杉元夫婦の日常
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「ねー、名前ちゃん、いいでしょ、ね?」
「絶対に、二度と、飲みません!」
このところ毎晩、このやりとりが続いていた。
俺は、もうあと一杯か二杯ほどの量しか入っていない酒瓶を片手に、俺の肩を押して嫌がる名前ちゃんに迫る。
それでも名前ちゃんは絶対にその中身を口にすることは、あの日以来なくなってしまった。
あの日というのは、北海道からわざわざ関東まで、俺の古い友人(?)である白石が自宅に訪ねて来た時だ。
あいつは「せっかく訪ねてあげたんだから、一晩くらい泊めてよね!」と気持ち悪い甘え声をあげながら、鮭の干物と、2升の地酒を土産として持ってきた。
その夜は懐かしさも相まって、俺はあまり好んで飲まない酒を飲んで、夜更けまで白石と話し込んだ。
名前ちゃんはそれに付き合い、酒のなくなりそうな徳利を換えたりして台所にずっと立っていた。
白石は俺の女房を図々しく「名前ちゃん」と呼びつけて、酒やつまみの世話を見るより居間に来いと誘う。
「こっち来て俺たちと飲まない~?」
名前ちゃんは常日頃から古風な考えをする人なので、その日もやはり「女が酒を口にするなんて…」と渋った。
しかしこの白石は面の皮が通常の何倍も厚く、それでいて自分の調子に他人を合わせるのがうまい男なのだ。
「名前ちゃん、ちょっと考えが前時代的過ぎるぜ。今や、女性も酒を嗜む時代、それに…」
白石は俺に聞こえないよう、名前ちゃんに何か内緒の耳打ちしていたが、恐らくあれはこう言っていたのだろう。
「杉元が酔い潰れるところ、見たくない?」
名前ちゃんはころっと落ちてしまった。
今までは亭主である俺が何度酒の席に誘っても、応じることはなかったというのに…。
まずはお猪口に薄く注いだ酒を一口。
俺と白石はごくりと動く彼女の喉元に目が釘付けになる。
唇に残った酒のしずくを舌で舐めとると、名前ちゃんは動きを止めた。
「おいしい…」
名前ちゃんは目を輝かせて言った。
その後、白石は面白がって名前ちゃんのお猪口が空になるとすぐに酒を注ぎ、ついに一升瓶を空っぽにした。
俺は酒に酔うと悪癖が出る。
それは白石をはじめ、アシリパさんにも言われていて(二人はただそれを面白がっているようにしか思わなかったが)、俺も自覚はあった。
なぜなら俺は悪癖が出たところで、意識や記憶を失ってしまうことはほとんどないからだ。
いよいよ俺も酒で頭がぼんやりして来たところで、白石はニヤニヤしながら俺の肩に腕を乗せてくる。
「そろそろ杉元クンも酔いが回ってきたんじゃない~?」
「な、何だよ白石ぃ」
「ほら!名前ちゃん、これがおたくのご主人の本当の姿ですよ!」
「い、いやぁ!名前ちゃん、見ないで~!」
ぱっと熱くなる顔を手で隠す。
しばらく経つと「…あれ?」とどこかしらけた白石の声が聞こえて、俺もつられて手をどけて名前ちゃんを見た。
「………」
「もしかして、奥さんかなり酔ってらっしゃる…?」
名前ちゃんは目が座っていた、未だかつてないほどに。
「佐一さん」
「えっ、な、なに名前ちゃん!?」
肝がどっしりと据わったような、どすの効いた声で呼ばれたので、俺は崩していた足を正した。
名前ちゃんはお猪口片手に俺に近づくと、着物が乱れるのにはしたなく片膝たてて俺の目の前に座りなおした。
近づいた唇から漏れる呼気がかなり酒臭いことよりも、ちらりと露わになった太ももに白石が鼻の下を伸ばしたことが気になる。
「名前ちゃん、は、はしたないよ、足見えちゃうから…」
「は?何よそ見してるんですか」
「えっ」
名前ちゃんは指先でしなやかに、そしていやらしく俺の頬をなぞった。
その仕草はまるで普段の彼女とはまったく正反対で、俺は思わず乙女のような吐息交じりの悲鳴を上げてしまった。
「佐一さん、貴方の妻は一体誰なんですか?」
「ひゃっ…、え、つ、つま?」
「だ・れ・で・す・か」
「あっ、あ、名前、ちゃんです!」
名前ちゃんは指を頬から滑り落とし、俺の着流しの襟を広げながら鎖骨を触れるか触れないかの微妙な距離でそっとなぞった。
なんでこんなに巧妙な手つきが出来るのかは、わからないが。
「そうでしょう。つまり、私のことだけ見ておけば良いんですよ」
「はっ、はい…!」
「えっ、俺は?」
白石の呟きはこの際聞こえなかったことにした。
名前ちゃんは満足そうに口元を緩めると、鎖骨を撫ぜていた指をさらに着流しの中へ忍ばせて、俺の胸を筋肉の筋に沿ってゆっくり動かす。
もう片方の手は着物の襟を広げて、あっという間に俺の上半身はひん剥かれてしまった。
「いやぁっ、名前ちゃんダメだって、白石が見てるから!」
「うん…気にしてくれてありがとう…」
「佐一さん、ダメじゃないでしょ?そんなんじゃいつまで経ってもおあずけになっちゃいますよ」
あの照れ屋で内気な名前ちゃんが、俺の耳元に顔を寄せて、うんと色っぽい声音で囁いた。
「どこを、ナニで、どうしてほしいか、ちゃんと言って?」
俺はその時、下半身に急激に血流がさがって行くのと同時に、頭を銃弾で打ち抜かれてしまったかのように理性が飛ぶのを肌で感じた。
次の日の朝、名前ちゃんは頭が痛くて気持ち悪いと言いながら朝餉を作っていた。
俺は昨晩の夢のような時間を隅から隅まできちんと覚えていて、まだ少し熱が残る自分の肌をさすりながら、その思い出に耽っていた。
白石は目が死んでいた。
名前ちゃんが作った味噌汁はどうも出汁が入っておらず、とても薄かった。
でも俺は昨晩のことに耽りすぎて、あまり気にならなかった。
名前ちゃんは出汁を入れたかどうかすら定かではないようなので、「あれ、どうしてこんなに薄いんだろう…」と可愛らしく眉間に皺を寄せて考えている。
白石が「ううん、丁度いいよ…しょっぱくて美味しい」とやはり死んだ目で言うので、名前ちゃんは酒のせいで自分の味覚がおかしくなったんだと誤解していた。
「しばらくは寄らないから…安心して…」
それが白石の帰り際の言葉だった。
それから俺は、冒頭のように何度も名前ちゃんを晩酌に誘うけど、彼女は二日酔いにすっかり懲りてしまって、絶対に口にしたくないと拒み続ける。
…しかし、どうやら彼女は自分の「悪癖」には気づいていないようなので、喉元過ぎて熱さを忘れたころに飲ませてやろうと、俺は彼女の知らぬ間にたくらむのだった。