う姿には常のボスとしての威厳は無い。
黒羽と工藤の姿に自身の過去の姿を重ねたのか。
カツン、と床を鳴らし部屋を出ていく後姿をリィンも追いかけていく。
音を立てずにしまったドアは外と中を断絶させた。
「あの人は大切な人を自分の手で殺してしまったと悔やんでいたんだ。そんな時に俺に会った。俺を拾ってくれた。訳アリなのなんてすぐにわかっていただろうに、何も聞かずに裏で生きる術を教えてくれた。俺とあの人の関係はそれだけだよ」
「しんいち」
「あの日、お前に言うのが怖くて、もし軽蔑されたらと思ったら何も言えなかった。お前の手を離す事よりも、お前に軽蔑されることの方が怖かった」
でも、と工藤は言葉を重ねる。
「お前なら此処まで追ってきてくれるんじゃないかって、心のどこかで思ってた。その時は逃げないでお前に向き直ろうって決めてた」
「追わないわけ、ないだろ。追うに、決まってるだろ。例えその手が血にまみれようと、俺の手が血にまみれようと、お前の居ない世界に意味はないんだ」
そっと、細く長いマジシャンとしての指先を握りしめる。怪盗をしていても汚れる事が無かった手をこれから先どれだけ汚してしまうのだろうか。追ってきた彼を避けて遠ざけて拒んで日本に返すのが一番いい事なのだろう。けれど、手放すこと等出来そうにない。
「俺はお前に付くんだろ?なら、命令してよ。お前から俺が離れないように、何時までも傍に居ろって。言ってよ」
工藤の手にふわふわとした癖毛が縋りつく。
「言って」
懇願と希う色にまみれた声は低くかすれていた。
ぎゅっと強く握られた手のひらと頭の上から落とされた望んだ言葉。
何方ともなく伸ばされた腕の中に納まる互いの体温があるのならば、たとえこの先何が変わろうとも自分達の想いが変わることは無い。
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