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名前は急いでいた。
学校から帰って来るとダイニングテーブルの上に自分宛の一通の手紙が置かれているのを見つけので、差出人の名前を確認すると『響良牙』と力強い文字で書かれていた。
早く自室に戻って手紙を読もうと思っていると、母親が呼びつけて「油揚げ買い忘れちゃった、買いに行ってきて」とお使いを頼まれてしまったのだ。
仕方ないので手紙は夜のお楽しみとして取っておこう、そういう訳で商店街で目当ての油揚げを2枚買って家に帰って来る途中だったが、その帰り道の途中でまったく奇妙な光景を目にしてしまった。
2本足で立つ狸の子供と、それに絡んでいるヤンキーのような2本足で立つ狐2匹。
よく出来たかぶり物だ、演劇の練習でもしているんだろうか、そう思いながら見過ごそうとすると、恐怖で泣き震える狸の子供と目が合った。
「俺らも物分りいい方だからよ、置いてくもん置いてくれたら見逃してやってもいいぜ」
「えっ、で、でもぼく、揚げ玉しかもってません…」
「ああん!?なめてんのか、俺ら狐は油揚げしか食わねーんだよ!」
「………」
名前はついさっき買ったばかりの買い物袋の中身を見て、大きくため息をついた。
「本当に助かりました!ありがとうございます!」
狸のかぶり物をしている少年はぺこぺこと頭を下げた。
名前は狸と狐2匹のやり取りをみて、演劇の練習だとは思いながらなんとなく油揚げの入った買い物袋を差し出してみると、演技とは思えないほど狐は興奮して油揚げを口に咥えて立ち去ったのである。
そして狐に絡まれていた狸の少年は「ぼく、なにかお礼がしたいです!」と言い、腰元にぶら下がった小さな巾着袋を漁る、そして「少ないですけど…」と言って手のひらに乗せてきたのは葉っぱやどんぐりだった。
「すみません、ぼく、あんまり収入がないものですから…」
どうやら狸の世界では木の葉やどんぐりが通貨という設定らしい、なかなかに役になりきっている。
「いや、いらないです」と名前が言うと狸は目を輝かせて「なんて謙虚な人なんだっ、助けてくれた上に、謝礼もいらないなんて…」と感銘を受けていた。
「せ、せめてお名前だけでも教えてください!」
「…苗字名前です」
「名前さん…素敵なお名前…」
ぽっと狸の頬が色づく、しかし名前にはこれ以上演劇の練習に付き合う時間はなく、またお使いの再スタートを始めなければならなかった。
商店街の方へ向かう名前の背中をいつまでも見つめながら、狸はうっとりしたため息をついた。
夜、ざあざあと降り続く雨が窓ガラスを撫でるように濡らしている。
名前は少し濡れそぼった髪の毛をタオルで拭いながら自室に戻り、そのデスクの上に置かれた手紙の封を丁寧にハサミで開けた。
今や絶滅危惧種だと言われてしまいそうなほど古風な縦書きの便箋に綴られた内容は良牙が行った場所や出会った人、そしてそこで食べたものなどが事細かに記されている。
そして最後には日付が書かれていた、『土曜日のこの日にそちらに戻ります。午前10時に風林館高校近くの森林公園で待っています。よかったらおれとお茶でもしませんか』、ふとカレンダーを見た。
「あ、明日じゃない!」
名前は自室で叫んだ。
次の日の午前10時、風林館高校近くの森林公園。
昨夜はまるで嵐のような雨が降っていたが、この日は打って変わって雲ひとつない快晴だ。
ここはデートの待ち合わせ場所としてはメジャーなスポットだった、大広場の噴水前では着飾った女性や身なりを整えた男性がそわそわしている。
彼らはその場所に来て1時間足らずで必ずお相手が現れた、そうすると2人して公園を後にしてどこかへ行ってしまう、1組、2組と噴水前にはカップルたちが姿を消していった。
名前は約束の時間に1時間待った、クリーニングから引き取りたてのワンピースだったのでおかしいところはないだろうかとやたら裾を気にしながら相手を待っていた。
2時間待った、履きなれないミュールのつま先が窮屈で気になる、時たま地団駄を踏むみたいに片足ずつ動かしながら、相手を待っていた。
3時間待った、そろそろ噴水の音も聞き飽きた、相手は来ない。
「良牙くん、おそいなあ…」
そんな待ちぼうけを食らった可哀想な少女の様子を木陰から眺める影があった。
「名前さん、かわいそうに…良牙ってやつはなんてひどいやつなんだっ」
昨日助けた狸だ、どうやら名前の後をずっとつけていたようだった、「せめてぼくが変われたら…」と呟いた。
その時、狸はひらめいた、そして腰にぶら下がった巾着袋を漁り、そこから子供の手のひらくらいの大きな葉っぱを取り出し、頭の上にポンと乗せる。
そして肉球同士を擦り合わせて、「りょーが、りょーが、りょーが…」と魘されるみたいに唱えると、ポンと煙が上がった。
次の瞬間、そこには狸の姿は忽然と消えた。